二日目(1):背負った覚悟
……もう何時間たっただろうか。
東の地平線では朝の到来を告げる光が燦然と輝いている。頭上では小鳥が軽やかに踊りながらさえずり、夜の主役である月は、まもなく舞台裏へ下がろうとしていた。
そんな幻想的な朝の訪れとはおよそ無関係の、小さな空き地に、ぼくと怜音はいた。目の前に五階建てのマンション(ぼくの家だ。ちなみに、501号室)があるため、陽光が遮られて一日中薄暗い。そんな薄暗い空き地に。
ぼくは倒れていた。
『うっ……うっ……』
「泣いている暇があったら立ち上がりなさい」
切れ味のよい日本刀のような怜音の言葉に、ぼくは畏怖の念を感じなら立ち上がった。だが、ぼくが完全に立ち上がる前に、彼女の強烈なハイキックが飛んできた。もはや何度繰り返されてきたか分からない攻撃。いくら学習能力の高くないぼくでも、順応しないはずも無かった。彼女の攻撃パターンは全て把握している!
腰をかがめながらハイキックを避け、鞭のようにしなる彼女の足から一定の距離を保つ。しかし、距離を保ったからといって油断は出来ない。ぼくは次に来るであろう中段突きを予測しながら、体を横に捻った。案の定、彼女の中段突きはぼくの体を掠めて唸りを上げた。
――ここが反撃のチャンスだ!
ぼくは体を捻った反動で、全体重を乗せた回し蹴りを彼女の背中に浴びせようとした。吹き飛べ、天乃川怜音!
「遅い」
回し蹴りが回りきる前に、ぼくは左半身に衝撃を感じた。まるで体の真横から巨大なハンマーに打ちのめされたように、ぼくの体は一直線に吹き飛んだ。だが、ここで簡単には諦めない。地面に体が接触するまでの数秒でぼくは体を翻す。霊体は便利だ。重力をまったく受け付けない。
再び体勢を整え、あたりを見回す。
『……あれ?』
怜音がいない?
さっきまで、そこにいたのに。
と、次の瞬間、ぼくは背後から突き倒された。うつぶせに地面に倒れ込み、後頭部をつかまれて顔を地面に押し付けられる。地面に顔がめり込み、沈む。幽霊だから、地面をすり抜けることも可能なのだ。
しかし――
『れ、怜音さん……』
「何かしら?」
ぼくの後頭部を掴み、地面に押し付けたまま怜音は答えた。
『あの……なぜか息が苦しいんですけど』
「当たり前じゃない。地面の下に霊素はほとんどないから」
『れいそ?』
「大気中に漂っている気体。酸素みたいなもので、霊はこれがないと窒息死するわ」
『幽霊が窒息死なんて聞いたことねぇよ……』
死んだ後も死ぬのかよ――。いや、肉体が死んでも魂は残る。ゆえに、生まれ変わりは可能。だが、魂が死んでしまったら何も残らない。それは死ぬというより、消滅に近かった。存在の――消滅。
しかし、なるほど。幽霊になって物をすり抜けられることを知ってから、『ひょっとしたら地面を突き抜けてブラジルまで行けんじゃないか』とも思っていたが、これでは無理そうだ。
『いや、っつーかさ、怜音。……いいかげんその手を離せよ!』
地面に頭を押し付けられ、四肢をじたばたさせてもがくぼく。このまま地面をすり抜けて逃げようかとも思ったが、彼女の爪が頭に食い込んでいて逃げようにも逃げられない。
このままでは幽霊初の窒息死だ。
「浩哉、カレーライスとライスカレーってどう違うのかしら?」
『どっちも同じだ! てか、話を逸らすな! し――死ぬ!』
ようやく頭にかかる圧力が無くなった。ぼくは溺れかけた人のように、頭をがばりと上げ、大きく息を吸い込んだ。
朝の新鮮な空気が鼻や口から入り込み、体の――霊体の隅々にまで染み渡る。
「でも――だいぶ霊体としての自分に慣れてきたみたいね」
怜音が冷たく言い放つ。まだ呼吸が苦しいため、ぼくは言い返すことが出来ない。
「まずは霊体としての自分に慣れることが重要なの。守護霊としての本格的な修行は、それからね。でも、ひとまず、第一段階の修行はクリア。第二段階は、学校から帰ってきたら始めるわよ」
怜音はそう言って、すたすたと空き地から出て行った。
『ケケケ、調子はどうだ?』黒丸がニヤニヤと笑いながら、ぼくに近づいてきた。『守護霊としての修行は大変だろ』
『まあね。でも、引き受けちまったからさ、彼女の守護霊役を。覚悟は出来ているよ』
怜音はこれから、徐々にあの世の人間としての能力を失っていく。
彼女は五日だと言った。五日で、この世の人間になると言った。
ならば、ぼくはその五日以内、できるだけ速く、彼女をあの世の追っ手から護りきれるほど強くならねばならない。
生半可な覚悟で引き受けたわけじゃない。
『そういえば、怜音は?』
『お前の家に帰ったよ。学校までまだ時間があるから、それまで寝るんじゃないのか』
『そっか』
あの世の人間には生理現象がほとんど無い。食事も睡眠も、もちろん無い。だが、怜音の体は徐々にこの世の人間のものになりつつある。睡眠をとるのも当然だ。ましてや、この第一段階の修行は、昨日の夜中からずっとやっていたのだ。疲れないはずが無い。
ただ、もうそろそろぼくの両親が起きる頃なので、見つからなければいいが。まぁ、怜音なら心配要らないか。
『じゃあ学校行く時間になったら起こしに行くか。ぼくはそれまでぶらぶらしてるよ』
『ああ……』
ぼくは空き地から離れようとした。幽霊だからなのか知らないが、あまり疲れは無い。痛みもすぐになくなる。ぼくは久々に朝の町を散歩でもしようかと思った。
その時、見慣れた人影が目の前を通り過ぎた。あまりにも速くて一瞬しか見えなかったが、見間違えるはずはない。なぜなら、そいつはぼく自身。《瀬戸内浩哉》こと白丸だったからだ。
『白丸!』
呼び止めると、白丸はくるりと体をこちらに向けた。
「あ、浩哉さん。おはようございます」
『……お前、何やってるの?』
「見て分かりませんか? ジョギングですよ。ジョギング」
たしかに、白丸はぼくのジャージを着ている。額には爽やかな汗が滲んでいた。
「浩哉さん、運動不足ですよ。この体、かなりなまってます。だから、私が鍛えて差し上げようと思って――」
そう言うやいなや、白丸はバック転をしながらぼくに向ってきた。軽やかに、まるでプロの新体操選手みたいに飛び、ぼくのちょうど目の前に着地した。
「どうですか?」
白丸はにっこりと笑った。得意満面ってかんじ。
……あまりの驚きに声が出ない。運動オンチのぼくの体で、よくそんなことが出来るものだ。体は同じでも中身が違うと、こんなにも違うものなのかなぁ。
「では、学校に行く時間になるまで走ってきます」
『お、おう……』
ぼくが返事をする前に、白丸はすでに走り去っていた。その後姿はみるみるうちに遠ざかり、気づいた時には既に見えなくなっていた。
『……ぼくも散歩に行こう』
あんな凄いことを見せ付けられて調子が狂ったが、ぼくは本来の目的を思い出した。いざ、散歩に行かん。
『おい!』
直後、背後から黒丸に呼び止められた。
……ったく、この犬どもは。
『どうした?』
『あ、いや……』
妙に煮え切らない様子の黒丸。目が眼窩の中で微妙に泳いでいた。
『や、やっぱ――なんでもない』
明らかに様子がおかしかったが、ぼくはたいして何も考えずに『そうか』と言って、朝の町に繰り出した。
この時のぼくは、まだ何も気づいていなかった。
怜音を護りきるということしか、頭の中に無かった。
それがどれほど重い意味を持っているのかも知らずに――