五日目(7):護れる力
ぐんぐんと、怜音の背中に近づく。だが、彼女はもう光の中に入りかけていた。手を伸ばしても、叫んでも、彼女には届かない。あとほんのわずかな距離がとても遠く感じられた。
それは希望を煽る、絶望的な距離だった。
すべてを諦めかけた。もう駄目だと、思考回路が停止を促した。
――ふざけるな!
諦めるな! とにかく行動しろ! 四の五の言わず動け! 考えるのはその後だ!
『もうお前を失いたくないんだよ!』
何も考えずに、ぼくは右腕を怜音に向って伸ばした。それは当然届くはずもなく、その手は中空を空振りした。掴んだものは虚無。遠ざかる後姿。指先から力が抜けていくのを感じた。
その時――
ぼくの右手から赤い閃光が怜音に向って伸びた。
《赤い糸》。
それは持ち主の意思によって、伸縮自在に操れるもの。
ぼくの想いが、赤い糸に乗った。
赤い糸は怜音の腕に絡まった。ぼくはすかさず、それを強く引いた。怜音がぼくに向って落ちてくる。呆気にとられた六連星の顔が視界の隅を掠めたが、ぼくの瞳の中には怜音だけしか映っていなかった。
――このまま中空で彼女をキャッチする。
考えるよりも先に、ぼくは両腕を広げた。
だが、彼女はぼくをすり抜け、地面に向って真っ逆さまに落ちていった。驚いた彼女の表情が、コマ送りで視界を上から下へ駆け抜けた。
あの世の人間は、霊に触れられる。それは逆もまた然り。霊であるぼくは、怜音を抱きとめることが可能なはずだった。
そう、怜音が完全にあの世の人間であれば。
怜音はこの世の人間の体になろうとしていた。つまり、いまの彼女の体は、あの世とこの世の中間の能力を有している。
だから霊に触れられなくても、霊が触れられなくても、それは当然のことだった。
『うおぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおっっ!』
ぼくは腹の底から叫んだ。腹の底から湧きあがった声は、空間そのものを振るわせた。
一直線に地面に向って飛び、怜音の落下を追い越す。
それは一瞬の出来事だった。
瞬きをしている隙に、すべてが終わるようなスピード。
ぼくは、倒れているぼくの体に――瀬戸内浩哉の体に入り込んだ。久しぶりの、自分の体。この五日間、白丸が毎日トレーニングを欠かしていなかったので(「浩哉さん、運動不足ですね」)、体は以前よりもわずかに逞しくなっていた。
ぼくは体に入るのと同時に起き上がり、落ちてきた怜音を全身で受け止めた。怜音の体重に加え、落下の速度と重力が重なり、ぼくの体に衝撃が走った。ひょっとしたら腕が折れたかもしれない。だが、そんなことは気にしていられない。気にする必要はない。
怜音は、何が起こったか分からないといったような表情をしていたが、ぼくに抱きとめられたことに気づくと慌てて飛び退いた。
「な……なな……」
舌が回っていないようだった。彼女は顔を赤らめてあたりを見回すと、ぼくを指差した。
「な、なに? どういうこと?」
「ごめん、やっぱり別れるのはいやだ」
にっこりと、満面の笑みをぼくは浮かべた。うん。会心の笑みだ。
呆気に取られていた六連星も、やがて地面に降り立った。
「六連星、悪いけどこれがぼくの答えだ。怜音はやっぱり渡さない。今度こそ、絶対に護るから」
「……キミ、元の体で――この世の人間の体で、ボクに勝てると思うの?」
やれやれ、と六連星は呆れた風にため息をついた。
たしかに冷静に考えてみると、この状況はぼくにとって絶対的に不利だった。あの世の人間の身体能力は、この世の人間の比ではない。ましてや、相手は上級裁判官である六連星奏風。傍から見れば、これは途方もないくらい絶望的だろう。
だが、不思議とぼくはこの状況に絶望していなかった。根拠はない。勝てる根拠はない――けど、負ける気はしなかった。
六連星はぼくを見て、それから怜音を見た。そして、急に何かを思い出したかのように、手のひらをぽんと打ち合わせ、笑った。
「レイン、さっき浩哉くんの――霊体としての浩哉くんをすり抜けたよね。ってことは、あの世の人間としての力が無くなったわけだ」
六連星は納得したように首を縦に振った。
「レインにはボクの姿ももう見えてないし、声ももう聞こえないはずだ。だって、キミはもうこの世の人間なんだから。……待てよ。ってことは、もうボクはレインを捕まえなくていいんじゃん。だって、レインはこの世の人間になっちゃったんだから」
うんうん、と再度首を振る六連星。ぼくらのことを無視し、勝手に話を進める。
「じゃあ、ボクはもうあの世に帰らなくちゃ。帰って報告しなくちゃね。『レインは、既にこの世の人間になってたから、追うのはもうやめます』って」
「六連星――」
「浩哉くん、レインをよろしく頼むよ」
六連星はそう言って、ぼくらに背を向けた。そして光に向って飛び立った。
「ソフィー!」
怜音は叫んだ。涙をぽろぽろと零し、それでも懸命に叫んだ。
「ありがとう!」
六連星は小さく手を振り、光の中に吸い込まれていった。光はそれで役目を終えたのか、すぅと消えてなくなった。
月明かりと星たち、そして灯篭山に群がる火の玉たちが、再び夜空を照らし始める。その光は眠っている町を優しく愛しんでいるようだった。
――時間が二人を包み、流れていく。ゆっくりと歩調を緩め、二人のリズムに合わせるように。
ぼくは怜音を見つめた。彼女もぼくを見つめた。
「怜音――」
あの時約束したこと。それを果たすために随分と回り道をしてしまった気がする。けれど回り道をしている間にぼくは色々なものを拾って来た。それは時としてぼくを勇気づけ、時としてぼくを傷つけ、それでもぼくは確かに集めてきた。あの時のぼくに無かったものが、今のぼくにはある。彼女を護れるだけの力が――確かにある。
そして、今なら確信を持って言える。
「これからも、一緒にいてくれないか?」
「……ええ」
もう泣かなくて済む。
もう傷つかなくて済む。
悲しい思いはさせない。
辛い思いはさせない。
これからは笑って楽しく生きていけるよ。
心の奥でそう思いながら、ぼくは怜音を力の限り抱きしめた。
温かい優しさの涙が、二人の瞳からゆっくりと零れ落ちた。
これで五日目は終了ですが、まだエピローグ的な話が一つあります。つまり次が最終回です。間違えてこれで読み終わらないでくださいねw
最終話の更新は明日のお昼ごろです。ぜひ、最後までお付き合いください。