五日目(6):ナミダのわけ
小一時間、意識を失っていたような気がした。けれど本当は一瞬の出来事で、現実の時間は先ほどとまったく変わっていなかった。
深夜の十二時過ぎ。
過去の失われた記憶から十年以上の歳月を経て、ぼくの意識は今に戻ってきたのだ。
目の前には六連星、そして怜音の姿がある。無論、怜音の姿は十七歳の怜音であって、五歳の怜音ではない。しかし、その翳りのある表情はあの時と変わっていなかった。
六連星は怜音を庇うように前に出た。
「キミがレインに関する記憶を失っても、レインはずっとキミのことを想っていた。キミはずっと、レインに護られていたんだよ」
ぼくはずっと、怜音に護られていた。
たとえぼくが彼女のことを忘れていても、彼女はぼくのことを忘れていなかった。そして、それが罪だと分かっていてもぼくを生き返らせた。ぼくのことを護るためにこの世に来て、ぼくを守護霊にした。そして五日間、ぼくを護りきった。
――彼女はどんな気持ちだったんだろう。
自分のことをまったく忘れている男を、自らを犠牲にしてまで護って。寝る間も惜しんでぼくの修行に付き合って。吐くくらい辛い思いをして。あの世の両親や友人を裏切って。そして、その罰を受けることになって。
自分自身の無知さに腹が立った。あまりに愚かすぎて、自分自身を殺してしまいたい。彼女の表情、彼女の仕草、彼女の心、ぼくは何一つとして理解していなかった。彼女の抱えているものを、一緒に抱えてあげられなかった。それどころか、彼女にひどい言葉を投げつけたり、彼女の前で友人との思い出話をしたり、彼女を護るという大言壮語を吐いたり。
――護られていたのは、ぼくの方だったというのに。
ぼくの愚かな発言や振る舞いに対し、怜音は何て思っただろう。きっと、辛かっただろう。もうやめようかとも思ったかもしれない。すべてを話して楽になろうかとも思ったかもしれない。
でも、怜音はそうしなかった。
怜音の優しさが、それを許さなかった。
そう思うと、心の奥底が痺れたような感じになった。
『…………ッ』
思わず涙が零れた。ぽつり、ぽつりと。想いは言葉ではなくて、言葉にはできなくて、塩辛い雫となって溢れ出た。
こんなにもぼくを想っていてくれた人がいたなんて。
こんなにも愚かなぼくを、優しく護ってくれていた人がいたなんて。
たとえぼくがそれに気づかなくても。
泣いても泣いても、涙はとまらなかった。
「浩哉……」
か弱い声が聞こえた。それは震えていて小さく、儚く、静寂の中でも消えてしまいそうな声だったが、ぼくの耳にははっきりと聞こえた。
怜音の声。
六連星が後ろを振り向く。そこには、顔を上げた怜音が立っていた。瞳には何かをやり遂げようという強い意志が宿り、唇は強く結ばれ、手は握りこぶしをつくっていた。
彼女は一歩、また一歩、前に出た。そして六連星のわきを通り抜ける。
「浩哉」
今度の声は震えていなかった。けれどそれはまだ小さく、掠れていた。怜音らしい凛とした声とは、ほど遠かった。
「浩哉、わたし嬉しかった。あの時……保育園の片隅で、本当は震えていたの。一人が怖くて、他の人が怖くて、震えていた。震えを隠すために本を読んでいたけど、やっぱり怖かった。――あなたが話しかけるまでは」
怜音はまた歩み始めた。一歩一歩、ゆっくりと。彼女の周りだけ、時間の進み方が違うように思えた。
「あなたはわたしにとっての光だった。あなたと一緒にいるときだけ、とても幸せだったわ。でも、わたしは他人と話したことや遊んだことがほとんどないし、わたしと関わるとろくな目に遭わない。――だから、あなたに辛い思いをさせたこともいっぱいあったかもしれない。けど、あなたはそんなわたしを見捨てないでくれた。一緒にいてくれた。それがすごく――嬉しかった」
その表情は憂いを帯びていた。今にも泣き出しそうで、普段の彼女からは想像もつかない表情だった。でも、それが彼女の本当の顔なのかもしれない。壊れてしまいそうなあやふやさを、あの冷たい瞳や言葉で隠していただけなのかもしれない。
やがて、怜音とぼくの距離は一メートルも無くなった。手を伸ばせば、彼女に触れられる。
しかし、ぼくの手は動かなかった。体が動くことを忘れてしまったみたいに。
彼女はぼくの首筋に触れた。
「もう、これはいらないわね」
ぱさり、とぼくの首から何かが落ちた。
それは《赤い糸》。
いままでぼくの首を絞め続けていたものであり、同時にぼくが怜音の守護霊であった証。ぼくと怜音を繋ぐ赤い糸。いまは縮んでいて、ぼくの片腕くらいの長さになっていた。
「あの時、あなたはわたしを護ってくれた。だから、わたしもあなたを護った。レイン=セイファートとして、あなたを護れた。だから、わたしは満足。でも――」
そこでぼくは初めて怜音の笑顔を見た。
けれど、その笑顔は涙で濡れていた。
「天乃川怜音として、ずっとあなたと一緒にいたかった……」
彼女の泣き顔を見るのは、これで二度目だった。一度目も二度目も、別れる時だった。
涙が――想いの雫が、月明かりを受けて美しく輝く。涙で濡れた彼女の顔は美しく、儚く、淡く――辛そうだった。
「今までありがとう」
涙が止まらない。悲しみの雫が視界を覆い、世界が滲んで見える。
その世界の中で、ぼくは確かに彼女の泣き顔を見た。
「……さようなら、浩哉」
怜音はぼくに背を向け、歩き出した。
それを見た六連星は頷き、率いてきたあの世の軍団に退却の指示を出した。
全員が一斉に、夜空に昇り始めた。光が天から降りそそぎ、一人、また一人とその光の中に吸い込まれては消えていく。まるで空にぽっかりと白い穴が開いているようだった。
黒丸、そしてぼくの体から抜けた白丸もその後に続く。白丸がいなくなり、抜け殻となったぼくの体は地面に倒れており、まるで寝ているようだった。
怜音は振り返らなかった。彼女の後姿が天に昇り、どんどん遠ざかってゆく。光の中に入ってしまったら、彼女はもう戻ってこれない。彼女との想い出は戻ってきたが、彼女は二度と戻らない。戻れない。……もう二度と、会えない。
『そんなの……いやだ。こんな別れなんて、望んでない……』
ぼくは落ちている赤い糸を拾い上げた。そのもう一方の先端を持つべき人は、この世から去ろうとしている。結ばれたはずの赤い糸は、切れてしまったのではなく、持ち手が手放してしまった。
彼女は幸せだろうか。
この世での生活は楽しかっただろうか。
ぼくを護り切れて満足だろうか。
そんなはず――そんなはず、ない。
『だってお前、まだ一度も笑ってねぇじゃんか!』
叫ぶよりも先に、ぼくは飛び上がっていた。光に向って。
――怜音に向って。