五日目(5):得たものと失ったもの
光が瞼の裏に広がる。もう既に太陽は地平線の彼方に沈んだはず。でも、この光は街灯の光とか、そういう人工的なものではない。温かさや優しさを含んだ、そんな光だった。直視しても、眩しいとは感じないだろう。
ぼくはそう思い、瞼を開いた。
ここで初めて、自分が寝ていたことに気づいた。
「怜音!」
隣に怜音はいなかった。岩の上には、ぼく一人だけだった。
「怜音!」
護ると約束したばかりなのに。
泣きたくなる気持ちを押さえ、彼女の名前を叫んだ。周囲を見回したら、意外にもすぐに怜音の姿を見つけることが出来た。
彼女は開けた空間の真ん中にぽつりと立っていた。吸い込まれるように空を見上げている。
「怜音!」
三回呼んだにも関わらず、怜音は何の反応も見せなかった。それは彼女の性格が素っ気無いからではない。何かを見つめていたからだ。
唐突に、眩い光が空から降りそそいだ。光は開けた空間に舞い降り、そこから一人の大人の女性が現れた。
流れるような銀髪に、琥珀の瞳。立ち姿を含め、怜音そっくりだ。
無数の火の玉が揺れ踊る。まるでその女の人を歓迎しているみたいだった。
「長い間、待たせてごめんなさい。辛かったでしょう、レイン」
女の人は怜音に優しく微笑みかけた。万物全てを優しさで許すような笑みだった。
そして次の瞬間、ぼくは信じられない光景を見た。
――怜音が泣いている。
銀色の涙の粒が彼女の頬を伝い、地面に流れ落ちる。
気丈な彼女は、いままで一度も人前で涙を見せたことはなかった。どれだけ辛い目に遭おうとも、どれだけ悲しい思いをしようとも、彼女は絶対に弱さを見せなかった。
その怜音が、周りの様子を気にすることもせず、泣いていた。その涙には彼女の想いが、一粒一粒に込められているようだった。
「お母さん……」
怜音はそう呟き、女の人を抱きしめた。女の人は怜音の頭を優しく撫でた。
「あなたは、本当は天界――あの世の世界に生まれるはずだった。でも、生まれる前に魂がこの世に流されてしまったの。今まで気づかなくてごめんなさい……」
女の人は怜音を抱きしめた。決して強くはなく、しかし、優しく包み込むように。
「本当に辛かったでしょう。あなたはあの世の人間ですもの。この世の人間から見れば、受け入れがたい違和感のようなものがあったのでしょう……」
女の人は怜音の頭を撫でながら、ぼくを見た。ぼくは思わずその瞳に見入ってしまった。いまだかつて、こんなにも慈愛に満ち溢れた目をした人には出会ったことがなかった。
「あなたはレインのお友達?」
「……は、はい」
「……あなたは霊が見えるのね。とても特別な力を持っている。だからレインに違和感を覚えなかったのね。でも、その力のせいで辛い目にもあったでしょう」
辛い目――
それは、お母さんに『せいしんか』というところに連れて行かれたことだろうか。あれは、たしかに嫌だった。先生を含め、すべての人がぼくを変な目で見てきたからだ。ぼくはただ、そこに立っていた影のない人に話しかけていただけなのに。
一瞬だけ、そんなことを思い出した。けど、
「いやなことも、ありました。でも、とってもいいこともありました」
それは彼女に――怜音に出会えたこと。それは他の憂鬱なことすべてを吹き飛ばすくらい、ぼくにとって大きなことだった。
女の人は優しい口調で言った。
「でもレインは、本当はあなたたちとは違う世界の人なの。だから、元の世界に帰らなくちゃいけない。……わかるかな」
「はい……」
人も鳥も太陽も、帰るべき場所がある。怜音も、ようやく帰る場所を見つけたようだ。それはとても幸せなことだ。
「怜音が幸せなら、ぼくも幸せです。だから、ぼくは悲しくないよ」
「……偉い子ね、あなたも」
女の人は聖母のように微笑んだ。
「さぁ、レイン。浩哉くんにお別れしなくちゃ」
怜音は涙をごしごしと拭き、ぼくを見た。まだ涙の浮かんだその目には、普段の冷たさは欠片も感じなかった。
「浩哉……」
震える声で、彼女は言った。絞り出すように、かすかな声で。
「いままで……ありがとう」
そして、怜音は光の中に消えていった。それは一瞬だった。もう彼女はこの世にいないと、幼い自分でも理解できた。
女の人は再びぼくを見て、言った。
「レインはこの世に生まれてくるはずではなかった。だから、レインに関わったすべての人の、レインのことに関する記憶だけを消させてもらいます。浩哉くん、ごめんね……。あなたの記憶も消さなくちゃいけないの。でも、レインは一生、あなたのことを忘れないと思うわ」
「ぼくも絶対、怜音のことは忘れないよ」
「……そうね」
女の人は一瞬、悲しそうな表情を見せた。そして両腕を広げた。光がぼくを包み込んだ。いや、おそらくこの町すべてを。でも悪い心地はしない。その光は慈愛のような温かさに満ち溢れていたのだから。
「いままでレインと仲良くしてくれてありがとう。お礼に、あなたの特異な力を封じ込めました。これで、あなたも辛い思いをすることはなくなるはず――」
優しい声は、そう言い残して消えていった。
その声に耳を傾けながら、ぼくは怜音のことを考え、それから一週間後のことを考えた。
一週間後には、小学校の入学式だ。毎日、怜音と一緒に学校に行って、怜音と一緒に勉強や遊びや、いろんなことができる。友達だって、小学校に入ればいっぱいできるさ。先生だって、いい人がいっぱいいるはずだ。
だから……もう、泣かなくて済むよ。
――そして、ぼくは怜音のことをすべて忘れた。
「もうこんな時間だよ。お母さんに怒られちゃうよ」
「うるさいわね、京介。置いてくわよ。今日こそ『ヒノタマ』ってやつを見てやるんだから」
「待ってよ、梨恵」
どこからか二人分の声が聞こえてきた。
いや、それよりもぼくはここで何をしていたんだろう。一人でボールを持って、こんな誰もいないところで。
声はだんだんと近づいてくる。そして――
「やっと頂上だ――! って、ん? あなた、だぁれ?」
見知らぬ女の子にいきなり話しかけられた。いや、それよりもぼくは何でここに。そして、なんでボールを持っているんだ。このボール、ぼくのじゃないのに。ていうか、ここはどこ?
頭の中に色々な疑問が浮かんでは消え、ついに脳内回路がショートした。
ぼくは思わず駆け出した。この意味のわからない事態から脱出するために。ぼくのショートした頭は、そんな答えを出した。しかし、それはたった二秒で撃沈した。
転がっていた石に躓いて、思い切りこけたからだ。
「だいじょーぶ?」
さっきの女の子がしゃがんでのぞき込んできた。転んだおかげで、うまく体が動かない。逃げることができない。
「あたし、梨恵。で、こっちのノロマは――」
「俺はノロマじゃねぇ。京介だ。お前は?」
ぼくの頭の中はようやく落ち着いてきた。とりあえず、返すべき言葉が口から出てきた。
「ぼくは浩哉。瀬戸内、浩哉」
「そっか、浩哉っていうんだー」
女の子はにこにこと笑った。なぜか久しぶりに、こんな屈託のない笑顔を見たような気がした。
「今日から、あたしたち友達だね。よろしくね、浩哉」
――こうして、ぼくは今に至る。失ったものも、失ったことも知らずに……。