五日目(2):すべてはあなたのために
先手必勝。それは黒丸と何度も打ち合わせていたことだった。
相手は大群で来る。その数は予想できないが、それを想像しても無駄だ。おそらく想像を絶する多さだから。
『だから先手必勝なんだよ』
相手より早く動き、速く動く。不意討ち上等。卑怯と言われようが何と言われようが、それしか生き残る術がないのだ。ただし、そこには絶対条件があった。
――怜音は必ず護ること。
それは守護霊として、そして何より瀬戸内浩哉の信念として、必ず守り貫かなければならないものだ。たとえ我が身を犠牲にしても、彼女だけは護り抜く。そう心に決めていた。
だから行動に迷いはなかった。右腕を日本刀の形状に変化させ、敵の大群に突撃する。不意討ちを受けて面食らう使者たちの表情が、コマ送りで視界を駆け抜けていく。ぼくは無我夢中で右腕を振った。
何かを切り裂く感触、何かを切り落とす感触、何かを切り刻む感触。その感触一つ一つが右腕を伝い、脊髄を震えさせ、脳髄を痺れさせる。もはや考えることは出来なくなっていた。ただ視界に入り込んだ敵を切り捨てるのみ。それでも、心の片隅では一つの言葉が残っていた。
――怜音を護れ。
視界の端に怜音を捉える。彼女は《断罪》を小さくしたような光の球を幾つも体に纏い、敵を退けている。
ぼくの首に巻き付いている赤い糸からは、力は流れ込んでこない。彼女も戦うことで精一杯なのだろう。ぼくに力を送る余裕は無いはずだ。ぼくは自分一人の力で敵と戦い、彼女を護らなくてはならない。
分かっていたことだ。こんなことは、事前に何度も確認したことだ。
黒丸が暴れている。校庭を縦横無尽に駆け巡り、その鋭い牙で敵を薙ぎ倒していく。あれなら当分、大丈夫だろう。
白丸は敵の攻撃を懸命に避けていた。体は生身の人間である瀬戸内浩哉なので、武器になるものは何一つ無い。しかし、まるでバネのように体をしならせ、嵐のような攻撃を避け続けていた。ぼくでは、あそこまで華麗に避け続けられないだろう。あらためて、白丸の身体能力の高さを思い知らされた。
ぼくも頑張らなくては。
だが、その思いに反して、体が徐々に重くなっていくのを感じた。右腕に力が入らない。足も棒になってしまったかのように動いてくれない。段々と、敵の攻撃を深く受け始めた。痛みが体中を駆け巡り、もはやどこが痛むのか分からない。それどころか、このままでは痛覚すら無くなってしまうほど、体中が痛覚に支配されてしまう。
頭の中で乱気流が発生したみたいに、思考が統率されない。視界もぼやけてきた。焦点が定まらず、敵の数が増えたり減ったりする。まるで出来損ないの映画を観ているようだった。
そのうち、右腕が動かなくなった。同時に驚くほどの眠気が込みあがってきた。幽霊になってから眠気というものを一切感じなかったが、今はふかふかのベッドが恋しい。その身をベッドに預け、意識を深い暗闇に沈めたい。何も考えたくない。
……もう、疲れた。
「そこまでよ!」
凛と張った声。どんな目覚まし時計よりも強烈で、そして寝覚めの良い感覚を与えてくれる声。思考は冴え渡り、視界は澄み渡る。徐々に手足の感覚が戻ってくる。ただし、痛覚というお友達を連れて。
ぼくの、ぼくとしての機能が完全に戻りつつあった。
怜音の声に、引き戻された。
「ソフィー、あなたたちの負けね」
倒れた敵の数は相当なものだ。しかし、尚もまだ半分近くの敵が立っていた。黒丸は敵と共に地面に倒れている。おそらく、相討ちにでもあったのだろう。
白丸は片膝を着いて、肩で息をしていた。疲労困憊といった様子。いくら身体能力の高い白丸でも、瀬戸内浩哉の体が持たなかったのだろう。
死屍累累といった、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図……とまではいかないが、その風景の中で一際目立っているのが、天乃川怜音だった。
彼女の周りには、誰一人として立ってはいなかった。地面に懐いているかのように、全員が倒れ込んでいるからだ。
怜音は学校に備え付けられている大きな時計を指差した。
「十二時過ぎ。これで五日経ったわ。――わたしたちの勝ちね」
見ると、確かに時計は夜中の十二時を過ぎていた。これで、ぼくが怜音の守護霊となって、丸五日が過ぎたことになる。
六連星は静かに笑った。
「たしかにボクらの負けだよ。そしてキミらの勝ち。だけど、キミは負けだね、レイン」
「そうね……天乃川怜音は、ね」
怜音は六連星に向って歩き出した。観念したように両手を上げて、目を伏せ、けれど足取りは軽かった。
『怜音?』
「聞こえなかった、浩哉? あなたとレイン=セイファートは勝った。でも、天乃川怜音は負けたのよ。……いいえ、どちらにしてもわたしの思いどおりだから、わたしの勝ちには変わりないけどね」
『どういう意味だよ!』
「ソフィー、わたしはもう抵抗しないわ。早くあの世に帰りましょう」
六連星は怜音に手錠のようなものをつけた。
「あの子には何も言わなくていいの?」
「いいわ。さっさと行きましょう」
『さっきから何の話をしてんだよ!』
わけがわからなかった。まだ怜音の体はこの世の人間のものになっていないはずだ。だから、たとえ五日経っても、あの世の追っ手から逃げる必要があるはず。それなのに怜音は今、自ら追っ手に捕まった。しかも、勝っただの負けただの、意味がわからない。
思考が混乱の渦を巻いていた。
『怜音! まだお前はこの世の人間になり切ってないだろ。だから、まだ逃げなくちゃいけないはずだろ? ここで捕まったらすべてが水の泡だ』
「ソフィー、早く行きましょ」
『怜音!』
そこで初めて、怜音はぼくを見た。冷たい、何もかもを見下し――何もかもを諦めているような目だった。
「もう、あなたはわたしの守護霊じゃない。白丸があなたの体から出ていくから、あなたは自分の体に戻りなさい。そして、前と変わらない日常を過ごしなさい。元の生活に戻れるのよ? あなたが望んでいたことじゃない」
『ふざけるな!』
思わず叫んでいた。
こんな終わり方……こんな結末、こんなのはぼくが望んでいたものじゃない!
『お前はこれでいいのかよ? この五日間、何のための五日間だったんだよ! この世の人間になるために、お前だってあんなに苦しんでたじゃないか! 本当に何のために――』
「すべてはキミのためだよ」
見ていられないよ、と六連星は言った。怜音とぼくの間に入り込み、彼女はぼくを睨んだ。憎悪のようなものを孕んだ目だった。人からこんな目を向けられたのは初めてだった。
「ソフィー、あなたは――」
「レインは黙ってて」
有無を言わさぬ圧力が、その一言にはかかっていた。
六連星は再びぼくを睨みつけた。
「ボクたちが追っていたのは、本当はレインじゃない。ボクたちが追っていたのは――キミだよ。ボクたちの目的は、瀬戸内浩哉という存在の抹殺だったんだ」