二日目(4):儚く脆い心
空き地に面した小さな道を少し行くと、少し大きな公園がある。こちらは周りに遮蔽物が何も無いので、月明かりを全面に受けてその姿が浮き彫りになっていた。人が三人くらい座れるベンチ。二つのブランコ。なぜか砂場だけは大浴場並みに大きかった。
ブランコと砂場の間に小さな水汲み場があった。蛇口を捻ると水が流れ落ち、すぐに下の排水溝へ吸い込まれていく。主だった使用用途は水分補給ではなくて、子供たちが作る砂のアート用だろう。砂を水で固めて、思い思いの作品を作り上げる。ぼくも昔、よくやったものだ。
だが、今は草木も眠る丑三つ時。子供の姿は、当たり前だが見当たらない。
ただ一人、怜音を除けば。
怜音は水汲み場のところにかがみ込んでいた。じっと排水溝を見つめるように。ぼくには気づいていないようだ。
しかし次の瞬間、彼女は苦渋に満ちた表情を浮かべた。
そして、嘔吐した。
苦しそうに胸を押さえ、込み上げてくるものを吐き出す。吐瀉物は排水溝に吸い込まれて消えていくが、彼女の吐き気は治まらなかった。既に胃の中のものを出しつくし、今は胃液しか出ていない。それでも彼女は辛そうに吐いた。その背中は小刻みに震え、まるで泣いているように見えた。
ぼくには、なにが何だか分からなかった。
あの気丈な怜音が、あんなに苦しそうな姿を見せるなんて、誰が想像できるのだろうか。
胸が疼く。先ほど感じていた不安が心の中で膨れ上がり、破裂しそうだ。声をかけたい衝動が突き上げてくる。
『おい――』
小声が後ろから聞こえ、ぼくは振り返った。
黒丸がいた。『ついて来い』と目で言っている。ぼくは、まだ苦しそうに俯いている怜音を見てから、黒丸の後を追った。
『……お前も見たか』
空き地に戻ってすぐに、黒丸は言った。さっきの怜音と同じように、苦しそうな表情を浮かべて。
『ご主人はプライドが高い。お前にだけは、あんな姿、見せたくなかったんだな』
『怜音はどうして――』
『お前は何も知らないからな』
ぼくの言葉を遮るように、黒丸は言った。そこで、初めてぼくと黒丸の目線がぶつかり合った。
彼は怒っていた。
他でもない、ぼくに。
『あの世の人間が、この世の人間になるってことは簡単じゃねぇ。体の構造をまるごと変えるんだ。それを、ご主人は五日でやってのけようとしている。ご主人の体には、俺らが想像も出来ないくらいの負担がかかっている。……実際、相当辛いはずだ』
ぼくは知らなかった。
彼女が「五日だ」と言ったら、五日で出来るのだと思っていた。彼女に不可能は無いと思っていた。
……いつの間にか、ぼくは彼女のことを分かっている気がしていたのだ。まだ出会ってから日は浅いが、ぼくは「彼女を護る」という驕りゆえか、彼女のことを自分勝手に理解していた。人の心の奥深さ、奥ゆかしさも知らずに。あたかも彼女のことを知っているようなふりをして。人の心は、そんな単純なものではないのに。
黒丸は知っていた。彼女が辛い思いをすることを。しかし、彼も苦しんでいる。知っていながら何も出来ない、自分自身に。
『あの人は強いが、脆い。俺たち守護霊は、あの人の強さも脆さも、支えなくちゃならねぇんだ。お前に――お前なんかにそれが出来るのかよ』
最後は非難するような口調だった。
ぼくは即答できなかった。ぼくの中に重たい石が投じられ、それがぼくの心にヒビを入れた。そして、そこから大切な何かが零れ落ちていく。ぽたぽた、ぽたぽた、と。
『ぼくは――』
言葉が途切れる。その後が出てこなかった。
――もう既に、全て零れ落ちてしまったのだ。心の中に満ちていた覚悟は、それ程しか無かったのだ。
ぼくは今朝のことを思い出した。昨日の晩から今日の明け方まで、怜音はぼくの修行に付きっ切りだった。それなのに、彼女は学校にいる間も、京介と梨恵に誘われて町の見学をしている間も、嫌な顔ひとつしなかった。
そして、ついさっきまでも、彼女はぼくの修行の面倒を見ていた。弱音も吐かずに。疲れも見せずに。気丈を保ち。あくまでも怜音らしく。
――胸が苦しい。熱いものが胸の奥から込み上がってくる。ぼくは俯き、地面を見つめた。自分の無知さを嫌悪し、それでも何も出来ない無力さを噛み締め、闇に染まった地面を見つめ続けていた。
「――何をしているの」
凛と澄み渡る声。ぼくが頭を上げると、そこには天乃川怜音が立っていた。
「頭は冷えた? じゃあ、修行を続けるわよ」
――あくまでも怜音らしく。その背中に冷光さえ携えて。弱さは、一切見せない。
それが、脆く儚げだった。触れたら壊れてしまいそうな脆さ。研ぎ澄まさっているが、ひどく不安定な心。
「どうしたの?」
彼女が振り返る。腰までとどく長い銀髪が、羽のようにふわりと舞った。
「早く始めるわよ。時間も無いし」
『……ああ』
今、ぼくは決めた。
生半可で中途半端な覚悟はいらない。
ぼくは全身全霊で君の守護霊になろう。
そして、君を護り抜く。
心に入ったヒビは、もう消えていた――
二日目終了
残り三日
二日目終了です。最後の方は、今までの話よりかなりシリアスでしたが、これからはそういった話が増えていきます。
さて、残るは三日。物語は後半へ入ります。
しかし、三日間何も起こらないわけがありませんw
これからの浩哉と怜音の活躍にご期待ください。