第一楽章 序曲『私の全てのはじまり』
新企画『セリフ小説』にて書き上げた短編小説です。これは決められたセリフ3つを必ず何処かに入れる、と言うもので書いてみると意外と難しいものです。
他の作家さんの作品は「セリフ小説」と検索すると見つかると思います。
是非、読んでいってください。
あと感想なんかもお待ちしております。
曲目 交響曲『明日へと続く道』
第一楽章 序曲『私の全てのはじまり』 二重奏・結絵と正輝より
その日は雨が降らなかった。
先週の何曜日だったか、この辺に梅雨入り宣言が出たばかりの頃。その次の日からずっと雨が降り続けていた。空からたくさん降ってくる雨の粒。その一つひとつを出来るだけ瞳で追っていった。上から下に落ちるまでの、そのほんの一瞬を私の瞳に焼き付けたくて追い続けた。瞳は絶対に動かさない。ただ視界の一番上を窓枠の一番上に合わせて、視界の一番下を窓枠の一番下に合わせるだけ。
そうして来る日も来る日も、私は外で降る雨だけを追いかけていた。
飽きもせずに、ううん、飽きることを知らずに眺めていた。だって、あの雨は私にとっての憧れみたいなモノだったから。あの時降り続けた雨は私に何か大きなものを与えてくれたから。だから私は外だけを見続けた。
まるで何かに魅了されたみたいに。
そこに、外に広がる世界に私の希望が、私の夢があると思えたから。
他の人が聞いたら「何で?」とか「馬鹿じゃないの?」とか思うかもしれない。けれど、それでも私はあの雨に何か大切な想いを抱いていた。それだけは変わらない。
私は、雨が好きになったんだと思う。
でも、その日は雨が降らなかった。
空は曇っていたけど、でも空から雨が降ってくることはなかった。それがとっても悲しく感じて、心配になって、泣きそうな気持ちになった時、あの人が入ってきた。
「調子はどうだい? ちゃんと朝ご飯は食べたかな」
そう言いながら開く扉の音に体が少しだけ震えた。
窓の外を見ていた顔が自然と音のした方向、扉の開いた方へと向き直る。そこで初めて駄目だと思った。でも、それはもう遅いことだった。
「さてと、今日の問診っと」
カルテだけを見ながら近づいてくる先生は全く気がついていない。けど、今の私にはどうしようもないくなっている。何とか隠そうとしても隠せない。
そうしている間に、先生はカルテから目を放し私を視界に捕らえていた。
「なっ、結絵ちゃん何処か調子でも悪いのか? それか何処か痛むのか?」
あーあ、やっぱりこうなっちゃった。こうなることくらい分かってた筈なのに、こうやって余計な心配はさせたくなかったのに、それなのに結果がこれ。
「ううん、平気だよ。ただ、ちょっとだけ悲しいことがあっただけ。だから心配しないで先生、私は大丈夫」
「そうか」
言葉で表すなら、それはきっと「情緒不安定」だったんだと思う。日頃の積み重ねがそうなっちゃったんだと思う。だから意味もなく泣いたりとか怒ったりとかして、周りのみんなを不安にさせてしまうんだって最近になってわかってきた。
だから私は、周りのみんなに心配させたくはなかった。余計なことで余計な心配をして欲しくはなかった。
そんな風に考えるようになったのは、そう言えばいつ頃だったんだろう? 随分と昔のことだった気がする。けど、そう誓ったことは確かに今も憶えている。
だけど、この涙は違うかもしれない。不安定とかそんな言葉で片付くようなモノじゃないと、そう少しだけ思ったりもした。
「よし決めた。ちょっと良いかな?」
何を決めたのかは知らないけど、確かに先生は何かを決めたらしい。そう言って自分を膝を叩くと、私が横になっているベットに身を乗り出してきた。正直言ってビックリした。何がしたいのか全く予想もつかないし、何をされるかもわからない。一気に近づいた先生の顔は在り得ないほどに近かった。そこまで近いとこっちは緊張するばかりなのに。
「な、何を決めたんですか?」
「ちょっと出掛けてこよう」
「は?」
「だから、ちょっとだけ部屋を抜け出そうってこと」
夢だ。直感的にそう思った。まさか、先生ともあろう人がそんなことを言うとは思いもしなかった。だから、これは夢だと思った。
でも――
「……っ、痛い」
頬を抓ったら痛かった。
「おいおい夢なわけないだろうが」
「だって――…」
その先を言おうとして止める。何だか急に反論する気が失せていった。代わりに、なら楽しもうと思うようになった。ううん、自分でそう思い込ませた。
「じゃあ何処に行くんですか?」
「そうだな、何処が良い?」
「私は何処でも」
本当は違う。私に「何処でも」なんて言う資格はない。だって私は何処も知らないから。外の世界なんて何にも知らない、知っているのはこの部屋くらいだけ。検査とかそんな大事な日くらいしか部屋を出れない私に、初めから行く場所なんてなかった。
ただ、一つだけあるとしたら――
「……屋上」
「ん、何か言った?」
「私、屋上に行きたい」
「屋上って、ここの屋上?」
「うん」
うーん、と腕組のポーズをしながら考えること数秒。
「本当に屋上なんかで良いのか?」
「うん」
「よし分かった。じゃあ行こうか」
「うん!」
そして私達は病室を飛び出した。何でもないのに心がわくわくして、どうでも良いのに体がうきうきして、それが楽しくて、嬉しくて、何より新鮮だった。
その日は雨が降らなかった。
分厚い雲が何処までも続いているだけで、そらから雨粒が降ってくることはなかった。でも、それでも悲しいとか、心配とか、泣きそうな気持ちとか、そんなものは不思議と出てくることはなかった。
だって、それよりも大きなものがあったから。それよりもっと大きくて、もっと大切で、もっと新鮮なものがあったから。
私は屋上の真ん中に立っていた。
他にいるのは先生だけ。それも見張りみたいにドアの所から私を見ている。
今この屋上には、あの病室には無いものでいっぱいだった。湿った空気が鼻を擽り、少しだけ暖かい風が肌を滑る。あの窓枠に収まりきらないくらい大きな山が遠くから見えて、それを瞳がしっかり捉える。
そこには私の知らない世界が何処までも広がっていた。
それは嬉しくて、楽しくて、ちょっとだけ羨ましいことだった。
「おーい、そろそろ戻るぞぉー」
「あと少しだけ」
「はいはい」
この世界を私はずっと見ていたかった。許される限りの間、この景色をずっと見続けていたかった。手に届くくらい近い場所にあるのに、絶対に触れられないその景色を私はずっと見ていたいと思った。
ふと、何かが私の頬を伝っていった。
てっきり、また泣いたんだと思っていた。けど私は泣いてなんかいなかった。でも、まるで涙みたいな何かが私の頬を伝って落ちた。
そして雨は降り出した。
何の前触れもなく、本当に突然。それも一気に雨は降り出してきた。ザーザーと音を立てながら降る雨はそこにある全てを濡らし染めていく。空も、大地も、屋上の古いコンクリートも、それに私も。
そして気がついた。今まで見ることしか出来なかった雨を体いっぱいで感じて、そして初めて知ることが出来た。
「あー、雨って冷たいんだね」
全身に打ち付ける雨粒はどれもが無感情で「冷たさ」の塊なんだと知った。
「でも、ちょっとだけ暖かい」
少しだけ、そう感じてもいた。
「結絵ちゃん、濡れちゃうよ。こっちにおいで」
先生が呼ぶ。それに振り向いて私は答えた。
「先生。私、雨が好きなんです」
そして語りだした。
「いつからかは憶えていないんですけど、でも、私は雨が好きなんです。理由は……それも忘れちゃいました。けど、これだけは言わせてください」
「何をだい?」
「でも、やっぱり雨は嫌いかもしれないんです」
「どうして?」
肺いっぱいに息を吸って、上を見上げて、落ちてくる雨を体でしっかり受け止めて、そしてゆっくりと口を開けた。
「だって、服が濡れちゃうから」
雨はより一層強くなって降り続けた。
まるで何もかも全てを飲み込むように――。