海月は見るもの?食べるもの?
獣医1年目の秋。
休みがない。忙しい。とわめきたくなるような日々を送っていた。
仕事に就く前から勤務の大変さは覚悟をしていたけれど、想像以上にキツイ。
もっとも4人いた獣医のうち一人が緊急入院してしまったから余計に忙しいのだが。
勤務ローテーションも滅茶苦茶になり、沙耶のスケジュールとかみ合わず、もう2ヵ月近く会っていない。
電車で30分の距離でも遠いのだと実感する。
来週には入院していた先生が復活するから、少しはましになるはずだ。
沙耶も遠方での裁判に関わっているらしく毎週のように出張があるようだ。
食事をちゃんとしてるのだろうか?
頑張り過ぎるから心配だ。
そんな時、院長から車の購入を打診される。
先輩たちに相談すると、みんな院長から車を買っているとのこと。
車好きな院長は新車が出ると買いたくなって、古いのを売ってくれるらしい。
確かに激務で夜間診療もあるから車があった方が便利だと思い始めていたのだ。
夜、沙耶にメールで相談してみる。
興味がないかと思ったら、ドライブに行きたいと返信が来る。
その一言で購入する方へグッと気持ちが傾いた。
院長の提示してくれた価格は確かに魅力的だけど、即金で買うことは出来ない。
借りるか……。
親父に久しぶりに電話して頼んでみると、こちらもあっさりと承諾してくれる。
実家に帰るには何度も乗り換えがあって面倒だけど、車なら楽だ。
結局、俺は車を購入することにした。
院長の新車が納入され、俺の元に車がやってきた。
ちょっと浮き立つ気分になっている。
週末の土曜日は勤務になっていたが、翌日曜日は休めそうだから沙耶を2か月ぶりのデートに誘う。
どこに行こう。
運転事体は大学時代友人の車をよく借りてたから問題はないと思う。
ナビもついているから行き先さえ決まればたどり着ける。
行き先を考えながら、そういえば俺たち東京で遠出したことなどないと気がついた。
映画を見ることはあったけど、家でまったり過ごすことの方が多かった。
休憩時間に病院を抜け出して、近くの本屋でドライブガイドを買ってみる。
ページをめくっていると、ある写真が目に留まった。
新江の島水族館
そして夕日の見えるレストラン。
一度ぐらいロマンチックなデートも良いじゃないかと思う。
日曜日。
沙耶の家に迎えに行く。
「どこに行くの?」
この間から何度も質問されてるけど教えていない。
助手席に座る沙耶は珍しくワンピースを着ている。
車を発進させて前を向いたまま「良く似合ってるよ」と褒めた。
「ありがと」
沙耶の声。
「ねえ、どこ行くの?」
「俺のお勧めデートコース」
「何、それ?一人で勝手に盛り上がってないで教えて!」
間違っても彼氏について行くなんてタイプではないから諦めないよな、きっと。
だから、サプライズで喜んでもらう計画をあっさり捨てる。
「江の島水族館に行って、江の島でも散策しようかと思ってる」
「江の島水族館!私、行ったことない」
「だろ?俺も」
二人で行ったことのない場所の話で盛り上がる。
一緒に行った場所もたくさんある。
海にも山にも一緒に行った、子どもの頃だけど。
遠足も修学旅行も同じ場所なのは幼馴染の特権かも。
そんな話で盛り上がっているうちに海が見えてきた。
「海、見たの久しぶり」
嬉しそうな沙耶の声に来た甲斐があると思う。
江ノ島水族館には駐車場がないらしく、隣の公営駐車場に車を停める。
サーフィンをする人たちが利用するためかフェンスにサーフボードが立て掛けてあったりする。
風はもう冷気を含んで少し寒く感じる。
俺は沙耶を抱えるように引き寄せた。
「さすがに寒くなってきたね」
沙耶も寒いのか珍しく嫌がらずに俺に寄り添ってくる。
また痩せたか?
仕事が上手く行かないと、途端に食生活が乱れる沙耶。
例の遠方の案件が大変らしい。
はっきりしたことは言わないけれど、どうも少年事件、おまけに冤罪の可能性ありのようで、沙耶の所属している事務所が総動員で動いているらしい。
とにかく今日一日は楽しませよう。
江の島水族館は何年か前に新江の島水族館となり綺麗な建物だった。
相模湾の魚が泳ぐ大水槽は圧倒的で、照度を落とした館内は居心地が良い。
水の流れを見ているだけでも癒される。
館内を回るうちにクラゲの展示室がある。
「スゴイ!」
沙耶が感嘆の声を上げた。
フワフワと漂う海月・水母・クラゲ、何とも幻想的だ。
かなり気に入ったようで随分長い時間見ている。
携帯を出してクラゲと一緒に沙耶を撮る。
シャッター音がしても気付かないほど夢中になってるのは意外だ。
その後イルカショーやアシカショーを見て、散歩したいという沙耶の希望で水族館の前に広がる砂浜に出た。
日差しが出てきて少し暖かくなってきた。
しばらく波打ち際を歩き、護岸の階段状に整備されている場所に腰かける。
沙耶はぼんやりと海を見つめ、俺も静かに隣にいた。
波の音、風の音、子どものはしゃぐ声。
ゆっくりゆっくり時間が流れる。
トンビが目の前まで降りてくる。観光客の食べ物を狙っているようだ。
その姿を目で追いながら沙耶が独り言のように話す。
「真実は一つしかないと思うのに、見方はいろいろあるんだよね」
そうだねと相槌をうつ。
「時々、何と闘っているいるのか分からなくなってくる」
無力感を漂わせる沙耶の頭をなでて抱き寄せた。
仕事を助けることは出来ないけれど、こうして隣にいることは出来るから。
疲れたら支えるから、俺の隣にいて欲しい。
弱気の沙耶に言えることではないけど、俺はそんなことを思っていた。
その内、お腹の虫が騒ぎ出し、昼を食べ損ねていることに気が付いた。
「どうする?」
そう聞いたけど、計画していたデートコースを続けるより、のんびり沙耶と過ごしたかった。
沙耶も同じ気持ちだったよう。
家路に向かう途中で見つけた食堂で遅い昼を食べることにする。
江の島名物シラス丼を注文したら、小鉢にクラゲの酢の物が付いてきた。
「ねえ、クラゲって見てても癒されるけど、食べてもおいしいね」
二人の脳裏にはフワフワ漂う海月の姿が浮かんでいる。
疲れている時にはお勧めの生き物。
沙耶は気持ちが少しは晴れたのか、シラス丼を完食し、帰りのドライブでは穏やかな寝息をたてていた。
その後、俺の部屋で夜まで過し、沙耶に栄養たっぷりの食事を作った。
疲れた表情がいつもの沙耶の顔になってくる。
「今日はありがとう。計画通りじゃなくてごめんね。でも水族館、楽しかった。クラゲも見れたし」
家まで送ると沙耶にそう言われた。
どういたしまして。ロマンチックなデートじゃなかったけど、ちょっとは役にたてたかな?
「幸平、明日からまた頑張るね」
おう頑張ろう!
為すべきことがあるのだから。




