水玉のマグカップ
6年の大学生活を終え、俺は獣医師の資格を得た。
大学の先輩のつてで都内の動物病院に勤務することになる。
自宅からは少々遠いのでマンションを借りた。
司法修習を終えた沙耶も法律事務所で働いている。
弁護士も資格を取ったからと言ってすぐに一人立ちできるわけではないらしい。
沙耶もやはり一人暮らしをしていた。
もっとも両親とも別々の相手と再婚しているから同居したくないのだろう。
親からは一緒に暮らそうと誘われているらしいが、俺でも断ると思う。
こうして俺たちは電車で30分の距離で暮らすことになったのだ。
俺の引っ越しに合わせて沙耶も休みを取ってくれる。
「なんで本ってこんなに重いの!」
小柄な沙耶は上の方に物を置くのは大変だから下段に入れるものをお願いしたのだが、重い本ばかりで怒っているのだ。
「無理しなくて良いよ。筋肉痛になっても知らないぞ」
「バカにしないで。ジョギングだってしてるんだから」
学生時代にジョギングサークルで走っていたが、司法試験の勉強中に入って止めていたようなのに。
「再開したんだ?」
「まあね、ここひと月ぐらいだけど」
「明日の朝、一緒に走る?」
俺の誘いに一瞬、沙耶の手が止まる。
うん、と小さな声で返事がした。
一緒に住んでしまうことも考えなかったわけではないけれど、一人前になるまでは仕事最優先にしたいと意見が一致したのだ。
でも一緒にいたい気持ちはある。
夕方になり、ようやく荷物を片付けた。
「さて、買い物にでも行こうか?」
お腹の虫も騒ぎ出したので、沙耶にそう提案した。
「賛成、お腹すいた」
「よく頑張ってくれました。お疲れさん」
ひょいと手が置ける高さの頭をなでる。
「子ども扱いして!」
小さいところが良いのに、そういうと怒るから言えない。
「してないよ」
「頭、なでた」
可愛いから仕方がないじゃないか。
俺はそう思いながら、屈んで沙耶の唇を奪う。
恋人になってもうずいぶん経つのに沙耶はすぐに照れる。
「早く行こう」
沙耶は逃げるように玄関に向かう。
引越したばかりの町は目新しく歩くだけでも楽しい。
駅前の古い商店街には美味しそうなコロッケを売っている店や
レトロな喫茶店があったりする。
駅の反対側に大きなショッピングセンターがある。
今日はそこに行くことにした。
食品から衣料、雑貨まで一通り揃いそうだ。
沙耶と手をつないで店を見て回る。
お洒落な雑貨店で沙耶が足を止める。
「中に入る?」
「ううん、いい」
「いいんじゃん、見ようぜ」
俺はさっさと店の中に入る。
輸入雑貨もあるようで色鮮やかなものや機能美があるものがたくさんある。
キッチン用品コーナーで使い勝手の良さそうな鍋をみつけた。
手に取ると重さも程よい。
料理好きの血が騒ぐ。
「これ、良くない?」
「いいんじゃない。でも、鍋、たくさんあったよ」
仰るとおりです。収納を考えるとこれ以上、増やせない。
でも、せっかくだから何か買いたい気分だった。
新しい部屋に最初に増える物は二人で選びたいなんて口には出さないが思う。
「これ、いいなぁ」
沙耶が水玉模様のマグカップを手に取る。
あんまり可愛らしいもの好きじゃない沙耶にしては珍しいセレクトだ。
「買う?」
「うん」と頷きながら沙耶はまだ何か言いたそう。
「幸平のマンションに置いておいてもいい?」
意外な、でも嬉しい提案。
「いいよ」
俺の返事にニッコリ笑い、青と赤の色違いのマグカップを手に取った。
「俺のも?」
「そう、お揃い」
沙耶の気持ちがわかる気がする。
二人の間が30分の距離になったのは、ずっと何百キロの隔たりがあったことからすれば劇的なこと。
モノトーンの色が多い俺の部屋で、きっとこのマグカップは存在感があるだろう。
照れ屋の俺たちの甘い気持ちの表れだ。
次の日、沙耶が帰った後、赤の水玉模様のマグカップにメモが入っていた。
メモには『誰にも使わせないで』と書いてある。
了解と心の中で返信をした。