ランナーズハイ 1
SIDE:沙耶
どうしてこんなことになっているのか自分でも信じられない。
息が苦しくて、足がもつれ始める。
「井原さん、初めはゆっくりでいいんですよ。自分の心地よいリズムでゆっくり走ってください」
隣から小牧さんが声を掛けてくれる。
ゆっくりも何も、もう止まりたい。
でも、でもせめてあの電信柱までは・・・・・・。
なんともお粗末な姿で私は走っている。
体育は苦手。泳げない、走れない、投げれない、数えだしたらキリがないほど出来ないことばかり。
そんな私が、走っているのは気のせいではなく本当のこと。
そもそも走ろうなんて思いついたのは、大学内を走る集団を見かけて事からだ。
体育会系の厳しい雰囲気ではなく、走るのを皆が楽しんでいるように見えた。
麻美にその話をすると入会しようかと思っていると返答された。
「えー走るの?」
「そう。気持ち良さそうじゃない。同好会で厳しい練習もないらしいんよ」
「しんどそうだよ」
「そこが良いんよ。ランナーズハイって状態経験してみたいん」
その時、初めて聞いた『ランナーズハイ』と言う言葉に私は気持ちを動かされたのだ。
そして、3日前から走り始めた。
初日は3分も持たずにダウン。
2日目は何とか5分走ったものの、次の日、生まれて初めて講義の最中に寝てしまった。
筋肉痛にも悩まされ始めた3日目。ついに1キロ走り通した。記録は9分57秒・・・・・・。
歩いた方が速いかもと先輩に冷やかされ、不思議なことに私の闘魂に火が点いた。
絶対、走れるようになってやる!!!
SIDE:幸平
『ランニング始めたの』
ある日、沙耶から言われた。
「誰が?」
俺は電話から聞こえた言葉が信じられずに訊ねる。
『私』
言葉に棘がある。地雷を踏んだかも・・・・・・。
こういう時、電話は困る。表情が解らないから沙耶の気持ちも掴みにくいのだ。
「へぇ~」
当たり障りのなさそうな返事を返す。
『3日前から始めたの』
そして沙耶はランニングを始めた経緯を説明してくれる。先輩に歩いた方が速いと言われたと悔しそうに言う。
『馬鹿にされたままなんて悔しいじゃない。絶対、走れるようになってやるんだから』
「頑張れよ」
『それだけ?』
「え、それだけって・・・・・・・。あんまり無理するなよ」
沙耶の求めていることが解らないから必死で言葉をつなぐ。
『良かった。幸平に止められるかと思ったんだ。私の運動嫌いを知ってるから』
「なんで止めるの?ゆっくり沙耶のペースで走ってみるといいよ」
『ありがとう』
沙耶は小さな声で言う。きっと恥ずかしがっていると俺は思った。
勉強では決して負けないが、運動は得意ではなかった沙耶。
運動会や体育祭では、いつも楽しくないと全身で主張していたことを思い出す。
頑張れとしか言えないけれど、俺は言霊を信じて口にした。
「沙耶なら走れるようになる」
電話の向こうから肯く気配を感じた。頑張れ、沙耶。
SIDE:沙耶
幸平は笑わずに頑張れと言ってくれた。
私が運動音痴なことを知っているから『止めたほうがいい』と言うかもと期待していたのに・・・・・・。
そう、私は苦手なことにチャレンジするのに躊躇いがあったのだ。
だから理由を探していたのだ――幸平が止めろと言ったからと言う理由を。
でも応援されてしまった。
『俺も勉強ハイって奴になってみたいよ』
そんな事を言って笑っていた幸平。
アイツも辛いのだ。
砂時計の砂が落ちるように時間が進みむと嘆いていた。
去年のアイツからは想像出来ないほどの集中力で勉強していた姿。
模試では散々な結果でも、諦めないよと笑って言った。
『大きな夢、掲げちゃったからね』
動物病院に見学に行ったらしい。
大変さや苦労談を山ほど聞かされも、その仕事は素晴らしい、社会に役立つ仕事だと思えたそうだ。
その気持ち、私も解る。
簡単に手に入れれるものではないから頑張り甲斐もあるのかもしれない。
幸平に走るときのコツを聞いた。
右足を出す時は左手が前!なんてふざけていたけれど『毎日、少しずつ走れるようになれば良いんじゃない』と言う。
アイツらしい答え。
でも近道はない。百里の道も一足からと言うのだから・・・・・・・。