雷鳴の先に見えたこと
そして、だいぶ時間が経った頃、雷が遠ざかり雨音が小さくなっていく。
俺は腕の中の沙耶に聞く。
「何があったんだ?」
沙耶が身体を硬くするのが解る。
「ママ、再婚したいんだって」
「………そっか」
もっと気の利いたことを言いたいけれど、人生経験の浅い高校生の俺には、掛ける言葉を見つけられない。
「それは、いいの。祝福できる自信あるから」
「そっか」
「嫌だったのは………」
沙耶の声が泣き声に変わった。
「…新しいパパと3人で……幸せになろうって………言われて、それが……どうしても、嫌だった」
「そっか」
やっぱり俺は何も言えない。
沙耶は声を押し殺して泣いている。ついこの間も父親のことで泣いていた。
――守ってやりたい
その瞬間、唯一つ思っていたこと。方法も何もわからないけど、そのことだけ思って沙耶を抱きしめていた。
濡れたTシャツ越しに沙耶の体温を感じる。
華奢なのに、やわらかい。
いつの間にか雨は止んでいる。
抱きしめていた体を離し、俺たちは狭いトンネルから抜け出した。
雨上がりの公園はとても静かで、電灯の灯りだけが煌々と輝いている。
いつの間にか虫がたくさん集まってきていた。
外に出た俺達は、ちょっぴり恥ずかしくて、わざとはしゃいだ声をあげた。
縮こまった身体を思いっきり伸ばして、俺はブランコに乗る。
小さい時みたいに立ち乗りして、思いっきり揺らした。
「沙耶もやろうぜ」
「子どもみたい」
そう言いながら沙耶も乗る。
「靴の飛ばしっこ、したよな。誰が一番遠くへ飛ばせるかって」
「やったね。私、苦手だったんだ、あれ」
「おまえメチャクチャ下手だったもんな。いつだったか前に飛ばさずに後に飛ばした事があってさ……」
沙耶の飛ばした靴はブランコの後の茂みに入って……。
そうだ、その靴を探しに行って俺達は死にそうな子猫を見つけたのだ。
ブルブル体を震わせ、弱々しい声を微かに出していた汚れた子猫。
沙耶がそっと抱き上げて、
「動物病院に連れて行かなきゃ死んじゃう」
って騒ぎ出し、俺が一緒に行ったんだった。
俺の家も沙耶の家もペット禁止のマンションだったから動物病院なんて知らなくて、隣町にあるって聞いて道を尋ねながら探したのだ。
「チビ、どうしてるかな」
同じ事を思い出していたようで沙耶が聞く。
「元気だと、いいよな」
――古い木造の建物に『山本動物病院』と剥げかかった看板がかかっていた。
いきなり拾った子猫を連れてきて怒られないかとドキドキしながら扉を開けた。
「午後の診療は4時からだよ」
そう言いながら現れたのは、ひょろひょろのお爺さんだった。
俺が緊張のあまり何も言えずにいると、隣に居た沙耶が公園で子猫を見つけた経緯を話していた。
怒られるかと思ったけれど、山本先生(後でわかったのだけれど、そのひょろひょろのお爺さんが獣医さんだったのだ)が子猫を沙耶の手から受け取ってくれた。
「だいぶ弱っているからね。助けられるかどうか難しいかもしれないな」
山本先生は、そう俺達に言った。でも、何とかしてあげたくて俺と沙耶は泣きながら頼んだのだ。
そして、それから毎日、毎日、放課後は山本動物病院に行って『チビ』の世話をするのが俺達の日課になった。
でも、元気になった『チビ』を引き取ることは俺達に出来なくて、山本先生が飼い主まで探して来てくれたのだった。
今、考えると治療費を払った覚えがない。あれは先生の厚意でやってくれてことなんだろう。
『チビ』が貰われていく日まで俺達は動物病院に顔を出した。
動物病院にペットを連れてくる人はどの人も我が子のように心配し、待合室では自慢話も聞かされた。
ペットを飼えない境遇の俺達は随分、羨ましく思ったものだ。そして山本先生に強く憧れたのだ――
「何、思い出に浸ってるの、山本先生のこと?」
「何で解るの?」
「解るよ、あの頃の幸平は山本先生みたいになるって言ってたじゃない」
「山本先生って獣医だったんだよな」
「そりゃそうでしょう。動物病院経営してたんだから」
「サッカー始めて、それから時間が無くなって行かなくなったんだ。忘れてた。あんなに強く思っていたのに……」
獣医と言う職業が頭に浮かんだ――浮かんだ途端にコレだ!と思った。なれるかどうか判らないけど、俺、夢を見つけたかもしれない。
会いたいと思った。そして獣医って仕事について聞きたくなった。
「山本先生どうしてるかな?」
俺の問いに沙耶が残念そう教えてくれた。
「何年か前に偶然、会ったのよ。もう引退して病院も閉めたんだって」
「知らなかったって言うか、さっきまで忘れていた……」
「仕方がないよ。人は忘れっぽいもの」
沙耶の声の言葉が悲しい。涙の跡が目に入る。
「俺、一番大事な気持ちは変わらないと思ってる」
「えっ?」
自分の口から出た言葉に俺自身が驚いた。
頭の中でぐるぐる回る思いを言葉にしようと頭を働かせ、
「親は子供のこと、いつも大切に思ってるんじゃないかな。その思いが子どもにとって良いか悪いか別だけど」
そう付け加えた。ほんとは違うことが言いたかったのに。
「いつも私の望みとは違うことが起きる…。私の気持ちなんて考えていないんじゃないかって思うの」
沙耶のやるせない気持ちが伝わってくる。
「私、新しいパパが欲しいわけじゃない。ママには幸せになって欲しいけど……」
揺れるブランコの音が耳につく。
沙耶を守ってやりたいという感情が溢れだす。
その時、俺は心底、そう思ったのだ。
「沙耶、俺と結婚して新しい家族になろう」
だから俺は、沙耶にそう告げた。
沙耶は驚いて俺の顔を見つめる。俺も沙耶を見つめ返した。
「10年後にもう一度言ってくれたら考えるわ」
そう言って沙耶は笑った。
「私達、付き合ってもないんだよ。ものには順序ってことがあるの」
俺もそれもそうだと笑った。
沙耶がくしゃみをする。雷雨に遭ってびしょ濡れだったことを思い出す。
「風邪、引くぞ。意地張ってないで帰れよ」
「うん」
沙耶は頷いてもう一度笑った。
俺のTシャツを肩から羽織った沙耶とランニング姿の俺。
ちょっとマヌケな感じだと二人で笑って、俺は沙耶の手をそっと握り歩き出した。
沙耶の手が少しだけ握り返してくれるのを感じた。
俺は、それだけで良かった。
傍に居てやる――今、俺に出来る唯一のことだから。
砂場を通り抜け公園の外れまで来た時、沙耶が口を開いた。
「……この公園でよく遊んだよね」
子供の頃は本当によくここで遊んでいた。今、見みると、小さな公園なんだけど、とても楽しい場所だった。
「小学校の時、私が生意気だって意地悪されてて、ここでそいつにすごい勢いで体当たりしてくれたこと覚えてる?」
そう言えばそんな事あった気がする。その後、突き飛ばした相手が怪我して――と言ってもかすり傷だったけど――その親が怒鳴り込んできたんだった。
「あの時、嬉しかった。おばさんやママがどんなに喧嘩の理由聞いても幸平、話さなかったんだよ」
「そうだったか?」
「そうだったの。私を庇ったって言えば良かったのに、何も話すなって言ったんだよ」
思い出した。あの頃、口が達者な沙耶はその事で虐めにあってたんだ。
そいつは理屈で言い負かされると物を隠したり、仲間外れにしたり、陰湿なことやってたんだ。
その時も沙耶は親に隠れて泣いていた――その姿を知っていた俺は、正義感ぶるつもりはないけどそいつを許せなかった。
「ありがとう」
「へっ?」
俺は間抜けな声を出す。
「何が?」
「……幸平はいつも私のこと見ていてくれたから。私の辛いことみんなわかっちゃうんだもん」
いや、そうでもないんだが……そうかもしれない。
いつも心配だった気がする――キツイ性格の裏にある淋しがりやの部分を知っているから。
ずっと見つめて、いつでも隣にいてやりたかった。
二人の想いが繋いだ手から伝わる気がした。
俺が沙耶を家に送ると、玄関に出てきた沙耶の母は、ゴメンねと謝りギュッと抱きしめた。
良かった。どうすることが一番良いことなのかは解らないけれど、互いに思いあっていることだけでも確認できれば前進出来る筈だ。
帰り際、沙耶がもう一度、俺に礼を言う。
「もう喧嘩するなよ!」
と、俺は軽い調子で言い歩き出す。
雨が上がり、またジメジメした夏の夜になっていた。そして今度は俺が盛大なくしゃみをした。