ショットガンを持つ男 MLB選手 バーン・ステファンズ(1920-1968)
MLB史上でもトップクラスのクラッチヒッターだったステファンズのベストシーズン3年間(1948-50)の合計の打点は440で、戦後の打者ではサミー・ソーサの439、ケン・グリフィー・ジュニアの433をも凌ぐ。ソーサは筋増強剤使用が流行った時代の記録であり、ベスト3年間のホームラン数は177本だが、ステファンズは118本でほぼ同じ打点を稼いでおり、作業効率がずば抜けていることがわかる。
一七八センチ八十三キロの体格でありながら、遊撃手の強打者を選ぶ時に必ず名前が挙がるのが一九四〇年代の最強打者の一人だったバーン・ステファンズである。
強打の遊撃手として真っ先に名前が挙がるのは、前世紀の初頭に活躍した「空飛ぶオランダ人」ことホーナス・ワグナー(パイレーツ)である。ワグナーは最も高額で取引きされるベースボールカードでもその名を知られているが、首位打者八回、打点王四回、盗塁王五回など数々の記録を持つスーパースターで、守備の巧さも合わせると史上最高の遊撃手の声も高い。ただし、飛ばない球の時代の選手だけに強打者、巧打者ではあってもパワーヒッターのイメージはない。
そういう意味では通算六九六本塁打のアレックス・ロドリゲスや五一二本塁打のアーニー・バンクスの方が打撃タイトルの獲得回数こそワグナーには及ばないものの、典型的なホームラン打者としてファンの印象も強いはずだ。
ところが、全盛期のステファンズは彼らをもしのぐ記録を持つリーグ有数のスラッガーだった。
マイナー時代から強打の遊撃手として鳴らしたステフェンスがセントルイス・ブラウンズでメジャーデビューを果たしたのは、ディマジオ、ウィリアムズの二大巨砲が全盛にあった一九四一年のことだ。レッドソックスとインデイアンスからもオファーがあったにもかかわらず、ブラウンズとマイナー契約していたのは、不人気チームだったブラウンズの方がメジャー昇格も早いだろうと思ってのことだ。
このシーズンはディマジオが五十六試合連続安打を記録し、テッド・ウィリアムズがメジャー最後の四割を打った記録ずくめの一年だった。
二年目には二割九分四厘、十四本塁打、九十二打点と打撃の方は主力打者にふさわしい成績を残しているが、守備の方は遊撃手としてリーグ最多の四十二失策と散々だった。それでも観客動員数がリーグ最低の不人気球団ブラウンズの起爆剤となり、チームはア・リーグ三位に躍進した。
ステファンズは一九四三年にマイナー時代の膝の怪我を悪化させたため、一時は外野手転向案も出たが、「ショットガン」と称された恐るべき強肩を生かすには遊撃手がベストということになった。軽快な動作という点では同時代の名手、マーティー・マリオン(カージナルス)やフィル・リズトー(ヤンキース)には及ばないまでも、守備の総合評価では歴代最高の声もあるマリオンと同格だったという元チームメイトもいる。
ステファンズが打撃人として注目を浴びるようになったのは、太平洋戦争の最中で物資が欠乏し、使用球の品質が低下した一九四四年からである。この年二割九分三厘、二〇本塁打、一〇九打点で打点王を獲得しているが、本塁打はニック・エッテンの二二本に次ぐ第二位だった。
ステファンズは広いスタンスで打席後方に立ち、たくましい上半身の筋力で豪快に振り抜くパワーヒッターである。
積極的に打ちにゆくため併殺も多かったが、チャンスには無類に強く、打撃成績の数字以上に相手にとっては警戒すべき打者だった。キャリア前半は弱小チームに在籍しながら、しばしばMVP投票でランクインしているのはその勝負強さとムードメーカー的な存在感あってのことだろう。
ステファンズの入団前は負け犬根性が身に付いてしまい観客動員数は万年リーグ最下位だったブラウンズが、彼がレギュラーになった一九四二年に初のAクラス入り(三位)を果たすと、一九四四年には奇跡のリーグ優勝で遂に観客動員数も最下位を脱出(六位)したのだ。
一九四五年には二四本で本塁打王となり、チームも三位と健闘。応召されていたディマジオやウィリアムズが現場に復帰する一九四六年のア・リーグの打撃タイトル争いにステファンズがどこまで食い込んでくるかが注目されたが、同年に結成されたメキシコ・リーグによってメジャーリーグは大混乱に陥った。
メキシコのパスケル兄弟が膨大な資金力にモノを言わせてメジャーリーグに対抗する新リーグを結成した当初は、高年俸に釣られて多くの一流メジャーリーガーがメキシコに渡ったが、ステファンズもその一人だった。
慌てたコミッショナーは十日間の期限を設けて、期限内に復帰しない選手は、たとえ戻ってきても五年間出場停止という重いペナルティを課すという通達を出した。
これを聞いたステファンズの父親がブラウンズのスカウト、ジャック・フォーニアと一緒に息子を連れ戻してきたため、大事には至らなかったが、もとよりステファンズは金で動いたというより、昇給を拒んだ球団に対する示威行為のつもりでメキシコに渡ったのだった。
最終的にステファンズの年俸は希望額の一万七千ドルに落ち着いたが、パスケル兄弟が用意していた額は5年契約で十七万五千ドルだった。
一九四七年、セントルイスのスポーツマンズ・パークの購入と改修、新たなファームチームの設立の出費が嵩み、財政難に陥っていたブラウンズは、選手の金銭トレードを画策していた。その目玉がステファンズだった。
引く手あまたのステファンズの獲得に特に熱心だったインディアンスは、チームの主柱である遊撃手兼監督のルー・ブードローに金銭をプラスしてまで交渉に臨んだが、この情報がどこからか漏洩しインディアンスファンの猛反発を受けたためご破算になった。
安定感抜群の守備とシャープなバッティングに定評のある(首位打者1回)ブードローに移籍料まで上積みするとは、インディアンスも思い切ったことを考えたものだが、当時のステファンズにはそれほど高額のプライスタグが付けられていたのである。
一九四八年、ついにステファンズが競り落とされた。落札チームは十年前から彼を渇望していたレッドソックスだった。
ブラウンズはステフェンスと先発級のエリス・キンダーを含む八名の選手を三十八万五千ドルでレッドソックスに譲渡した。これは当時の高年俸メジャーリーガーのトップ3、ディマジオ、ウィリアムズ、ボブ・フェラーを同時に雇っても釣りが来るほどの高額であり、今日でもメジャー有数の大型トレードの一つに数えられている。
ステファンズの加入によりレギュラー遊撃手のジョニー・ペスキーは三塁にコンバートされたが、このぺスキー、デビュー一年目から三年連続二〇〇本安打というロイド・ワーナー(パイレーツ)のメジャー記録(当時)に並んだばかりのスタープレーヤーだった。これだけの選手を定位置から追いやってまでステフェンスに遊撃手の座を用意しておくとは、相当な厚遇である。
移籍一年目から二九本塁打、一三七打点の好成績で本塁打、打点ともに自己記録を更新したのも、このVIP待遇に対する彼流の答えだったのかもしれない。ブラウンズ時代はパーティー好き夜遊び好きで通っていたステファンズが、めっきり出歩かなくなったというから、節制によって本来の能力が発揮できるようになったのだろう。
かつての同僚たちからは、毎日のように遊び呆けていながら、グラウンドに立つと全く疲れも見せずに最高のパフォーマンスを披露することから、超人的な体力の持ち主と思われていたらしい。
レッドソックスのフェンウェイパークは、左翼に名物のグリーンモンスターが立ち塞がっているため、右の長距離打者には明らかに不利だが、この条件でも同僚となったテッド・ウィリアムズと互角に張り合ったところが凄い。
この年のMVP投票は一位ブードロー、二位ディマジオ、三位ウィリアムズ、四位ステフェンスだった。ブードロー率いるインデイアンスがわずか一ゲーム差でレッドソックスを振り切り、リーグ優勝したからだ。
一九四九年には三九本塁打、一五九打点でウィリアムズと打点王を分け合っているが、遊撃手の一五九打点は今もなおメジャー記録である。
さらに翌一九五〇年も三〇本塁打、一四四打点で二年連続の打点王となったが、この年もチームメイトのウォルト・ドロポ一塁手と同点で、二年連続同チームから複数名の打点王というのは長いメジャーの歴史の中でも唯一の例である。
ステファンズがリーグ屈指の強打の遊撃手として活躍していたのは一九五一年までで、以後は三塁に回ることが多くなった。これは年齢的な衰えもさることながら、マイナー時代に痛めた膝がさらに悪化したことと、視力の低下により打球に対する反応が鈍くなったことによる。
一九四八年から二年連続で遊撃手としてフル出場したタフガイも、故障による欠場が増え、一九五〇年には最高の四万ドルに達した年俸もこの頃から右肩下りになり、最後のメジャー出場となった一九五五年には半分の二万ドルにまで落ち込んだ。
レギュラー遊撃手として活躍した期間はわずか十年だったが、この間の合計打点は一〇四六に達している。これはアスレチックスやオリオールズで活躍した強打の遊撃手ミゲル・テハダの全盛期の十年間と全く同じ数字である。しかもテハダも一七五センチとメジャーでは小柄な選手だった。
前述のロドリゲスもバンクスも途中で三塁手、一塁手とコンバートされており、実質的にレギュラー遊撃手だった期間は双方とも十年足らずであるため、ステファンズとテハダの打点記録には及ばなかった。
ちなみにロドリゲスのレギュラー遊撃手時代八年の通算打点は九六九、バンクスも八年で八五二であった。
ただし、ステファンズの実働期間中には戦争に伴う物資の窮乏により概して打撃成績が低かった時期を挟んでいるため、十年間のリーグ打点王の平均が一三〇打点であるのに対し、テハダのベストシーズンである二〇〇〇年から二〇〇九年はホームランブームという背景もあって一四二打点にも達している点は考慮すべきであろう。年間試合数にしてもステフェンスの時代は現代より八試合少なく、両者の出場試合数は一七〇試合程度の開きがある。
また、一般には遊撃手の打点王獲得回数はワグナーの四回がトップとされているが、このうちタイトルを獲った一九〇一年と一九〇二年はいずれも遊撃以外のポジションでの出場試合数の方が多い。そう考えるとほぼ全試合遊撃手とし出場しながら打点王三回のステフェンスこそ歴代遊撃手の中で最高のクラッチヒッターといっても過言ではないだろう(テハダの打撃タイトルは打点王一回のみである)。
第二次大戦中は野球の傍ら波止場で荷物運びをやっていたこともあって、引退後は力仕事に従事していたが、皮肉なことに重いものを持ち上げた瞬間に心臓麻痺を起こし、呆気なく世を去った。享年四十八歳だった。
生涯成績'286 247本塁打 1174打点 1859安打
MLBの打点王の連続記録は3年で、戦前はベーブ・ルース、戦後はジョージ・フォスター、セシル・フィルダーしかいないが、その間のフォスターの打点が390(1976-78)、フィルダーも389であり、超一流打者でも3年合計400打点越えは至難の業である。




