4,花に託された最後の想い
誤って破ってしまわないよう、慎重に封を切る。現れたのは、丁寧で優しい筆跡だった。そこには、覚えのある言葉遣いが並んでいた。
『ブランへ。
貴方がこれを読む時、私はもうこの世に居ないのでしょうね。黙っていてごめんなさい。私は最初から、貴方が王女殿下の刺客になる可能性があると知っていたの。
私、本当はね、貴方と親しくなって、隙をついて殺すはずだったのよ。それなのにブランったら、飲ませても飲ませても全然酔ってくれなくて。私がどれだけ苦労したか分かる?……おかげで貴方を殺さずにすんだけれど。
私もね、孤児だったの。きっと貴方と同じように、両親も誕生日も、生まれた場所さえ分からない。けれど、そんな私を拾って育ててくださったのが、王女殿下だった。
私は幸運だったわ。卑しい身分なのに読み書きを教わって、侍女としての職を与えていただいて。何不自由ない暮らしをさせてもらえたの。だから恩返しがしたくて、王女殿下の身代わりを務められるほどの立ち居振舞いと戦闘力を身につけて、私は王女殿下の影になった。
かの王子殿下は、あまりにも私利私欲が強すぎる。あの方が国の頂点になれば、いずれこの国は歪んで滅びてしまう。この国を守りたいという、王女殿下の願いを叶えるために、私はこの命を捧げると誓ったの。
だから貴方を……殺さなければいけなかった。いけなかったのよ。けれど、同じ境遇のはずの貴方は……とても不幸せに見えた。貴方がこれまでどんな仕事をしてきたかは分からないけれど、言葉の端々から過酷なものだったのだろうと感じたわ。貴方は、私が辿るかもしれなかった、もう一人の私の姿だったの。
仲良くなるべきではないと分かっていた。同情してはいけないって。
――けれど、駄目だった。
ほんの少ししか話していないはずなのに、貴方の言葉を聞いて、貴方の心に触れて、必死に生きている貴方を見て、いつしか貴方に幸せになってほしいと……生きてほしいと願ってしまったの。
過去も何も共有せずに、お酒を飲んで少し戯れただけで、私も貴方も隠し事だらけだったけれど。貴方が話してくれた言葉に、嘘はなかった。とても楽しくて、幸せだった。私は、貴方と過ごす時間が好きになっていたの。
それでも、王女殿下を守るために、私は身代わりになります。貴方に殺されると分かっていても、これが私の生きてきた証と誇りだから。
私のお願い、覚えてる?海を見てほしいって。貴方は生きて、沢山の綺麗なものを知ってほしい。クソみたいな世界だと言っていたけれど、捨てたもんじゃないって、いつか貴方が思えるように。
身勝手な願いだと、私を恨んでくれてもいいわ。でも、貴方の中にまだ残っている“人”の部分を、どうか捨てないで。この方は貴方を必ず助けてくださるから。
愛するブランに、幸多からんことを。
――フランネル(ルネ)』
それを読み終える頃には、カウンターにいくつもの水滴が落ちていた。嗚咽を堪えるように顔を伏せ、噛み締めた唇からは大嫌いな鉄の味がした。
「フランネルというのは、貴方にだけの偽名だそうです。あの子には名前がなかったから、わたくしがルネと名付けました。それを反対から読んだ音と、貴方とわたくしに伝えたかった想いが丁度詰まっていて、いい名前だったからと……最期の日に教えてくれたのです」
「想い……?」
「えぇ。名前に“フランネル”と付く花が二種類あるのですけれど、きっと花言葉をわたくし達に宛てたのでしょうね」
ブランは、花言葉なんて洒落たものは知らない。そもそも花の名前も分からなければ、それがどんな花なのかすら思い付かないだろう。
それでも、フランネルが伝えたかった想いを知りたくて、じっとその瞳を見る。すると、その顔がくしゃりと歪んだ。
「片方の花言葉は、誠実、高潔、いつも愛して。もう片方は、好意、好感、私の愛は不変、ですよ」
「……っ!」
「どちらを誰に宛てたのか、わたくしには分かりません。けれど、あの子は――わたくし達二人共に、その言葉を贈りたかったのかもしれないと思っています」
涙声で伝えられたその言葉を、もうやめてくれと悲鳴を上げる傷だらけの心に、塩を塗り込むように受け止める。後悔ばかりが零れ落ちて、ブランは両目を覆った。
「わたくしのところに来なさい、ブラン」
「……何を言ってるか、分かってんのか?俺はアンタの命を狙い、アンタの大切な侍女を殺した男だぞ……っ!」
勢いに任せて、ダンッとカウンターを叩き付ける。ガタッと数人が立ち上がったが、王女が手を上げると男達は静かに席についた。どうやら気付かない間に、この人の騎士や護衛に囲まれていたらしい。
王女は静かに目を閉じ、唇を噛む。
「わたくしは、最期にあの子から沢山の話を聞かせてもらいました。その中で、あの子は……ルネはずっと、貴方のことを心配していました。一人残してしまう、貴方のことを」
「どうしてだよ……っ!俺を殺して、お前が主人と生きていけば、それでよかっただろ……!海が見てみたいって、言ってたじゃねぇかっ」
ブランが絞り出すような声を漏らすと、王女は「あの子は貴方に、海の話までしたのですね」と笑った。
「わたくしも言いました。貴女に生きてほしいと。どちらが残されたって悲しい思いをするのだから、わたくしのために生きてほしいと。けれど……ルネは頷いてくれませんでした。『私はもう十分、殿下によくしてもらいました。同じ境遇でこんなにも違うあの人を、どうか救ってほしいのです。幸せを知ってほしいのです』と……そう、頼まれたのです」
「救う……?俺はお前を……殺したんだぞ?お前の居ない、この世界で……どうやって幸せになれって言うんだよ……!俺は、お前と居た時間が……一番、一番……っ」
――幸せだったのに。
それを自分の手で、壊した。
フランネルはあの日、どんな気持ちで俺に立ち向かってきたんだろう。殺されると分かっていて。その相手が俺だと知っていて。
その上で残した手紙がこれなんて。
「わたくしは貴方が憎い。えぇ、憎いわ。けれどそれは、貴方をそうした“根源”が悪いのです。わたくしは、貴方のような人をなくしたい。あの子のためにも、そんな国にしなければならないのです。わたくしは、貴方を恨まずにはいられないこの心を、本当に打ち倒すべき悪に向けなければなりません。それは、貴方も同じではないのですか?」
「……それは」
王女の瞳が、真っ直ぐにブランを見据える。その強さが、かつてフランネルが見せた覚悟と重なって見えた。
「あの子は使命を全うし、命を賭してわたくしを守ってくれました。そして、命を賭して、貴方を救いたいと願ったのです!それでも貴方は――立ち上がれず、ここで燻り続けているつもりですか!?」
「……あ……あぁっ…………!」
ブランは嗚咽と共に、胸を強く握り締めた。心の奥に溜まっていた全ての血と涙が、一気に溢れ出すようだった。
フランネルはもう居ない。
だが彼女の願いが、まだブランを生かすつもりらしい。
(ずりぃだろ、こんなの。一緒に逃げようでも、一緒に死のうでも……言ってくれりゃあ……)
力なく俯いたすぐ近くで、あの日のように灯火を反射した白ワインが煌めいている。
――ブラン。
その時、周りの音が消えた気がした。
ぐしゃぐしゃに歪んだ世界の向こうで、琥珀色を透かすように、愛した女の笑顔が浮かんでいた。




