3,記憶の中で滲む面影
その夜を境に、酒場の扉が開く音はどこか冷たく響くようになった。ブランはいつもと同じ席に腰を下ろし、同じように白ワインを頼む。
けれど、隣の椅子はいつまで経っても空いたままだ。
「……いつものを」
そう言うたび、マスターが一瞬だけ眉を顰める。このところ毎日通い詰めて飲み耽っているせいだろう。
ブランはグラスを傾けるが、いつしか味はおろか、香りさえも分からなくなっていた。喉を通るたびに、胸の奥が焼けるように痛む。
それどころか、心臓が時折酷く重くなる。それを感じる度に、大きな過ちがのしかかっているようだった。
「おい。最近ずっと飲んでばかりだぞ」
「気にするな。……今の仕事もそろそろ潮時だ」
その瞳は日に日に虚ろになっていく。しがみついていた命を、こんなにも簡単に投げ出したくなるくらいには。
そんな時、カウンターの端で飲んでいる別の客がぼそりと呟いた。
「あの事件、やっぱり王子殿下との対立のせいか?」
「だろうなぁ……可哀想に。でも、よくやってくれたと思うよ。俺達平民にとっちゃあ、王女殿下が希望だからなぁ」
望む声がかからないかと耳をそばだてていたブランの耳に届いたのは、一番聞きたくない政権争いの話題。ギリッと唇を噛み締めた後、また白ワインを流し込む。
――誰にも気付かれぬように、右手の指先が微かに震えていた。剣を握る感覚が、あの夜から少しずつ変わってしまったから。
──数日前。
新聞の一面を飾り、号外も撒かれた大事件は瞬く間に広まり、それはブランの耳にも入った。
『王女殿下暗殺未遂。身代わりとなった侍女、命を賭して御身を守る』
それを聞いた瞬間、ブランの心臓は一度止まったように思えた。
あの日以来、姿を見せない女。雇用主のことを事情があって大変な方だと言っていた。色々と背負ってしまう人だから心配だと。そして、己の雇用主は女性だと。
女が雇用主になるなんて滅多にない。基本は男が雇用主で、その妻や娘に仕えることなら有り得るが、そもそもの雇用主が女性だと、フランネルは言っていた。
耳の奥で何かが鈍く弾け、一緒に過ごした時の声が蘇った。
「……俺の隣で、赤ワインだけは頼んでくれるなよ」
「それじゃあ、貴方と同じ白ワインにしようかしら」
少し気取っているような声。無邪気に笑う顔。最期に一緒に飲んだ時の、あの眼差し。
「ブラン。いつか貴方が自由になれたら、海に行って」
なんでそんな顔をするんだ。お前にそんな顔をさせる奴は誰なんだ……なんて。
あの夜から大事件の発表まで、空白の期間は短くない。ゆうに一週間は超えていた。あの時殺した女は、アイツじゃ……フランネルじゃない。そう思いたいのに。
思えば似たような背丈の、崩れ落ちてゆく女の姿が……ゆっくりと繋がっていく。
「……まさか、まさか……っ」
漏れた声は、酒に焼けて掠れていた。認めたくなくて、あの声で嘘だと言ってほしくて、また酒に溺れた。
いくら飲んだって酔えないくせに、ここに来ればフランネルに会える気がして。何事もなかったかのように、フラッとやって来る気がして。縋るように、一緒に飲み交わした白ワインを注文する毎日を繰り返した。
あの日から、もう三週間が経った。最低でも一週間に一度は必ず、多い時なんかは一週間に三度くらいは一緒に飲んでいた。それなのに……あの日から、フランネルは一度も酒場に来ない。
灯りが滲む。ワインを零したわけでもないのに、視界が揺れた。
「もうやめておけ。そんな顔で飲むもんじゃない」
マスターの声が聞こえる。けれどブランは答えず、グラスを空にした。冷たい液体が喉を通るたびに、フランネルとの思い出ばかりが頭を過ぎる。それなのに。
――あの瞳に映った最後の光を、思い出せない。
それが、何よりの罪だった。
あの時、もしも側に寄って顔を覗き込んでいたら、フランネルじゃないと確信が持てたのに。もしもフランネルだったなら、命が狙われると分かっていても、すぐに手当てをして一緒に逃げたのに。
それこそ、海の見える南の地まで。自分の命の最期に、惚れた女の望む場所まで……連れて行ったのに。
ブランは時間稼ぎのように、住処を転々と移した。だが、特定されるのも時間の問題だろう。いや、もしかしたら既にバレていて、泳がされているだけかもしれない。
セルパンは……ブランの雇用主である第一王子は、必ず再び王女を狙うだろう。一人の侍女が、その命で守った第一王女を……血の繋がる兄妹だろうと、政敵として屠るために。
「なぁ、フランネル……。お前の言ってた“海”って、どんなところなんだろうな」
返事はない。けれど、呟かずにはいられなかった。フラリと現れて、「どんなところかしらね?」と言いながら同じ酒を頼んでくれる気がして。
そんな淡い期待を抱いていたからか。カラン……と扉の開く音がした。
ブランは振り返らない。俺が振り向かなくても、ただここに座っているだけでよかった。いつだって、座っているブランに、あの声で呼びかけてくれる――
「貴方がブラン……ですね?」
思い描いていた声とは全く違う、鈴を転がしたような可憐な声。男なら誰もが声をかけられたいと思いそうな声なのに、ブランの求めていたものではなかった。
ブランは顔を上げ、声の主を鋭く睨み付ける。
その名前で呼んでいいのは、ここで何度も一緒に飲んだあの女だけだ。そんな気持ちを込めて目を細め――見開いた。
フードの下から見える髪と目の色が、自分の雇用主と同じ色をしていたから。綺麗に澄んだ瞳が、まっすぐにブランを射抜いた。
「……まさかアンタ……、いや貴女は……」
フードの女は唇に指を当て、「しーっ」と呟く。
第一王女――この国を導く希望の象徴と呼ばれる存在が、どうしてこんな酒場に居るんだ。
ブランは反射的に立ち上がるが、やがてまた腰を下ろした。
(こんな場所にわざわざ来たのは、俺が何をしたか分かってるからだ。それに、ブランって呼び名を知ってるってことは、やっぱり……)
信じたくない現実が、途端に押し寄せてくる。ついに裁かれる時が来たのだろう。そう思えば、なんだか少し心が楽になった。
(アイツを殺してしまったのに、俺だけ生きているなんて虚しいだけだ。好きなように処刑してくれ)
ブランは自嘲気味に笑みを浮かべる。
「俺が何者か知ってて声をかけるなんてな」
「えぇ。恐れていたら、この国を導くことなど出来ません。それに……あの子から沢山、話を聞いていましたから」
その言葉に、ブランは息を呑む。
(――フランネルが俺の話をしていた?王女に?)
意味が分からず呆然とするブランに、王女は一通の封筒を差し出した。
白い封筒に、白い封蝋。ただ、表には『ブランへ』と書かれていた。慌てて裏を見ると、そこには『フランネル』の名前があった。
どうして――と。
震える手でそれを握り締める。そんなブランを見て、王女は優しい声色で言った。
「……あの子から、貴方に渡してほしいと託された手紙です」




