2,偽りの名と届かぬ声
『ルゥ・ルージュへ。対象に赤ワインを。ひと月後に到着するように。セルパン』
寝床にしている部屋の扉の下に、カードが刺さっていた。何度部屋を変えても、こうして簡単に見付かって仕事を与えられる。
――さっきまでは、あんなにもいい気分だったのに。
白くて甘い夢は、こんなにもあっさり醒めてしまう。部屋に入ったブランは、ぐしゃりとカードを握りつぶした。
「フランネル……」
その名前を呟いてしまった瞬間、胸の奥が酷く痛んだ。理由なんて、考えたくなかった。
――ルゥ・ルージュ。
それは決してブランの本名ではない。任務のためだけに与えられた呼称。雇用主に縛られ、血に染まった手でしか生きるほかない、一人の暗殺者の呼び名だ。
そもそもブランには本名など存在しない。孤児だったブランは、気付けば暗殺者として育て上げられていたから。
多くの命を奪い生きてきた。でもそれが普通ではないと思い始めたのは、ただ殺すことだけしか考えてこなかった男でも、大人になって色々と見えるようになってしまったからだろうか。
任務で人の営みに触れ、自分がおかしいのだと……そう気付いてしまった。
住処くらい自由にさせてくれと、貯めた金で雇用主の屋敷から飛び出して。そうして社会に溶け込んで生きるようになって、余計に苦しくなった。
――ただ殺してきた相手にも、こんな生活があったんだろう。
そんな当然なことが分かるようになってしまってから、ブランの心は悲鳴を上げ続けていた。
(セルパンは蛇。アイツを表すシンボルだ。――ほんと、お似合いだよ)
蛇のように獲物に狙いを定めて、確実に仕留める。自分の立場を固め守るために、その障害となる人間には、敵でも味方でも容赦なく牙を剥く。
その手足となるのが、ブランのような人間だった。逃げても隠れても見付け出され、仮に裏切ろうものなら、どうなるか分かりきっている。それでも――辞めたくて仕方なかった。もう誰の命も奪いたくなかった。
「……ひと月後か。侵入経路と見張りの巡回経路を調べねぇとな」
命令なんて聞きたくない。そう思うのに、体は慣れたように標的を仕留める術を思考してしまう。
そんな自分が、一番嫌いだった。
「ねぇ、ブラン。海って、どんなものか知ってる?」
「海?そんなもん、でけぇ水溜まりみたいなもんじゃねぇのか?」
「やだ、ブランったら。それは湖でしょ?」
このところ酒が不味くて仕方がない。それでも隣にフランネルが居るだけで、不思議と美味いと思って飲めるから不思議なものだ。
今日は唐突に海について問いかけられ、ブランの頭に描いたのは青い水溜まりを大きくしたものだった。どうやらそれは湖と言うらしい。海も湖も知らないブランには、どちらも同じように思えた。
「知らねぇよ。海だの湖だの、あるのはこの国でも南の方だけだろ?……そんなもん、自由に生きられるやつだけが辿り着ける場所じゃねぇか」
「自由、ね。ふふっ、ブランが言うとなんだか似合わない言葉ね」
「うるせぇな。酒が不味くなる」
――いや、お前が居てくれるから、酒が美味く感じられるんだ。
そんな言葉は声にはならない。続くのは軽口のような会話だけ。暗殺者であるブランが、誰かを本気で想うなんて……あってはならない。
これまで殺してきた奴らの逆恨みで狙われるか。セルパンに知られて人質として狙われるか。ブランと長く居れば、フランネルにも危害が及ぶ可能性は高い。
離れなければ。そう思い続けて、かれこれ二ヶ月近く経つ。こうして居合わせた時に酒を飲むだけの関係だったのに、最近は「今日は来るのか」と考えるようになっていた。
こんなはずじゃなかった。そう思いながら流し込む白ワインは、さっきよりもほんの少しだけ苦い。
「私ね、海を見てみたいの」
「南に行きてぇのか?かなり遠いだろ?雇用主はいい奴で、ずっと雇われていたいって言ってたじゃねぇか」
フランネルが居なくなるかもしれない。そう思って、咄嗟に強い口調で返してしまう。するといつもの調子で笑った。
「南に移住したいわけじゃなくて、ただ海が見てみたいだけよ。私の主人がね、とても綺麗なところだって言っていたの。地面がなくて、その代わり一面に水が広がっているんですって。太陽の光が反射して、キラキラしているそうなの」
「……こんな感じか?」
フランネルから聞いたものを想像して、ブランは白ワインを灯火に近付けて揺らしてみせる。
「なぁに、ブラン!貴方ってば、そんなキザなこともするのね!」
「煩ぇな!分かんねぇからやってみただけだろうが!」
クスクスと可笑しそうに笑われ、ブランの顔は歪む。けれどそんなブランに、フランネルは愛おしそうな目を向けた。その柔らかい目尻にブランはドキリとする。
「ブラン。いつか貴方が自由になれたら、海に行って」
「…………は?俺が?」
「えぇ。貴方に海を見てもらいたいの」
そのあと、フランネルがぼそりと何か言った気がしたが、きっと聞かれたくない言葉なのだろうと思って問わなかった。
――あまりにも切なそうに笑うから。
踏み込むのが怖かったブランは、何も聞けなかった。なんでそんな顔をするんだと。お前にそんな顔をさせる奴は誰なんだと。
そんなことを聞く資格は、ブランにはなかった。
――そして、運命の夜。
ブランは任務を決行した。
事前に経路は調べ尽くしてある。警備にも気付かれず、無事に標的の寝室に忍び込むことに成功したブランは、豪華な天蓋をそっと捲る。ベッドで横になる一人の女性が見えた。
一思いに、痛い思いをさせないように。
そうして剣を振りかぶり――キンッと金属音がぶつかった。
寝ていたはずの女が、布団を捲り上げて距離を取った。決して逃がさないようにと、二本の短剣を手にブランの前に立ちはだかる。
「チッ。狙われるってバレてんじゃねぇかよ。アンタ、王女本人じゃねぇな」
王女の衣を纏った女。ご丁寧にカツラまで被っている。長い前髪の隙間から見える瞳には、恐怖よりも決意が宿っていた。
「……主の代わりに立つとは、随分な覚悟だな」
身構える女は何も答えない。静寂が満ち、次の瞬間、再び刃が交わる。
激しい衝突を繰り返す。息を呑むような一合ごとに、何かが男の記憶を掠めた。だが、任務のために心を閉ざし、余計な感情を排除して得物を振るう。
――刃が深く、肉を裂いた。
女は短く息を漏らし、そのまま崩れ落ちた。月明かりで、腹から赤いものが広がっていくのが分かる。
「……悪いな。アンタを殺す必要はなかったのに」
標的の王女は部屋に居なかった。身代わりを置いて、暗殺者が来るのを待ち受けていたと報告しなければならない。
手にかけてしまった消えゆく命を噛み締めながら、ブランは部屋を去っていく。
男の姿を隠すように、雲が光を覆っていく。その時、女の唇が微かに動いていたことに、ブランは気付かなかった。
――最期に、その名を呼ぶ声を。




