(7)レイアップ、決まらない
空は重たい雲が流れ、いつのまにか晴れていた。
「やっぱり。失敗だったと思います」
学校を発った二人はいつもの帰路を逸れて、しばらく進んだところにあるベーカリーで油を売っていた。たんまりとドーナツの入った袋を胸に抱きながら、哲郎はベーカリーから出る。
店の前で、袋を開けた。甘く香ばしい匂いのするチュロスを取り出し、パクリ、とさっそく頬張る。食べ応え抜群のかりっとした外側、中身はしっとりもちもちの食感。甘ったるい砂糖の味が口いっぱいに広がる。
「真魚ちゃんもどうぞ。ここのチュロスは最高だよ」
哲郎はご満悦だ。
真魚は差し出された棒状の揚げ菓子をじっと見つめ、「……いりません」と断った。そっか、と哲郎はそれを引っ込める。
「で? なにが失敗だって?」
「柚月さんのことです。あれでは、なんの解決にもなっていない気がします」
哲郎は目を丸くすると、またチュロスを一口齧る。
「そうかな? 割といろいろ解決した気もするけど」
「心の支えにしていたものを一方的に壊されるのは、辛いことです」
「それが不健全だったんだから、しょうがない。大体、今更同情したってさ。真魚ちゃんだって、昨日はおれの案に賛成してくれただろ?」
「それは、そうですけど」
真魚は痛み入るように「あれは酷です」と呟く。やはり、お人好しだ。
「まずは現実を見なくちゃ、スタートラインにも立てない。その後のことは、まあ、あいつが自分でなんとかするだろ」
「無責任なですよそんなの」
「だいじょぶだいじょぶ。ミモリンがついてくれるみたいだし。なんかあったら、そんとき相談してくれるよきっと。知らんけど」
哲郎のそっけない言い方が、真魚は気に入らないらしい。もういい、とばかりにそっぽを向き、真魚が歩き出す。遅れて哲郎もついていく。
「わたしとしたことが失念していました。哲郎くんがそういう人だということを」
「そういう人って?」
「軽薄でいい加減で、ちゃらんぽらんな人だということです。きっと将来は売れないバンドマンをやりながら恋人のOLの家でヒモ暮らしでしょう」
「なにその微妙に生々しい想像。洒落になってないんだけど……」
「酒と泪と男と女です。もちろん煙草も吸います。最低です。静かに眠ってください」
「それってなんのネタ?」
ぶつぶつと呟きながら、真魚がてくてくと先をゆく。
「せいぜい女性の肉欲を満たしてあげてください。哲郎くんは体力はありませんが。女の子の扱いは上手いですから。ついでにキスも上手いので、もろもろを武器にしてこれからも——」
はっ、と。
真魚が両手で口を押さえ、立ち止まった。
「……真魚ちゃん?」
たちまち、少女の表情が愕然としたものになる。震えた声で、「わたしは今、なにを」と今しがたの自らの言葉にショックを受けていた。
哲郎は哲郎で、要らぬことに気づく。
「あー。たしか真魚ちゃん、朔の記憶があるんだったっけ。……えっ? つーことは、もしかしておれが今まで朔としてきた、あんなことやこんなことの記憶も鮮明に……?」
一気に、その顔が赤く茹で上がった。
「そういや……ときどき真魚ちゃんから妙に熱っぽい視線を感じるような。しかもなんか、主に股間のあたりに……」
「違います誤解です!」
(あ、逃げた)
ぐんぐんと歩くスピードを上げていく真魚。哲郎は難なく追いつき、隣りに並ぶと、その顔を横から覗き込み、
「真魚ちゃんって、意外とむっつりさんなんだね」
「だから違いますって……‼」
**
進学校のスローガンと言えば大体決まっている。
王道は——文武両道。
我らが響谷台高校も例に漏れず。『よく学び。よく動く。』を毎年旗に掲げていた。実際ヒビ校(通称)の文武両道さは周辺校のなかで上位に位置し、とりわけ『武』の部分においては高い実績を誇る。哲郎は入学するまで知らなかったが。
バスケットボール部も例に漏れず、好成績を残している部だった。
「実際二年ぐらい前までは全国常連だったんだってさ。おれが体験入学したときなんか学校の壁に『全国出場!』って垂れ幕がかかってたし」
体育館の二階に設けられた通路を昨今はキャットウォークと呼ぶらしい。響谷台高校(以降、ヒビ校と呼ぶ)のキャットウォークは、しばしば屋内ランニングにも使われるほど十分なスペースがあり、哲郎と真魚が並んで立とうと、まだいくらか余裕がある。
哲郎はだらんとフェンスに寄りかかり、活気に満ちる体育館を見渡す。
「去年はちょっと凹んだみたいだけど。凄いよね。うちのバスケ部」
「知っています。わたしには逢原さんの記憶がありますから」
「そういやそうだった。んじゃ、これは知ってる? 薫ちゃんって実はバスケガチ勢で、中学んときに全国行ってんだってさ」
真魚は知っているとも知らないとも言わず、じっと黙り込んでいる。どこか複雑な心境が表情に現れている。これは、知っていたのだろう。
「んで今年からバスケ部戻ったでしょ? 部にとっちゃ即戦力だよね。薫ちゃん元々演技苦手そうだったし、絶対こっちのほうがいいでしょ」
「そう、ですね」
真魚はなぜか薫を気にしている。哲郎にはそれがあまりピンとこない。
「真魚ちゃんが心配するようなことは、だからないと思うけどな。ほかの二人に比べれば、薫ちゃんなんか超マトモだし」
現在体育館では二つのコートに別れ、二つの部が活動している。
うち一方のコートでは、バスケ部員たちが今も練習中だ。哲郎たちが見下ろす先では、部員がペアでダッシュをしていき、同時に交互にボールをパスし合っている。実戦の動きを想定した練習なのか。
「その言い方は柚月さんと胡桃沢さんに失礼です」
「そのふたりと一緒にするのは薫ちゃんに失礼だって。とくに柚月と一緒にするのは」
真魚は眼下の練習風景から目を離さないでいる。正確には、そのなかの一人を注視している。
「ほら。あれ見なよ」
ゴール下に並ぶ列の先頭から今、薫が軽快なスタートダッシュを切る。並走するペアの一人と淀みなくパスを回しながら、反対側のゴールへ向かって駆けていく。一年間のブランクなど微塵も感じさせない、流れるような動きだ。
「あんな動きができるんだ。問題なんかなんにもないよ
薫が中学時代、全国に行ったというのは事実のようだ。
皆が見守るなか、薫は俊敏にバスを繋ぎ、最後のボールを受け取るとゴールへ切り込む。助走を保ちつつステップに入り、軽快なジャンプ。驚くべき滞空時間、そして見惚れるほど美しいフォームで腕を伸ばし、そっと、ボールをリングへ置くようにシュート。洗練された動きだ。
しかし。
ボールが指から離れた瞬間、その軌道がややぶれた。あえなく、リングに弾かれる。
「ありゃ」
完璧に見えたが……、まあ、上手くいかないこともあるだろう。
薫は立ち尽くしている。弾かれたボールを見つめる薫の表情は、どこか思い詰めたようなものに思えた。
「あーあ」
そんな声がしたのは、哲郎のいる通路の真下、列で順番待ちをしているバスケ部員のなかからだった。
「レイアップすら入ってねーし」
「マジで下手くそになってんじゃん」
「なー」
哲郎も知っている。同学年の者たちだ。
(んー? これは……)
陰で薫を嘲笑する一部の部員たち。二階の通路にも聞こえるボリュームの声だ。にもかかわらず、ほかの部員たちは注意すらしない。
真魚が彼らを見て眉をひそめている。
嫌な予感がした。
休憩時間になり、薫は壁際で一人水分補給を始めた。
これぞ好機だ。哲郎は「やっほー」とそこへ突撃していく。薫は口元を手で拭いながら黒色のスポーツメガネ越しに鬱陶しそうな眼差しを向けてきた。
「部活中だ。あとにしろ」
「構ってくれてもいいじゃん。いま暇でしょ?」
「おまえは……、演劇部はもういいのか」
哲郎は小首を傾げる。が、すぐ言葉の意図に気づき、からっと笑った。
「元々演劇部自体に用はなかったんだよ。柚月のことも、今はもうどうでもよくなったし」
「薄情なやつだな。相変わらず」
「薫ちゃんだって、朔がいなくなったらすぐ演劇部辞めてバスケ部入って。人のこと言えないんじゃない?」
薫が唸る。
「……わざわざ嫌味を言いにきたのか」
「ごめん、言わなくてもいいこと言った。今日用があるのはべつの子なんだ。おれはただの、なんつーかあれ。えっと、ナカダシ?」
「仲立ちです。死んでください」
辛辣な一言とともに哲郎の後ろから真魚が出てきた。
「この舐めた人のことは、今は無視していただいて」
「同感だ」
ぺこり、と行儀よく真魚は頭を下げる。
「ご紹介に預かりました。鍛冶谷真魚です」
「だれも紹介してないけどね」
「以後、よろしくお願いします。堂前薫くん」
あらたまったふうに名乗るが、ふたりはこれが初対面ではない。
「……知っている。この間突然大声で自己紹介されたところだからな」
「そ、その節は失礼しました。ほんとうに」
唐突に自らの名前を告げ、あまつさえ「まだ逢原さんのことは好きですか」などと妙に甘酸っぱい一言を叫んだあのときことを思い出したのか、真魚は肩身を狭くしている。薫が「君のような子がなぜ、こんな男と一緒にいるんだ」と呟いた。
「仲良くしたいんだって。薫ちゃんと」
「はあ?」
「は、はい。まずは友人から始めたいと」
薫はもう汗を拭くのも忘れ、当惑している。きっと、だれでもこんな反応になるだろう。哲郎はだんだんふたりのやり取りがおもしろくなってきていた。
男子部員がふたり、哲郎たちの前を通っていく。
「おい。見ろよあれ」
「うっわ。マジ?」
やはり遠慮のない声の大きさだ。
「ナンパメガネちゃん出たー」
「キメェー。あれ転校生だろ?」
「唾つけとくってやつだろ。節操ねぇな」
「声デケーって。聞こえたらどうすんの」
げらげらとせせら笑う男子部員たち。なにがツボに入ったのか、たちまち、ばっと爆発するように噴き出した。
「感じ悪いなあ」
見やると、薫はタオルを握り締めながら唇を噛んでいる。
「待ってください。今のは看過できません」
(あっ、いつのまに……!)
猪突猛進とはこのことか。大柄な男子らの前に、知らぬ間に小柄な真魚が立ちはだかり、突っかかっていた。
「謝罪してください。堂前くんに。今すぐ」
「なに? べつに俺らなんも言ってないけど」
「つーかだれだよ」
「堂前くんに話しかけたのはわたしのほうからです。決してナンパなんてされていません。あなたたちの勘違いです」
毅然と言い返す。ツキノワグマに吠える柴犬のような勇ましさだ。無謀とも
言えるが。薫は壁際のほうで驚いて固まってしまっている。
「堂前くんはそんな人じゃありません。なので、謝罪を」
「……行こうぜ」
その訴えにも耳を貸さず、男子部員たちはその場を去ろうとする。「待ってください!」なおも真魚が引き下がろうとしたので、哲郎は割って入った。
「まあ、落ち着いて。どおどお」
「どいてください。あの人たちは間違ってます」
「ほっときなよ。どーせあんなのモテない奴らの僻みなんだし」
「……その言い方は、どうかと思いますが」
「え?」
ひとまずトラブルは回避できた。
(……真魚ちゃん、ちょっとイノシシすぎるな)
顧問教師のだみ声が号令をかける。休憩は終わりだ。薫は水筒を置き立ち上がると、急ぎコートのほうへ向かっていく。哲郎は「ちょいちょい。まだ話は終わってないよ」と言いかけるも、
「部活の邪魔だ。帰れ」
すげなく一蹴された。
「えー」
「もう二度と来るんじゃない。迷惑だ」
「ど、堂前くん」
薫は一度立ち止まると、首だけで後ろを振り向く。
「ありがとう。鍛冶谷さん。かばってくれて嬉しかった」
その耳元が赤くなっているのを、哲郎は目撃した。




