(6)つまらない人間
教室はいっそう冷え込んでいた。窓の隙間から絶えず入り込む風のせいだ。外は晴れているが、隙間風は冷たく、情けなしに突き放すかのよう。窓辺でかすかに揺れるカーテンが、教室の端のほうに、ゆらゆらとうごめく影を落としている。
「なっ……なにを言い出すんですか!」
ガタリ、と音を立てて真魚が席を立つ。
「諦めるってどういう意味で」
「そのまんまの意味だよ。諦めたほうがいいって言ってんの」
真魚はもう、開いた口が塞がらないといったふうだった。
「な、なぜ、そんな」
「無理だからだよ。あいつをなんとかすんのがさ」
軽い冗談ではない。それが偽らざる本音だ。
哲郎は手近な机に寄りかかった。
「今演劇部に入ってる子には大体話聞いた。辞めたやつの話も一応ね。総合して、心底実感させられたよ。あいつの朔に対しての気持ち。あれ、正直言って重すぎる。ほとんど病気だ」
「そんな……たしかに、柚月さんは朔さんに憧れていますが」
「憧れなんて。そんな可愛いもんじゃないよ。あれ、たぶん盲信ってやつだ」
さらに肌寒さが増してきた。哲郎は窓を閉めるために机から身を離す。真魚はまだ唖然としている。
「もしくは崇拝とか? とにかくそーゆー感じ。病んじゃってんだよ。もう。全身毒が回っちゃってさ。もうおれらの手に負える範疇じゃない。メンクリとかで看てもらわなきゃ」
がらがらと窓ガラスを閉め、端のほうでカーテンをまとめて結ぶ。茜色の陽射しが教室をいっそう侵食していく。
「そんなこと」
「あるでしょ? わざわざ喋り方変えて、クラスメイトに女装なんかさせて、一生歩けなくなるかもしんないのにリハビリもやんなくて、なのに平然と笑ってて」
哲郎は、今度は真魚の向かいの席に座った。
「病気でしょ、そんなの」
真魚が息を呑む。
「病気はおれらには治せない。やれることなんてない。だろ?」
「けど、それは逢原さんの影響で」
「どうかな。あいつ元から情緒不安定っぽいし。割とよくヒスってたし。朔はそこに付け込んだんだろうけど。たぶんなんもしなくたって、似たような感じになってたんじゃないかな。知らんけど」
哲郎は極端な人間が嫌いだ。程々を知らず、バランスが悪く、いつも周りに気を遣わせる。そのくせ導火線の短い爆弾みたくギリギリで、気を遣っても遣わなくても、結局いつか爆発して周りを巻き込んでいく。すべては時間の問題。
「ではどうすれば」
「だから、どうもしなくていいって」
これ以上踏み込んでやる必要も責任もない。これが結論だ。
「できません。今の柚月さんを放っておくなんて。わたしには」
「なら、良い医者でも紹介してあげる? おれには心当たりないけどさ」
「そ、そうではなく」
続く言葉を見つけられないのか、真魚は立ち上がった体勢で下を向いたまま、やがて机のうえで握りこぶしをつくる。哲郎は、彼女の下から覗き込むようにして、諭すように声をかけた。
「何度も言うようだけど、柚月は、真魚ちゃんとは無関係な人だよ」
「それでも……それでも、です」
「お人好しもここまで来ると、見てらんないな」
この少女もまた、程々を知らない、極端な性分らしい。
しかし、哲郎はそんな真魚を嫌いにはなれなかった。
はぁ、溜め息をつく。
今回は、こっちの根負けだ。
「……わかったよ。じゃあ明日の放課後、柚月と話してみよっか」
「いいん、ですか?」
哲郎は頷く。
だから、そんな縋るような顔はやめてもらえると助かる。
「でも、さっきは、わたしたちにやれることはないって」
「ないよ。なんにも」
結論は変わらない。
柚月麻綾に対してできることは、なにもない。
「さっきから言ってるでしょ。元は断てない。根本的な解決はムリ。せいぜいおれたちにやれることなんか、あいつんなかのキモイ妄想をぶっ壊してけちょんけちょんにして、ちょっとマシにしてやることだけだよ」
いかにも退屈そうに哲郎は天井を見上げた。
「ちょっとさ。気づいたことがあるんだよ」
**
かつて逢原朔が語っていた。
「演技力を磨くことは服の網目を細かくする作業よ」——と。
曰く、「それが足りないものほど縫い目が荒く網目が大きくなる」「ゆえに内側が簡単に透けて弱点が見えやすい」のだと。逢原朔はいたずらにその隙間を覗いては、たわむれにつつき、ときに剝がし、またときにはべつの服を着せた。ヤツが演劇に手を出したのも、似たようなたわむれの延長だったに違いない。
そしてその点で言えば、柚月麻綾ほど御しやすい少女もいなかっただろう。
隙間だらけで。隙だらけで。穴だらけ。
「来てあげたわよ」
翌日の放課後は天気が悪く、生憎の曇り空だった。一つの隙間もない鈍色の重たい雲が空を覆い尽くし、いつも仄暗い特別棟裏のその場所はいっそう殺風景だ。
「ずいぶん趣味が悪いじゃない。わざわざこの場所に呼び出すなんて。わかっててやっているのかしら? なら正気を疑うけれど?」
「ここしか思いつかなかったんだよ。隠れて話せそうなとこが」
特別棟と裏山の間のスペース。
そこはほかでもない、逢原朔が倒れていた現場だ。
曰く付きの場所である。麻綾の後ろで車椅子を押す湯川看森も、冷や汗を流す顔つきでいる。相変わらずの女装姿だ。聞くところによれば、あの装いはすべて麻綾の姉のものらしい。
「告白でもする気かしら?」
にやりと笑う麻綾。哲郎は「冗談でもやめてくれ」と自分の身体を抱きしめた。横に立っていた真魚が「違います」と一歩踏み出した。
「これは、あなたを諦めさせるための話し合いです」
「鍛冶谷さん……。あなたいつからそんなに生意気になったのかしら?」
「わたしは元々生意気です」
「開き直って言うことじゃないよ」
車椅子の麻綾から、真魚は目を離さない。
「諦めるとはなにを? 御子柴くんを?」
「逢原朔さんを、です」
麻綾が不快さを隠そうともせず眉根を寄せた。
「なぜあなたがそんなことを」
「柚月さんがどれだけ頑張っても、逢原さんには近づけません」
「言ってくれるじゃない。なにも知らない部外者のくせに」
「っ……」
咄嗟に、真魚がなにかを言いかける。
けれど結局言葉にはならなかった。
「わたしはね。演劇部を託されたの。逢原さんの後継者になることを彼女から望まれたのよ。逢原さんも以前、わたしのことを他人とは思えないと言ってくださったわ」
「要らんこと言いやがって。あいつ……」
哲郎は小声で呟き、額を手で覆った。
「わたしと逢原さんは一心同体。彼女亡き今、その意志を継ぐのはこのわたししかいない」
「あいつべつに死んでないから」
「この責務を果たすためなら、わたしはいくらでも自分を犠牲にできるわ。削って欠けて、失ったぶんを逢原さんの血肉で埋めるの。そうすればわたしはいずれ逢原さんになれる」
「……どんな発想だ」
一聴して、盲目的な信者を思わせる口ぶりだ。
でも哲郎はべつの印象を抱いていた。彼女の装うそれが、狂気などではなく、ただの幼稚な言い訳のように。
「逢原さんの振る舞いは完全にマスターしたわ。その思考も性格も、今やわたしの一部よ。なのに、なぜかしら……。周りのやつらは、いつまで経っても、わたしのことを認めようとはしない。きっとまだ足りないものがあるのよ。ねぇ、それってなんだと思う?」
演説かのような、熱の入った、熱に浮かされた語り。
やがて、麻綾は哲郎を視線の網で捕まえた。
「あなたよ。御子柴くん。逢原さんはいつもあなたをそばに置いていた。聞いたわよ。幼馴染なのですって? 交際は中学の頃から。みんな知っているわ」
おなじ地元でおなじ幼稚園で、おなじ小学校でおなじ中学校だった。ずっとろくに話したこともなかったけれど、中学二年生のときにふたりの距離は一気に近づいた。
「逢原さんにとって、あなただけが特別だった。逢原さんが逢原さんであるためには、あなたが必要不可欠だった。……だからわたしにはあなたが必要なの。さあ。わたしのものになりなさい。御子柴くん」
「タイプじゃないからムリだ」
一考の余地もなく断った。
麻綾は、哲郎へ向けて腕を伸ばしたまま、固まった。
「つーかさ、それって具体的にどーゆー関係なわけ? おまえおれと付き合う気なの?」
「あ、あほか。んなわけないやろ!」
「急にデカい声出すなよ」
うっさいなあ、と哲郎は迷惑顔を意識して浮かべる。
そして、不意を突くように、
「そもそも、おまえ。男ムリだろ」
「え?」
「え?」
素っ頓狂な声は、ふたり分。
麻綾と看森のものだった。
「な、なんで」
「知ってんのかって? そりゃバレバレだからな。むしろなんで気づかないと思ってたんだよ」
やれやれと肩をすくめる。
そう、ぜんぶバレバレだった。
「とりあえずほかの部員に話訊こうってさ。昨日全員に聞きまわってたらなんとびっくり。残ってる部員、みんな女子ばっかじゃんか。初めは偶然かと思ったよ。でも、薫ちゃんとか辞めた奴の話訊いたら、みんな部長に門前払いされたって。しかもそっちは男子ばっか」
あまりにもあからさますぎて哲郎はあきれてしまったものだ。
「ミモリンのこと入部させたのは、せめてものカモフラとかか? でもやっぱ我慢できなくて苦肉の策で女装なんかさせたんだ。ミモリン可愛いもんなあ? 出来上がり見て、さぞ満足したんじゃねーの」
車椅子に座る麻綾は目を逸らし、唇を噛んでいた。その後ろで看森がなぜか照れくさそうにしているのは見なかったことにする。
「この際訊いとくけど、おまえってバイなの?」
事ここに及んで遠慮する必要もない。あえて直接的な単語を出すと、さらに、麻綾は苦虫を噛み潰した顔になった。
「ぶっちゃけ朔にお熱だったのも、そーゆーガチなアレだったとか?」
「……」
この反応は、間違いなく図星だ。
哲郎は、最悪だ、と溜め息をついた。要するに、逢原朔になりたいとかなんとかのたまってきながら、腹のなかじゃ私利私欲ばかりだったというわけだ。なんてやつだ。まったく。
しばらくすると麻綾は開き直って声を荒げた。
「せ、せやったらなんやねん! べつになんもキモイことやあらへん、あんな死ぬほど綺麗で、エグい清楚で、ええ匂いするお姉様ほかにはおらん! 好きになんのはあたりまえや!」
「こいつ、開き直りやがって」
とうとう正体表しやがった。
「言っとくけど、おまえの言う逢原朔は、まるっきり幻想だぞ。実際のあいつは、おまえが思ってるような人間じゃねーし。はっきり言って、騙されてんだよ。あいつの綺麗な外面だけ見せられてさ」
「あんたが逢原さんのなにを知ってんねん!」
「いろいろ知ってるぞ。あいつのやってきたヤバい悪行とか、ねちっこい陰湿な性格とか、触るのも嫌なくらい女嫌いなところとか、実は頭んなかエロいことばっかりで、良い男はとりあえずマークしてキープしようとするところとか、なかなかアブノーマルな性癖持ってる変態女なこととか。そりゃもうたくさん」
裏山のほうから冷たい風が吹いてきた。
麻綾は、完全に絶句していた。
「なんで、そんなこと」
「おまえも言ってただろ。あいつにとっておれは特別だって。そうだよ。その通り。おれはあいつにとって特別なオモチャだったわけ。中学のときに脅迫されて、それからずっとあいつの言いなりだったんだ。好きなときに呼びつけられて、あいつが満足するまで奉仕させられて。あの変態の要求をぜんぶ飲むしかなかった。この学校に来たのも、あいつに命令されてしょうがなくだ」
「哲郎くん」
真魚が控えめに制止する。真魚の猫のような円らな瞳が、それ以上は……、と訴えていた。哲郎は、わかってる、と目線で返す。
「嘘や……‼」
悲鳴にも近い叫びが、旧校舎に響き渡った。
「うちがなんも知らんからって、あんたら適当にホラ吹いとるんやろ! 絶対そうや! そんなわけあらへん! 逢原さんがそんな」
癇癪を起こすように頭を振り乱す。
「マジでガキだな。おまえ」
狂信者なら聞く耳すら持たない。その点麻綾は幼稚すぎた。幼稚で無邪気で、隙だらけ。だからどこかで否定できない。無視できない。サンタクロースがいないと言われても駄々をこねることしかできない。
哲郎は子供が苦手だ。はっきり嫌いと言ってもいい。
麻綾を見ているとイラつくのは、そのせいだった。
「朔は変態だし処女でもねーし、ただの男好きな、品もくそもねえビッチだよ。おまえみたいな乳臭いガキが、そんなもんなれるわけねーの。わかる?」
「う、うちかて、逢原さんみたいに」
「おまえおれとエロいことできんのかよ」
その反論につい想像をしてしまったのか。ひん剝いた目で哲郎を凝視した麻綾が「うっ……! おぇぇ……‼」と口を押さえてえずき出す。みかねた看森が慌てて背中を撫でた。
「その反応はふつーにショックだわ」
「なぜ哲郎くんが悲しい顔をしてるんですか」
麻綾の顔はほとんど蒼白で、息切れしていた。「大丈夫?」と看森に気にされても、なんの反応もなく、吐き気に耐えている様子だ。
「去年だっけか。朔が言ってたよ。寄る辺のない奴は楽でいいって。欲しい言葉をあげてやるだけで盲目的に信頼して。餌を上げりゃ雛鳥みたくくっついてきて。人として憐れでしょうがねーってさ。……おまえのことだよ。柚月」
「もうやめて……‼」
車椅子のうえで胎児のごとく丸まって、縮まって、麻綾は両手で耳を塞いでしまう。もうなにも聞きたくないとばかりだ。
憐れだ。哲郎は思った。
「やりすぎです。哲郎くん」
「こういうやつには、これぐらいキツく言ってやるのがいいんだよ」
「でも少し、私情が見えます」
私情。
そう言われればそうかもしれない。今の自分は感情的だった。
哲郎は頭を掻いて「ごめん。つい」と真魚に謝る。
真魚は謝るのはこちらではないとばかりの顔つきだが、それ以上はなにも言わず、また麻綾のほうを見やった。
あちらのダメージは深刻だ。車椅子で縮こまる麻綾は唇を震わせ、キツく目を閉ざしている。垂れた前髪の間から覗く瞳には、光が失われているかのようだった。そこに横たわっているのは暗い絶望だ。なにに絶望しているのか。理解を放棄した麻綾はきっと、自分でわかっていない。
その背後では、看森が途方に暮れている。こちらに助けを求める眼差しをくれるが、もうどうにもならないだろう。哲郎がこれ以上どう声をかけたところで、逆効果にしかならないのはわかりきっていた。幻想を壊し、今よりマシにさせる——。そう啖呵を切ったはいいもの、果たしてこれが最善の選択だったのか。今の麻綾の様子を見てしまうと、もう一度自分に問うてみたくなった。
どちらにしても、後の祭りだったが。
「——目を開けなさい。柚月ちゃん」
(へ……?)
そんな折だった。
聞き慣れない。でもどこか聞き覚えのある。そんな声がしたのは。
「いつまでもそうやってウジウジして。なんにも変わっていないわね」
「真魚、ちゃん?」
一歩ずつ、一歩ずつ。
悠然とした足取りで麻綾に歩み寄っていくのは、真魚だった。
「な、なんや……」
「なんや? なんやとはなに? まさかとは思うけど、このわたしに反抗しているのではないわよね? そんな口の利き方を許した覚えはないわ。……いいから。そこに直りなさい」
有無を言わせぬ口調は、あっという間に場を支配する。麻綾も「は、はい」と従い、車椅子で姿勢を正す。
「変わらない。不変。わたしがこの世で一番嫌いなものよ。だっておもしろくないのだもの。おもしろくなくてつまらなくて退屈で反吐が出るわ。柚月ちゃんには、だからそうはなってほしくないの。わかるかしら? わたしが言いたいこと」
「な、なんにもわかんな」
「ならわかりなさい。わかるまで考えなさい。愚かな知能でも少しは理解できることがあるはずでしょう。思考放棄は死と同義よ」
ひどく煩わそうにに真魚は頭の後ろ、うなじの辺りに両腕を回す。なにをするのかと思えば——乱暴な手つきで、両方の三つ編みを解いた。ふわりと癖のついた長い髪が、華奢な背中に川のように流れる。
「わたしとしては、柚月ちゃんにはもうこれっぽっちも興味はないのだけれど。むかしの玩具にも、雀の涙ほどの愛着はないことはないから。だから一つだけ。有難い助言をあげる」
そして真魚は微笑んだ。
「おもしろい女になりなさい。そうしたら。また遊んであげる」
生暖かい風が吹き抜けた。さっきまでの冷えた風とは違う、湿気の含んだ風。夏の匂いが、鼻腔をかすめていく。
哲郎は自然と、かつての逢原朔を思い出した。
わがままで気ままで、いつでも不遜に振る舞い、にもかかわらず多くの人望をその身に集める酷く飽き性な昔馴染。その渇きを潤すため、僕たちわたしたちはいつも奔走し、這いずり回り、消耗して……。その光景を見ていつも朔は。
こんなふうに微笑んでいた。
「えっと」
麻綾は、ひたすら呆気に取られたように真魚を見上げ、やがて、保育士に諭された園児のように、頷いた。
「……はい」




