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(1)オールドファッション片手に


 真っ白な紙を上から下まで文字で埋めていく。

 最後の日誌は特別感がほしい。そう思ってあえてテンプレ用紙じゃなく自前のルーズリーフ一枚分につらつらと気ままな文章を綴ってみた。提出するあてもない。日誌もどきの駄文ながら意外と興が乗り、筆が進む。調子に乗っていたと言ってもいい。


 哲郎は昔から気まぐれの手慰みに興じることが多かった。こうやって適当に気持ちを文字にするのが好きだった。きっと朔には見抜かれていたのだろう。


「御子柴くんなに書いてんの?」


 学校のランチタイム。各々が食事や談笑をするなか、くるくるとねじれたリング状のドーナツを片手に黙々と作文に興じる哲郎はそれなりに目立つ。今も通りすがりの女子に喋りかけられたところだ。


「ちょっとさ。おれ日誌係だったから」


「係って、演劇部の?」


「そう。それ」


 シャーペンを動かす手はそのまま、ぱくりとドーナツを一齧り。


「おれってそろそろ部活やめるじゃん?」


「そうなの?」


「そーなの。みんな辞めるみたいだし。この波に乗るしかないってさ。——で。そんじゃ最後に日誌でも書いとくかって。自己満だけど」


 県立響谷台高校の演劇部と言えば、ちょっと前まで部長の緊急入院で騒ぎになったことで有名だ。そろそろ半年が経つが話題の鮮度は落ちていないらしい。「逢原さん、心配だね」女子が痛み入るように呟いた。


「いつ頃良くなるの?」


「わかんない。ぜんぜん目覚める気配がないって。医者もお手上げだって」


「御子柴くんも気が気じゃないよね。彼氏だもんね」


「おれと朔はそんなカンケ―じゃないよ」


「でも幼馴染だったんでしょ?」


「中学からの付き合いってだけだよ」


 哲郎はすっと顔を上げた。昔から「詐欺師みたい」ともっぱら評判だった笑顔で、これ見よがしに食べかけのオールドファッションを掲げてみせる。


「一口食べる?」


「いや要らんしっ」


 冗談のつもりだったが、相手はなにかしら勝手に察してくれたらしい。ひらひらと手を振って女子は去っていく。


 哲郎は香ばしい匂いのするそれをさっさと腹に収めてしまうと、指先についた油を舐めとってから、出来上がった文章をあらためて初めから読んでみた。無駄に長い文章を流し読み、流し読み……。

 五割も読み進めないうちに、くしゃっと紙を潰した。


「文才なし。と」


 好きこそものの上手なれ。

 とはいえことわざにも限度はあるらしい。みるみるうちに丸まっていく紙切れ。そして紙は紙くずに降格。


 教室は廊下側、入り口から一番近い席に座る哲郎は、たった今鼻も噛めないゴミと化した代物をためらいなくゴミ箱目がけて放った。紙くずはゆるっとした放物線を描いて壁に当たり、バンクシュートの要領でゴミ箱に見事収まる。


「もう二度と目覚めないかもなんだってさ」


 だれも聞いていないのを知っていながら、こっそり呟いた。

 ふぁぁ、とのんびり欠伸を一つ。

 気まぐれにしては、けっこう頭を使ってしまった。






 **






 逢原朔がいなくなっても、変わらず日々は続く。

 入学から一年足らずでたくさんの生徒や教師に鮮烈な印象を刻み込んだ逢原朔だ。今でもどこかしこでその話題は上がる。新入生たちの間にもその名は轟いているようで、やれ絶世の美女だったとか慈母のごときご令嬢だったとか、逆に見るに堪えない醜女だったとか、噂は混沌としている。それほどまでに今でも学校では大きな存在感を残している。


「おーい。いつまで寝てるんだ?」


 巨大な大学病院の端っこ。大きな個室のベッドのうえ。

 いっこうに目を覚まさない黒髪の眠り姫がそこにはいた。


 すっかりやせ細った身体に点滴を刺し、そこから栄養を補給しながらなんとか命を繋いでいる少女。長い睫毛のまぶたを閉じる姿は白雪姫さながらの可憐さだ。いつになく幼く思える。大脳をやられていると思われたが損傷はなく、明確な原因も不明、ついでに外傷もなく身綺麗なまま。


 ナントカカントカ意識障害かもしれない、と一旦は診断された。でも実際のところは、病かどうかも怪しい。まったくオカルトな事態でお手上げの処置なし。といったところだ。


「来週厄払いしてもらうって。美代子さんが言ってたぞ」


 美代子とは逢原朔の母親の名前だ。何度か見舞いに足を運ぶなかで、顔見知りとなった。あの母親も、かなり憔悴しているのは見てすぐわかった。とはいえ、あの逢原朔が、悪霊に憑かれたぐらいで音を上げる女とは到底思えなかった。


「ほんと、なにがあったんだよ。おまえ」





 **






 県立響谷台高校の校舎は普通授業をおこなう普通棟と、副教科やその他をおこなう特別棟に分かれていて、朔の華奢な身体は特別棟の影に転ばされていたらしい。近くにはだれもおらず。彼女が普段使いしている車椅子だけが横向きに倒れていたのだとか。


 この日の放課後も、哲郎は特別棟に出向く。廊下の窓際から、特別棟と裏山との間に空いた場所を眺めた。雑草が茂った、じめじめとした小さな暗がり。こんなところで、一体朔はなにをしていたのか。そして、意識を失ったのか。


「どうせろくでもないことしてたんだろうけど」


 特に親しい仲ではなかった。と、哲郎は思っている。じゃあ、どんな関係だったと聞かれると、これにはかなり答えに窮する。

 ただ彼女がなにをしていたのか。そのことに興味を覚え、時おりこうして現場を訪れるくらいには、近しい関係、だったのかもしれない。


「なにやってんだろうね」


 帰ろう。


 こうしてすぐ馬鹿馬鹿しくなってしまうのも、いつものこと。

 帰宅のため、その足で昇降口のほうへ。


 しかしこの日だけは、いつもと違うことが起きた。


「おっと?」


 下駄箱を開けると、そこには一枚の封筒が。


「おれも罪な男だね」


 女の子の香りがプンプンする。淡い桜色の便箋。恋文とは若干時代錯誤だが、だからこそ浪漫は存在する。直前までの感傷はどこへやら、哲郎は胸を高鳴らせる。


 うきうきと手に取って、その手触りを確かめる。さらさらとした紙質がなんとも健気で愛おしい。これはいい。異性に好意を向けられることは今までもそれなりにあったけれど、こういうやり方は初めてだった。青春の意味が今。初めてわかった気がする。


「だれかな」


 なんの気なしに封筒を裏向ける。


「えっ?」


 そして、それが目に飛び込んできたとき、言葉を失った。


「なにこれ」


 筆ペンだろうか、やたら達筆でそこには——『果たし状』と書かれていた。桜色の封筒に似つかわしくない、厳かな四文字だった。


「果たし状……はたしじょう? なんで?」


 近々決闘を申し込まれる予定はあっただろうか。いやない。好敵手と呼べる相手にも心当たりがない。思い当たる節もない。こんなの漫画でしか見たことない。


 高揚感から一転、果てしない困惑を持て余す。哲郎はひとまず、恐々とした手つきで封を開けた。なかには、これまた可愛らしい桜色の一枚の便箋。


『美術室でお待ちしております』


 こっちはおそらくシャープペンシルが鉛筆で、丁寧にそう書かれていた。


「こ、怖い……」


 思ったよりいじらしい文章を目にし、いっそう混迷極まる。


「……見なかったことにしよう」


 触らぬ神に祟りなし。哲郎は決めた。

 決まれば、あとは早い。

 可及的速やかに便箋を封筒に仕舞うと下駄箱のなかへと戻し、哲郎は靴を履き替え、さっさと校舎を発った。






 特別棟は普通棟より小さく、三階まである。

 理科実験室や音楽室など、副教科に使われる教室が並ぶ建物の二階、その廊下のどん詰まりに、指定された美術室があった。


「……」


 美術室のドアを遠巻きに眺め、哲郎はため息をつく。


 一度校舎を出たのというに。なにをやっているのか、怖いもの見たさについここまで来てしまったのだ。


(こればっかりは気まぐれじゃ済まないぞ)


「おれってドМだったんだな……」


 今からでも間に合う。帰ろう。

 と理性では思いつつ、両足は意に反し、美術室のほうへ、甘い蜜に集るカブトムシのように誘われていく。そこになにがあるのか。だれが待つのか。


 ええい、どうにでもなれ。

 投げやりに美術室のドアを開け放つ。鍵はかかっていなかった。


 美術室は照明が点いていた。掃除の後なのだろう、埃が舞っている。


 記憶していた通り、教室には年季を感じる学習机が整然と並ぶ。椅子は背もたれのないスツールタイプ。つんと鼻を刺すのは墨汁の匂いか(ここは書道の授業でも使われるのだ)。ずっと遠くで、トランペットの凛々しい高音が鳴っていた。


 差出人らしき人物はすぐに見つかった。

 教室後方の壁を背景に、少女が姿勢よく立っていたのだ。


(女の子だ)


 すごく小柄な女の子だった。遠目だから余計小さく感じる。長い黒髪は三つ編みにしていて、前髪はセンターパートっぽく広めのおでこがよく見える。地味と言えば地味だが、今はその親しみやすい容姿が安心する。


 あちらも哲郎に気づいたのだろう。少女は表情を変えず一歩踏み出した。


「あなたが一番に来ると確信していましたよ。御子柴哲郎くん」


 目が青色だ、と哲郎は思った。


「えっと……ごめん、おれ覚えてなくて。どこかで会った? 新入生とか?」


 記憶が正しければ、見たことがない女の子だ。けれど、あっちはこちらを知っているような態度である。


「今年からこの町に越してきました。明日この高校に転校する予定です」


「微妙に答えになってないような」


鍛冶谷真魚かじやまおです。よろしくお願いします」


 ぺこり、と律儀に頭を下げる。転校生の少女。


(……話を聞かない子なのかな)


 理解が追いつかず哲郎が立ち往生していると、なにをどんなふうに捉えられたのか「転勤が多い家族なんです」と聞いてもいない補足がされた。


「転校も三回目です。小学生のときと中学生のときに二度。高校はないと思っていましたが父親の都合で。五月になったのはわたしがずっと入院していたからです」


「めちゃくちゃ喋るじゃん……ってなに? 入院?」


「はい。三月下旬からつい先日まで。ずっと気を失っていました。……逢原朔さんのせいで」


「えっ」


 思わぬ角度から馴染みのある名前が飛び出した。どういう事情だろう、と哲郎は聞く姿勢に入るが、「説明はあとで」と先を制される。


「今はみなさんが来るのを待ちます」


「みなさんって?」


「あなた以外に三人、果たし状を送りつけましたので。もうそろそろ来る頃合いかと」


 冗談の通じなさそうな真顔で語る。これは。間違いなく本気だろう。


「鍛冶谷さんだっけ? 一応訊くけど、果たし状の意味知ってる?」


「当然です。ジャパニーズが文を送るうえでは最上級の形式です。アメリカに住んでいたときに友人から教えていただきました」


「また斜めな回答だな。なに? 鍛冶谷さんって帰国子女なの?」


「いかにも」


「いかにもって」


(そんな武士みたいな)


 この子と喋るの疲れるかも、と哲郎は思った。

 それはともかく。


「たぶん果たし状って喧嘩売るときに出すやつだよ」


「えっ……?」


「おれが言うのもなんだけどさ。あれでほいほいやってくる奴はいないよ」


 鍛冶谷真魚と名乗る少女はしばらく目をまん丸にしたまま固まっていた。元から目が大きいせいでこの距離でも表情がわかりやすい。


「天然さんってよく言われない?」


「お、オオサンショウウオですか」


「天然記念物ね。それは。つかそーゆーのは知ってんだ」


 意外とおもしろい子なのか?

 哲郎は少し笑いそうになった。


「まあいいや。勘違いなのはわかった……それで? 実際なんの用件で呼んだわけ? まさかマジで決闘するわけじゃないよね?」


「ち、違います。わたしはただ。みなさんを解放してあげたいだけです」


「は? 解放? なにから?」


 少女はややサイズが合っていないのか、ずり落ちそうになっている黒のブレザーを羽織るように着なおしてから言った。


「逢原さんです」


 満を持したふうに言う。次いで、おもむろに動き出す。カツカツとローファーを鳴らして哲郎の横を通り過ぎると、教壇のほうへと歩いていく。


「明けない夜はありません。上らない太陽はありません。救済もまた等しくやってきます」


「……宗教勧誘かなにか?」


「真面目に聞いてください。わたしは逢原朔さんのことを知っています。逢原朔さんに目をつけられ彼女に高校生活を歪められたあなたたちのことも、知っています」


 生活を歪められる。妙に大袈裟な口ぶりじゃないか。


「あなたたちは被害者です。過去も。そして今も」


「あのさ」


「だから放置しておくことはできせん。あなたたちは自由になるべきです。逢原さんの呪縛から解放されるべきです」


「話聞いてくれる?」


 教壇のうえで真魚が振り返る。綺麗に整えられた前髪がさらりと揺れる。

 言い知れぬ迫力を覚え、哲郎は息を詰まらせた。


「御子柴哲郎さん。現在十六歳。誕生日は九月二十一日。身長は百七十七センチ。両親ともに公務員。弟は今年から中学生。薄い茶髪は父親の遺伝。さらに遺伝で父親とおなじ左胸に痣があります。幼い頃にベッドから転倒し人差し指を骨折、そのときの指は今でも少し反りかえっています」


「えっと……ストーカー?」


「歯磨きは長いタイプで今のところ虫歯はゼロ。右下の親知らずを中学の頃に摘出。当時の名残で今でも左側の歯で噛む癖があります。趣味は少ないほうで家では弟のゲームに付き合ってあげています。お小遣いは主に読書に使いますが、大体途中までで辞めてしまう。最後まで読み切った本とそうじゃない本で違う本棚に入れています。勉強は得意なほうですが歴史に興味を持てず苦手としている。小学生のときにカンニングの経験あり。スポーツは得意ですが疲れるのが嫌い。高校を響谷台に選んだのは逢原さんに命令されたから。演劇部も同様の理由です。一年の秋におなじクラスの飯田さんから告白されて断っている。好みは物静かで背が高い女の子。おなじ演劇部だった胡桃沢さんが一番タイプ。演劇では脇役が多め。ほんとうは裏方をやりたがっていましたが逢原さんの指示でしかたなくやっていました。部では特別仲のいい方はいませんでしたが同級生の堂前くんをよくからかっていました。別クラスの柚月麻綾さんとは犬猿の仲で会うたびにいがみ合っています。軽薄なあなたが感情任せに喋る唯一の相手と言えるでしょう。学校の生活に態度に関しては——」


(おいおい、なんだこれ)


 圧倒されるしかなかった。

 少女はなおも止まらない。まるで表示されたデータを読み上げるように。淡々とした口調で御子柴哲郎という人間を詳らかにしていく。


「逢原さんとの関係は端的に言えば……いえ。これは言う必要ありませんね」


 かと思えば、急に頬を赤らめて咳払いをした。ちらちらと意味ありげに哲郎に目をくれる。その視線は、哲郎の下半身に向いている気がしたが、哲郎に気にする余裕はなかった。


「きみは、一体何者なんだ? なんでそんなにおれのこと知ってんの? しかもそんな、だれにも言ってないことばかり」


「だれにも、ではないでしょう?」


 確信を持ったその言い方が、やけに、癇に障った。


「いや……まあ、朔にはぜんぶ言ってるけどさ」


「だからですよ」


 コホン、と少女は咳払いを一つ挟んで。


「わたしは、逢原朔さんの記憶を持っているんです」






 カキン、と金属バットの快音がどこかで響く。


 事ここに至り、哲郎はついに理解した。これはあれだ。新手のドッキリというやつだろう。きっと今にもそこの入り口から朔が現れてサプライズを明かしてくれる。半年ぶりの退院祝いだ。派手に演出したかったに違いない。


 けれど。いつまで経っても入り口は開かれなかった。


 教壇のうえで真魚はふところを探る。やがて取り出されたのは——透明な、いや、かすかに青い、手のひらに収まるサイズの指輪のような代物だった。つるりとした質感のそれは希少なものに見えなくもないが……。


「それはなに?」


「ドイツの錬金術師が錬成した魔法の道具です。魔法というのは便宜上そう呼ばれているだけで実際は数人の術師が特別な儀式を介してつくりあげた空想の異物です。儀式を主導した者の名前を取り、『ノアザリング』と呼称されています」


「さっぱりわかんないんだけど」


「ここに。逢原さんの記憶が封じ込まれていました」


「はあ?」


 真魚は教壇のうえに魔法の指輪とやらを置く。カン、と意外に軽い音がした。


「去年の冬休み。逢原さんがどこにいたか。ご存じですか」


 去年の冬休み……、たしか、


「……たしか、家族旅行だって」


「はい。ですが実際は一人でドイツに向かっていたんです。この魔法の指輪を手に入れる取引をするために。逢原さんは禁忌に手を染めようとしていた」


 哲郎はいよいよ途方に暮れた。「わかった。わかったよ。ちょっとぐらいは付き合ってあげる」立つのも億劫になり、手近の席に腰を落ち着ける。


「仮にその話がほんとうだとして。朔はなんのためにそれを欲しがったんだ?」


「『ノアザリング』は個体によって異なる効力を発揮します。この青い個体が持つチカラは『他人の肉体を奪い取る』というものでした。逢原さんはこれを利用しようと考えたんです」


「他人の肉体を奪うね……。まあ、朔が考えそうなことではあるけど」


「逢原さんは大金を費やし、これを手に入れて帰国しました。そして長期休暇明けに、魔法の標的を選別していたところ、誤って効力が発動してしまったんです」


「ふぅん。じゃあ今朔はだれかの身体を乗っ取ってるって?」


 馬鹿にしたように哲郎はせせら笑った。真魚は真面目な顔つきでかぶりを振る。


「いえ。結果的にそれは失敗しました」


「失敗?」


「はい。そもそも効力の理解が誤りだったんです。勘違いだったんです。ほんとうは『他人の肉体を奪い取る』ではなく、『他人に自らの記憶を移す』チカラだったんです」


「なんだって?」


 真に迫った語り口調に哲郎はつい身を乗り出しそうになる。


「このチカラにはおそらく必要なプロセスが二段階あります。初めに、この道具に自らの記憶を封じ込めること。そして最後にその状態の道具にもう一人が指を通すこと。この条件を経て、ようやく術者の記憶はもう一人に受け継がれるということです」


 真魚はそのときふと、恨めしそうな眼差しで教壇の指輪を見下ろした。


「逢原さんは一月下旬にこの事故を起こしました。けれど『ノアザリング』は、この指輪はまだあの場所に落ちていたんです。わたしは三月の春休み。転校の手続きのついでにこの校舎を見て回り、旧校舎でこれを見つけました。そして指を通してしまったんです」


 平坦な話し方の端々に初めて感情がにじんだ。気がした。


「その瞬間の記憶は一切ありません。ただ必死に母親のところまで戻って……気づけば病院のベッドで眠っていました」


 そして二か月余りが経過していることを知ったと。

 そういうことらしい。


 哲郎は、どかり、と椅子の背に体重をかけた。


「作り話にしちゃ、いろいろと鬼気迫ってるね」


「事実です。信じてください」


「そう言われてもさ」


 説得力だけはまあ、なくもないけれど。全体的に漫画の設定を解説されているようで、実感もくそもない。


「もっとさ。ないの? おれがすぐに信じちゃうような、なんかそーゆーやつ」


「……ひょっとしたらというものはありますが、気が進みません」


「出し惜しみは勘弁してくれよ。ここまできてさ」


「そういうわけではありません。ですが」


 なにをためらっているのか。訳アリな様子だ。


「まあ、嫌ならいいよ。なら、この話はじゃあぜんぶ、鍛冶谷さんの漫画の読みすぎってことで」


「待ってください。わかりました。やります」


 そうこなくては、と哲郎は我が意を得る。


 真魚はよっぽど嫌なのか、しばらく踏ん切りがつかない顔で唇を引き結んでいた。やがて観念したように息をつく。


「では目を閉じて……いえ。わたしが塞ぎます。あなたはじっとしていてください」


 なにが始まるのか。真魚は教壇を下りるとその足で哲郎の背後に回った。「な、なにする気?」一気に不安が込み上げる哲郎をよそに、真魚が後ろから両腕を回し、哲郎の両目を覆う。


「もしかして鍛冶谷さん、おれとイチャつきたいだけ?」


「やかましいです、黙ってください。あなたがやれと言うからやるんです。いいですか? 絶対に振り向かないくださいね。さもなくば、このまま目を潰します」


 頷くしかない。

 嫌な予感がするが時すでに遅し。今はただ女の子の柔らかな手の感触に気を取られるだけ。鍛冶谷さんの指先は少し冷たかった。


 この背後で、真魚は一体どんな顔をしているのか。「ふぅ……」と呼吸を整える声がすると、意を決したような気配がたしかに、あった。


『聞きなさい。——哲郎』


 そして、息が止まった。


『物分かりがいいことだけがあなたの長所だったのに。少し見ない間にずいぶんと頑固になったものね』



 暗い視界のなか、鼓膜を震わせる、一転して大人びた声。

 声質は先程までとおなじ少女のものでしかない。だが。


『またきつい調教が必要かしらね』


 その話し方は、抑揚は、息遣いは、まるで——。


「……朔?」


 するり、と両目を覆う拘束がなくなる。


 直後、バタンッと鈍い音がした。


 つい後ろを振り返ると、真魚が教室の床に膝をついていた。近くの机を支えにして。ぜえぜえと呼吸を荒げている。


「お、おいおい、鍛冶谷さん? 大丈夫?」


「すみません。もう限界です。これ以上は……」


 憔悴する真魚をなんとか椅子に座らせる。


「なんで急にそんな疲れて……というか、今のは……」


「……わたしのなかの逢原さんです」


「は?」


 真魚は緩慢な動きで額ににじむ脂汗を拭った。


「すみません。これ以上の説明は……自分でもよくわからなくて」


「……」


(ほんと。なんなんだ。この子)


 急に呼び出されたかと思えば、人の話も聞かず一方的にわけのわからない妄言をまくし立てて、救うとかなんとか勝手なことを抜かして、あげく突然目の前で倒れて。


「はぁぁぁ」


 危なっかしくて見ていられない。


「わかったよ、もう。鍛冶谷さんの言うこと信じるから」


「ほ、ほんとうですか?」


「可愛い女の子にそんな顔されて、これ以上嘘つけだなんて言えないよ」


「か、顔ですか」


「もちろん。おれってけっこう軟派なやつだから。覚えといて」


 真魚はふっと俯き、なぜか、辛そうな表情をして、


「……知ってます。記憶がありますから」


 そう呟いた。


 

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