(終)ドーナツは甘くておいしい。
六月も折り返しが近づく。
開け放たれた教室の窓からは気が早い蝉の鳴き声が聞こえ、からっとした暑さとぬめっとした蒸し暑さが仲良く交互にやってくる忙しい日々に嫌気が差した生徒たちからは「さっさと冷房をつけろよ教師ども」と苛立った恨み節がぽつぽつと出始め、総じて夏であった。去年新しくなったばかりの教室の大きな冷房も今年はまだ無用の長物。大人の考えていることはよくわからない。
朝早く登校した哲郎は涼しげに開いたカッターシャツの襟元をさらに開き、袖を捲った腕で肘をつくと、頬杖をつき何度も欠伸を噛み殺していた。廊下側の席も漏れなく暑い。だが哲郎は昔から暑さには強く、あまり汗はかかない。慢性的な運動不足に起因した代謝の悪さが今日も哲郎の乾いた肌を守っている。まったくもって褒められたものではない。
隣の席では、依然として埋まらない空席が今日も寂しい沈黙を保っている。
一度復調したかと思えば再び倒れてしまったので、例によって心配性な両親に言い含められ、休学が伸びた形らしい。屋上で気を失ってからの数日は一つの連絡もなく、 今日に至るまで音信不通。哲郎の脳裏ではm小柄なイノシシが檻のなかで退屈そうに管を巻いているイメージが浮かんでいる。本当に。今頃どうしているのやら。
「おはよう」
「えっ?」
などと。
他愛もない想像で睡魔を誤魔化していた哲郎は、突然の挨拶に我に返った。
制服姿の少女が目の前に立っている。
相変わらず小柄な少女だ。夏服の袖から覗く腕があまりにも白すぎる。スカートは規定通りの膝下数センチ。黒髪の三つ編みと相まって、いかにも模範的な大和撫子らしい。けれど童顔にしては少し高めの鼻筋と、青空を思わせる二つの碧眼が相反した異国情緒を思わせる。アンバランスさがむしろ目を惹く。奇跡みたいだ、と哲郎は今になって思った。
「今のわたしはだれに見える?」
返答に淀みはなく。
「真魚ちゃんでしょ?」
少女は長い睫毛に縁取られた目を瞬かせた。
「……やっぱりわかりますか」
「いや見たらわかるし」
「ですよね」
見ればわかる。だれがどう見たって。
真魚はくすぐったそうにはにかんだ。
「真魚ちゃんってさ。よく見ると、ちゃんとハーフっぽい顔してるんだね」
「ハーフではなくクォーターですが」
「なんか和洋折衷って感じ。使い方合ってないだろうけど」
「わたしに中国の血は入ってませんが」
「ん?」
ふたりは顔を見合わせ、揃って小首を傾げる。
(もしかして)
「和洋折衷の『チュウ』って、中国の中じゃないよ?」
中も衷も、ほとんど同じ意味らしいが。
すると真魚はほんのり頬を赤く染めた。どうやら勘違いしていたらしい。
「日本語って難しいよね」
「適当なフォローならいりません」
哲郎はくつくつと笑いを堪える。
「改めておはよ。真魚ちゃん。気分はどう?」
「哲郎くんのせいで最悪です」
照れくささを払うように真魚はどかりと席に腰を下ろした。
一日のカリキュラムを終え、放課後。帰宅部の哲郎は本日も部の活動理念に従い、即帰路に就く。しかし昇降口に近づき、下駄箱の前まで来たところで真魚ががくりと肩を落としてしまった。
「勉強についていけません」
「そりゃ、あれだけ休んだらね」
およそ二週間程。真魚は学校を休んだ。その分授業も先に進んだことになる。あとで補習なども準備されているだろうが、真面目な真魚が打ちひしがれるには十分は時間だったようだ。
「ヤバいです。超絶ヤバいです」
「真魚ちゃんがギャルみたいに」
「このまま期末試験で不甲斐ない点数を取ってしまったらどんな目に遭うか……」
「どんな目に遭うの?」
「ママに叱られ、パパには呆れられ、弟には死ぬほど馬鹿にされます」
「厳しい家族なんだ。……あと弟いたんだね」
意気消沈する真魚を慰めつつ哲郎は校舎を発つ。
夏は陽が長い。眩しい陽光と青空がしばらく続く。明るいうちから帰宅するのにも、すっかり慣れた。時の流れの速さを不意に実感する。きっとそうこうしているうちに夏休みがやってきてしまう。
「一応訊いておきたいんだけどさ」
校門をくぐり、哲郎はそう前置きをして問うた。
「ぶっちゃけ今ってどんな感じなの?」
「なにがですか?」
「記憶ってゆーか人格ってゆーか。そういうの。なんかすっかり調子も良さそうだしさ。今の真魚ちゃん」
不意に眠気が込み上げ、ふわああと大きな口を上げて欠伸をすれば、真魚がだらしないですねと言わんばかりの半眼でそれを見上げる。
「わたしがわたしを強く意識する限り、そういった心配はいらないような気がします。逢原さんの記憶が消えたわけではありません」
「ごめん。どーゆー意味?」
「少し前までは、絵の具の一部が混ざり合ったような感じで。意識が混濁しているような感覚があったんです。でも今はそれが整理された感じで、わたしの記憶と逢原さんの記憶が分かれて、はっきり棲み分けされたような感じがしていて」
「感じばっかで全然伝わんないんですけど」
「もう大丈夫だということです」
「うわ、急に雑な感じ」
難しい話を聞いても大体は右から左に抜けていく。哲郎はそういう人間だ。ただ曖昧な感覚を語られるよりも「大丈夫だ」と一言伝えられるほうが安心できるのも事実だった。
「なんですか文句ばっかり……もういいです。哲郎くんには説明しません」
真魚は唇を尖らせ歩調を速める。
坂を下っていく少女の後ろ姿を見つめながら、哲郎はこの数週間のことを思った。いろんなことが変わったようで。その実なんにも変わっていないような気もする。そんな数週間のことを。
(あんまし覚えてないけど)
この先もいろんなことが変わったり変わらなかったりするのだろうか。哲郎はそんなふうにぼんやり考えつつ、不意ににやりと笑い、真魚に声をかけた。
「真魚ちゃん。今時間ある? 街のほう行かない?」
「なんですか急に」
「休学明け祝いだしさ。ちょっとご馳走してあげようと思ってさ」
真魚が下り坂で立ち止まり、見透かした眼差しを向けてくる。
「そんなこと言って。どうせまた甘いものでも食べさせるつもりでしょう」
「ありゃ。バレた?」
「悪知恵を働かせるなら、まずその軽薄な顔をなんとかするべきですね」
「生まれつきなんだけどなあ」
(そんなチャラついた顔なのか、おれは)
いよいよ自分の顔立ちに自信が失くなってきた哲郎である。
「ふん」
真魚はそっぽを向くとまた歩き出す。
「それで。以前行ったベーカリーでいいですよね」
「うぇ?」
「早く行きますよ。悠長にしているとドーナツが売り切れてしまいます」
「や。でも真魚ちゃん……」
「さっさと歩く。ほら」
こっちには目もくれず、真魚は坂を下ると商店街のアーケードのほうへ。がやがとした喧騒のなか、哲郎行きつけのベーカリーが目に入ると、迷いのない足取りで自動ドアを通り抜けた。
店内は香ばしい匂いで満たされている。真魚は食べるものは最初から決めていたかのように淀みなく動き、さっさと会計を済ませてしまうと一人歩いていく。出遅れた哲郎は慌ててシナモンとフレンチクルーラーを買うと少女の後を追い、カフェスペースへ。ふたりで向かい合うかたちでテーブルにつく。
「あの、真魚ちゃん?」
真魚は、やけにむっつりした顔で手に持ったオールドチョコファッションをじっと凝視している。なにやら、並々ならぬ気迫すら感じる顔つきだ。
「ヤケになってるとかなら、べつに無理しなくてもさ……」
「わたし。本当は甘いもの好きなんです」
「え?」
ぽつりとこぼされた呟き。
「この町に越してくるまでは、時々食べていました」
気のない声でそう続ける。
哲郎はつい目を丸くした。
「そう、なの……? じゃあなんで今まで」
「不味く感じたらと思うと、怖かったんです」
「え?」
「あの人みたいに」
静かな声音に、ほんのりと切実な響き。
あの人とは、一体だれのことを指すのか。
哲郎の周りで甘いものが嫌いだったやつは、一人しか知らなかった。
「あっ」
哲郎が声を発したときにはもう遅く。意を決した真魚が、大袈裟に口を開けて齧りついていた。食らいついていた、と表現したほうがいいかもしれない。まるでファーストフードのCMさながらの豪快さと勢いで、オールドチョコファッションに大きな歯形が出来上がる。
「真魚ちゃん? 大丈夫……?」
もぐもぐとリスのように頬張った真魚が無心で咀嚼しているのを、哲郎は戦々恐々とした顔つきで見守る。
「ど、どう?」
やがて、ごくり、とお手本のような嚥下の音がした。
「あ、甘いです」
「まあ……そりゃね」
(ドーナツだし……)
「焼き加減が絶妙です。チョコも良いアクセントになっていて、香ばしい風味のなかに優しい甘さがあり、味のバランスが最高です。ドーナツの宝石箱です」
「そんな食レポみたいな」
興奮を鎮めるように一息をつくと、真魚は油分で艶めく唇を柔和に緩めた。
「美味しいです」
「……」
哲郎は、ほっと胸を撫で下ろした。つられて笑う。
「良かったね。真魚ちゃん」
「はい」
気のせいだろうか。
今の真魚は、初めて会ったときから今までで一番幼い表情をしているように思えた。一転して興が乗ったように言う。
「絶品ですね。シェフを呼んでください」
「それはレストランとかでやるやつだね」
「哲郎くんのも美味しそうです。一袋もらってもいいですか?」
「そこは一口が相場だよ」
「ご馳走してくれると言ったのは哲郎くんですから。あっ、これも奢ってくださいね。休学明けですもんね」
「真魚ちゃん、そんなゴリ押しタイプだったっけ」
「女の子は甘いものを食べるとテンションが上がるものです。勉強になりましたね」
「あー、そうだね。うん。なんかもういいや」
こぼれ落ちそうな柔頬を手のひらで支えるようにして、もぐもぐと舌鼓を打つ真魚。嬉しそうでなにより、と微笑みながら哲郎もフレンチクルーラーを一口。
揚げたてのカリッとした口当たりの直後、もちもちとした食べ応えのある食感が広がった。香ばしい甘さが口のなかを包み込む。
「これこれ」
空きっ腹を刺激するこの味がたまらない。
「珈琲が欲しくなりますね」
「えー。邪道でしょ。こういうときはカフェモカだよ」
「どれだけ甘いもの好きなんですか」
しばらくの間、至福の時が流れた。
続編の構想あり。
更新は未定のため、いったん完結とさせていただきます。




