(15)君はどこに
一週間と少しが経った。
まだ真魚は登校してきていない。
暦が六月になると夏の気配が本格的になる。前日が雨だったこともあり、その日の教室は蒸し暑く、開いた窓からは生ぬるい風しかやってこない。いっそのこと窓を閉めてほしかった。
昼休みはいつものように教室廊下側へ。無人となった真魚の席でフレンチクルーラーを頬張るのが、すっかり習慣になっていた。教室はもちろん、廊下を行き過ぎる生徒たちをぼんやり眺めていると、涼しいカッターシャツ姿が目立つようになっていることに気づく。季節は変わり始めている。
「なぜおまえが鍛冶谷さんの席に座っている」
「薫ちゃん。こんちは」
いつのまにか、薫が半眼で哲郎を見下ろしている。
「つい習慣でさー。でもいちいち椅子持ってくんのもめんどいし。ちょうど真魚ちゃんも休学中だから」
「鍛冶谷さんになにかあったのか?」
そうか。薫はクラスが別だった。知らないのも無理はない。
「まあ、体調不良?」
「問題ないなのか? それは」
「この前会ったけど。大丈夫そう、ではあったかな」
「おまえが言うと、どうも信ぴょう性がないな」
失礼な話だ。
でもたしかに別れ際の最後の真魚からは、「大丈夫そう」と言葉にするのは怪しいほど、余裕が失われていたように思う。
哲郎は袋のなからリング状のドーナツを掴む。机のうえで顎肘をつくと、いっぽうの手に持ったそれを退屈そうに見つめた。
「ねぇ。もしも薫ちゃんがプロポーズするとしてさ」
「なんだ藪から棒に」
「やっぱサプライズとかにする? 相手がびっくりするタイミングで指輪とか出してさ」
「はぁ……」
付き合い切れないとばかりのため息。
「回りくどい真似は嫌いだ。正念場なら、なおさら正面から伝えるべきだ」
しかし結局は答えてくれるのが薫という男である。
「……そっか。じゃあ違うのかな」
「気もそぞろか。いつも腑抜けているが、今日は特にひどいな」
「じゃあやっぱりたまたまなのかな……。怒らせちゃった弾みでとか? いやでもなあ……」
「……はぁ」
深々と、再びため息。
「珍しく悩んでいるのかと思えば色恋沙汰か。軟派なやつだな。相変わらず」
「薫ちゃんほど恋愛脳じゃないけどね」
「なっ」
悪戯っぽく言い返してやれば、薫はまんまと二の句が継げなくなった。「勝手にしろ……!」と捨て台詞を吐いて去っていく。
「薫ちゃんは優しいな」
肩を怒らせて歩き去っていく後ろ姿を眺めながら、哲郎はあむっとフレンチクルーラーを頬張る。甘ったるい味が口いっぱいに広がった。
「なにを気持ち悪い顔で見ているのかしら?」
「え?」
薫と入れ替わるような廊下の位置に、少女が立っている。
足音もなく、まるで忽然と現れた。
三つ編み姿の小柄な少女。見慣れたスカイブルーの瞳がこちらを見下ろしている。——真魚だ。頭がそう理解するまでに、なぜか数秒ほど要した。哲郎は驚き、ついむせてしまう。
「まっ、真魚ちゃん? なんで、休学中だったんじゃ……」
「野暮用でね」
一応制服姿だが学生鞄もなにも持っていない。真魚は流れるように教室に入ってくる。「どきなさい」と二もなく哲郎を追い払い、自席の引き出しを覗き込んだ。続いて手を突っ込み、がさがさと漁り始める。
「ないわね」
「なに、やってんの?」
「ここじゃないのかしら? ねぇ、哲郎。あなた家に来たときなにかもらわなかった?」
見上げられた拍子に目が合う。哲郎は言葉が出なかった。
「わたしを無視するなんて良い度胸ね。そこに直りなさい。踏んであげるわ」
「真魚ちゃん、なんだよね?」
「いかにも。鍛冶谷真魚。十五歳。血液型はA型。八月生まれの乙女座。MBTI診断は提唱者型。動物占いは黒ヒョウよ」
「そこまで訊いてないよ」
「身長百五十四センチ。華奢なちんちくりんだけれど胸は意外とあってヒップもそこそこ。将来性を鑑みればトランジスタグラマーも夢じゃないかもしれないわ。そうね。少しマニアックな層にはウケるのではないかしら? ええ。知らないけれど」
「いや、訊いてない訊いてない」
この人の話を聞かない傍若無人ぶりは、まるで……。
ごくり、と哲郎は息を呑む。
「それにしてもあなた、相変わらずの偏食家ね。毎日毎日そんなクドいものばかり食べて。どうして飽きないのかしら」
「えっと……」
困惑に困惑を重ねながらも哲郎は一つ。とある確信を持って口を開く。「鍛冶谷さん! 大丈夫だったの!」しかしすんでのところで遮られた。教室の女子たちが真魚の存在に気づき、あっという間にクラスメイトたちに囲まれてしまう。
「……」
哲郎は呆然とした表情でそれを眺めた。
放課後になった。
帰りのホームルームが終わると、真魚が颯爽と教室を出ていく。哲郎は慌てて学生鞄を引っ提げると後を追った。
廊下の先、足を弾ませ駆けていく少女の後ろ姿が見える。かなり下手くそなスキップだ。哲郎はおろか、廊下にたむろする生徒たちも唖然としている。
昇降口の近くで、哲郎はやっと呼び止めた。
「ちょっと待ってくれよ」
少女がぐるりと首を巡らせる。三つ編みが少し揺れた。
「……なにか用? わたし今忙しいのだけれど?」
「急に来たかと思えば急に帰んのか? どんだけマイペースなんだ」
「今更ね。わたしが他人の調子に合わせるような人間に見える?」
「真魚ちゃんはそんなこと言わない」
ふむ、と真魚はおっとり頬に手を当てて。
「よくわからないですわね。言いたいことがあるなら早く話してくださる? 哲郎くん」
「だれだよ。その変な喋り方は」
逃がさないぞと牽制する哲郎の前で、真魚は頬に手を当てて思案顔。……かと思えば、人を食ったような微笑みを浮かべ、
「さあ? 哲郎はだれだと思う?」
「こいつ……」
真魚のこんな表情、見たことがない。
「そんな話し方じゃ。まるで……朔が喋ってるみたいだぞ」
「哲郎のくせに鋭いじゃないの。よく見抜いたわ。ご褒美に頭でも踏んであげましょうか?」
「勘弁してくれ」
こんなの、だれでも気づく。
哲郎は苦い顔で「演技が下手なんだよ」と吐き捨てた。
「一体なにがどうなってそうなってんの?」
「いいでしょう。話してあげる。でも歩きながらね」
下駄箱で靴を履き替え、昇降口を発った。
外は皮肉なほどに快晴で、空はまだ青々としている。漫然と帰路につく哲郎たちのそばを、部活へ向かう生徒たちが走り過ぎていく。校舎は活気づいている。
しばし進んだところで、真魚が猫のようにぐんと伸びをした。やたら晴れがましい表情で、遠くに見える校門のほうを見据える。
「自分の足で歩くというのは、やっぱりいいわね」
爽やかな声だ。
「それは、どういう意味だよ」
「そのままの意味よ。長い間ずっと車椅子生活だったから。こうして地に足をつけるだけで、今は気が弾んで仕方がないの。これだけで『ノアズリング』を使った甲斐があったというものよ」
「久しぶりに聞いたな、その名前。それってあれだろ。朔が胡散臭い奴らにまんまと騙されて買わされたってやつ」
「その口、縫い付けてあげましょうか?」
脅し口調に反して少女の足取りはあまりに軽やか。
「まあ、聡明なわたしとしてもこの結果はいささか意表を突かれてしまった形よ。ええ。それは認めましょう。けれど、これはこれで悪くないものよ。まるで生まれ変わったみたいだもの。さしずめこれが不死身に至るという命題の一つの答えなのでしょう。彼ら錬金術師にとっては実験の一環だったのかもしれないわ」
「なに言ってんのかさっぱりわかんないし。どうでもいいから、今の真魚ちゃんがどうなったのか、聞かせてくれよ」
「つまらないわね」
校門を抜ける。
哲郎の一歩先を、真魚が歩いていく。この位置関係こそが当然だというように。哲郎はふと思う。そういえば、自分はいつも後ろから朔の車椅子を押してやっていた。「では頭の悪い哲郎にもわかるよう、短くまとめてあげる」真魚は後ろ手を組み、やや早歩きで言う。
「要するにね。鍛冶谷真魚という人格は飲み込まれてしまったのよ」
「なにに?」
「逢原朔の記憶に決まっているじゃない」
哲郎は眉をひそめた。
「この一ヶ月にも満たない期間、鍛冶谷真魚の頭のなかでは絶えず二つの記憶がせめぎ合っていたわ。一つは鍛冶谷真魚本人の記憶。もう一つは逢原朔の記憶。『ノアズリング』によって無理やり入り込んだ膨大な記憶量は、鍛冶谷真魚の思考と意識をかき乱し、ときに溶け合い、ときに反発し合い、人格を徐々に蝕んでいった」
少女の三つ編みが、右へ左へ踊るように弾む。
「ほんとうなら、とっくの前に正気を失っていてもおかしくなかったのよ。なのにこの子ときたら、必死に自我を保とうとしちゃって。大した胆力よ。まったく、鬱陶しいったらないわ」
「真魚ちゃんもう、限界だったって?」
「彼女の精神力なら、むしろまだ余力は残っていたと思うわ。けれど幾度に渡ってわたしの記憶にアクセスしたのが駄目だったのね。その負担は肉体と精神、両方に重くのしかかった。あなたも身に覚えはあるでしょう?」
この一か月ほどの間で、真魚が何度か疲弊した姿を見せていた。そしてそれは総じてどれも、真魚が別人のような振る舞いをした後だった。
「そしてついに正気を保てなくなったとき、今のわたしが誕生した。あなた知ってる? 記憶と魂には強い結びつきがあるらしいわ。錬金術師の受け売りだけれど」
「多重人格、ってことか?」
「もちろん違うわよ。言ったでしょう。鍛冶谷真魚の人格は飲み込まれてしまったって」
「……もう戻ってこないって言いたいのか?」
ぐるりと首を巡らせた真魚が、真魚の姿をした少女が、微笑む。「そういうことね」どこか勝ち誇ったような表情だった。
「マジかよ……」
「マジよ」
なんてこった。
哲郎は頭を抱える。
この少女の言い分を真に受けるなら、どうにかする段階はとうに過ぎていることになる。ことは進退窮まっている。
どうすればいい?
考え込む哲郎の目の前で、少女は嫌に清々しそうにその場でくるりと回ってみせた。長いスカートが羽のようにひるがえる。
「さあ。逢原朔第二章の始まりよ。今日が記念日ね。祝杯を挙げましょうか」
「おまえ、ウザすぎる」
「生意気ね。飼い犬なら素直にワンと鳴くところでしょうに」
少女はそして、悠然と歩き出す。
「というわけで。行くわよ」
「いや、どこに」
「いいから。ついてきなさい」
歩みに迷いはなく。背中にはなにか明確な目的があるようだった。
素直に従う必要はないはずだった。
それでも哲郎は結局、言われるがまま少女についていく。
過去の弊害というやつか。自然と逢原朔に付き従うということを、身体が覚えているようだった。なんにも進歩していない自分に哲郎はあきれる。
まるでリードに繋がれた飼い犬のような心地で後を追うがまま、ようやく到着したのは、駅近くにある大学病院だった。植物状態の逢原朔が眠るあの病院だ。院内は依然として混雑している。
少女は勝手知ったる歩みで院内を進む。
逢原朔の病室に到着すると、躊躇なく入室した。
「相変わらず見惚れるほどの美少女ね。まるで王子様のキスを待つシンデレラのようだわ」
ベッドのうえでは、いつかと同じ体勢で逢原朔が寝かされている。いや、前に来た時よりも痩せたような気もする。
「まるで王子様のキスを待つシンデレラのようだわ」
「なんで二回言うんだよ。やんねーよ」
「つまらないわね」
言ったきり、真魚の姿をした少女は部屋を物色し始めた。窓辺の花瓶や、小さい冷蔵庫のなか、ベッドの下までくまなく確認している。物色というより物漁りだ。妙に泥棒じみた動きに見える。
「ここにもないのかしら? だとしたらどこに」
「さっきからなにしてんの?」
「はぁ、まったく不便でしょうがないわね」
「いやだからさ」
「そうだ」
言葉を遮り、なにか思い至った少女が哲郎を見上げる。
「あなたがいたわね。哲郎」
「なあ、もうさっぱりなんだけど」
「命令するわ。鍛冶谷真魚の、この数週間の行動ルートを教えなさい」
ずいぶんと。
おかしなことを訊くものだった。
「……なんで?」
「『ノアズリング』が消えたのよ」
こともなげに言ってのける。それはあの曰く付きの青い指輪の名前だ。さらにため息交じりに「どこを探してもないの」と続ける。
「失くしたってこと? あの指輪を」
「わたしが紛失したのではないわ。正確にはこの子が失くしたの」
言いながら、自らの顔を指差した。
「そりゃ大変だな。烏にでも持ってかれたか」
「それならまだいいのよ。万が一だれかほかの人間に拾われていたら、不味いことになるわ」
「なんで? もうただの指輪なんだろ?」
哲郎が言えば、「馬鹿ね」と短い叱責が返ってくる。
「あなた。まさかあれを使い切りの消耗品だとでも思っているの?」
「違うのか?」
「違うわ。『ノアズリング』は正真正銘、魔法の道具なのよ? 制限なんてないわ。だれかが指輪に指を通すだけで、問答無用にチカラが発動してしまう」
「なんか、ヤバそうに聞こえるんだけど、それ」
「ヤバいわよ。今のわたしのような子が、また増えるかもしれないわ。だから早く回収しないといけないの。そのために鍛冶谷真魚の近々の行動を洗う必要があるわ。わかった? わかったならさっさと教えなさい」
矢継ぎ早に捲し立てる。なにか誤魔化しているように見えなくもない。結局よくわからないのが感想だ。昔から逢原朔という人間はわかりづらかった。
「ちょっと待って」
瞬間、哲郎は閃く。
「指輪のチカラはまだ残ってるって、今言った?」
「ええ。言ったわよ」
「それってつまり……、もう一度指輪を使えば、真魚ちゃんを元に戻せるってことじゃないか?」
少女はベッドの布団をめくって覗き込みながら、「そういうことになるわね」と事もなげに言う。
「なんで先に言わなかったんだよ!」
糾弾されても、少女は平然としている。
「逢原朔第二章はまだ始まったばかり。これからが本番なのよ」
「誤魔化してたってわけか。まったく、油断も隙もないな」
「べつに今のわたしだって魅力的でしょう? あなたも意外と好みだったりするんじゃないの?」
「真魚ちゃんは好きだけど。おまえは好きじゃない」
「哲郎が望めば、その好きな子を、ものにすることができるわよ」
妖しく微笑み、「今のわたしを好きにできるのよ」と甘言を囁く。
哲郎は、ふん、と鼻を鳴らした。
「興味ないな。大体そんなことしたら真魚ちゃんに嫌われちゃうし。おれはこれでも純愛派なんだ」
「どの口が言っているのかしら」
少女が不意に立ち上がる。
「けれど、これで哲郎もわかったでしょう? あの指輪を探すことの重要性が」
状況は切迫しているということらしい。
裕晴は我知らず、息を呑んだ。




