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(13)夕闇と氷の首輪


「おーい。真魚ちゃん」


 マネキンのごとく微動だにしない真魚の肩を揺する。

 しばしの後、「はっ……!」と真魚が我に返った。


「なっ……なにか今、とてつもなくわたしの常識が危ぶまれるような発言が聞こえた気がしました」


「きっと怖いことを言われたんだね。大丈夫だよ。もう変態は消えたから」


「そうですか。安心しました」


 哲郎は再びパイプ椅子に座る。くたびれたように首の後ろに腕を回した。


「にしても、アブノーマルな性癖って損だよね。自分で我慢はできても制御なんかできないし。どうしようもないのに大体だれにも理解されないし」


「逢原さんのせいですよ。ぜんぶ」


「うん。まあ、そうなのかもね」


 ぶるり、と肌寒さに身が震える。風が冷たくなってきたな。と哲郎が思ったのも束の間、真魚が黙々と窓辺へ行き、窓ガラスを閉めた。そのまま病室の窓から、眼下の景色を眺め始める。


「で。これからどうしよっか? クルミちゃんのこと」


「それは……もう一度話をして」


「また変態プレイで呼び出すの? まあワンチャン付き合ってくれるかもだけど。またおなじ轍を踏むのがオチだと思うよ」


 真魚は言葉に詰まっている。


「では。どうしろと」


「いやおれに訊かれても知らんし」


「何度拒絶されようと。わたしには正面からぶつかることしかできません。それしか、思いつきません」



「そんな熱血教師みたいな……」


 もうちょっと要領良く立ち回れないものだろうか。

 哲郎は、言わないわけにはいかなかった。


「できることならあるじゃん。忘れちゃったの?」


 パイプ椅子のうえで器用に胡坐あぐらを掻きながら、


「どういうことですか?」


「成功体験は大事だってハナシ。二回もやればそろそろコツも掴んできたでしょ。要するに真魚ちゃんで難しいなら朔の——」


「ダメです。それだけは」


 窓辺で真魚が振り返る。宝石のような碧眼に強い意志が宿っている。


「なんで?」


 かと思えば、ふっと逃げるように顔を逸らす。


「ダメなものはダメです。あれはわたしの意志ではありませんでした。柚月さんのときも堂前くんのときも。それでは意味がありません」


「だからなんで」


「べつの手段を考えますから。少し黙っていてください」


 と言ったきり、真魚は思案顔で黙り込んでしまった。


 哲郎は肩をすくめ、頭を掻く。ちら、とベッドで眠る朔の顔を一瞥した。


「まあ急ぐ理由もとくにないしな」


 焦らず、腰を据えてやっていくのもいいかもしれない。

 などと思った哲郎だったが。


 後日それが間違いだったと思い知ることになった。






「胡桃沢が補導されたらしいぞ」


 あれから数日後のことだった。

 いつものごとく図々しく真魚の席の前へ椅子を持ってきた哲郎が、ドーナツを片手にランチタイムを満喫していた最中のこと。例のごとく、廊下を通りすがった薫からそれを聞いた。


「えっと……書初めですか?」


「それは書道ね。真魚ちゃん」


「けっこうなお手前で」


「それは茶道」


 薫が呆れ顔でふたりを見下ろし「ふざけているのか」と腰に手をやる。


「補導。警察の世話になったということだ」


 ——バタッッ、と。

 音を立てて立ち上がった真魚が机のうえに身を乗り出す。


「どういうことですか⁉」


 ほとんど悲鳴に近い声だった。教室が水を打ったように静まり返る。「真魚ちゃん」哲郎がなだめるように名を呼べば、真魚は呆然と椅子に腰を落とす。ばたり、と脱力するように、


「……一体なぜ。そんなことに」


「俺も噂に聞いただけだが。なんでも奴が中年ほどの男性とともにいるところを、うちの学生が目撃したらしくてな。通報されたのだと」


 気持ち声を沈めた薫が話す。哲郎は耳を疑った。


「父親と歩いてたってオチじゃないの?」


「それなら良かったんだが。腕を組んで、ホテルから出てきたという話でな」


「ホテル……」


 真魚が呆然と呟く。


「ふつーのホテルじゃなかったんだね」


「そういうことだ」


 頭を抱えたくなる内容だ。


「その話、マジなの?」


「知らん。だがうちのクラスは今その話題で持ちきりだ。こころなしか、朝から教師陣もバタバタしているようだしな」


「そういや。薫ちゃん、おなじクラスだったっけ」


 こんな噂が立てば、硝子が属していたクラスは大騒ぎだろう。


「そんな、胡桃沢さんが」


「噂が真実だった場合、胡桃沢はもう学校にはいられないかもしれないな。おまえたちは奴のことも気にしていたが、なにか知っているのか?」


「いんや。なんにも。……でも、もしかしたら。ちょっと焚き付けちゃったかも」


「なんだと?」


 薫は言及しようとして「……いや。俺は関係ないな」と首を横に振った。「訊きたかったのはそれだけだ」と言い残し、去っていく。


 哲郎は目の前の少女に顔を向けた。


「どうしよっか。真魚ちゃん」


 真魚は沈痛な面持ちで、机の表面をじっと見つめている。

 その小さな唇が微かに動く。やがて、言葉にならない声が漏れ出た。


「わたしは」






 **






 火のないところに煙は立たぬという。真偽はどうであれ噂が生じた時点で、なにかあったことは間違いない。哲郎自身は、硝子ならやりかねないと思っている。


「にしてもラブホとか。エロすぎだろクルミちゃん……」


「黙ってください。できれば永遠に」


 放課後、学校を発ってしばらく。


 硝子の家に着く頃には青空にオレンジが混ざり始めていた。今日は天気が良かった。ホウキで掃いたような巻雲が空の高いところを揺蕩たゆたい、ほのかに夕陽に染まっている。幸先は上々、と言えなくもない。


「行きますよ」


 インターホンを鳴らし、数秒。薄っすらと足音が聞こえてくる。

 しばしの沈黙。不意に、ぶっきらぼうに鍵が開く音がした。哲郎は真魚と一度顔を見合わせる。「お邪魔します」真魚が先んじで扉を開き、なかへ入った。


 以前とおなじく、出迎えたのは瑠璃だった。

 ただ以前と違うのは、少女の顔つきに陰りが差していることだ。


「なんでお姉ちゃんを止めてくれなかったんですか。任せてくださいって、真魚さん前に言ってくれましたよね。なのに……」


「瑠璃さん」


「今更来てくれても、もう遅いですよ。お姉ちゃん。退学になるって……。昨日パパがすごい声で怒って。ママもずっと泣いてて……わたし。わたし」


 俯く瑠璃の肩が震えている。

 真魚がぐっと唇を強かに噛んだ。


「約束を守ることができなくて。ほんとうにすみませんでした」


「っ……」


「けど、最後にもう一度だけ。胡桃沢さんと話をさせてもらえませんか」


「だからもう遅いって」


「責任を果たします。果たさせてください。もう失敗はしません」


 今度は安請け合いじゃないと、迷いのない眼差しが約束する。


「安心してよ。瑠璃ちゃん。もうこれ以上悪くなることもないからさ」


 果たしてどちらの言葉が胸を打ったのか。


「……どうぞ」


 瑠璃が招き入れる。

 いつかと同様に、硝子の部屋の前まで案内すると、瑠璃は姿を消した。きびすを返すとき、前のように彼女が頭を下げることはなかった。


「おーい。クルミちゃんいるー? いたら返事しないでねー」


 さっそく扉越しに声をかける。が、これには無反応。


「いるってさ。真魚ちゃん」


「ふつーは逆じゃないでしょうか」


「そこがミソなんだ」


 場違いな調子で哲郎はしたり顔をする。真魚は呆れ顔だった。


 さて、と。

 哲郎は引きこもりの少女を引きずり出すための言葉を練る。


「勝手に喋らせてもらうけど。クルミちゃん、ずいぶん馬鹿なことしたみたいだね。女子高生でパパ活とか、さすがに引くよ。ひょっとして、エンコーのほうだったりする? どっちにしても、ヤケになりすぎだろ」


 変わらず無反応。だが微かに衣擦れのような音があった。


「でもさ……ちょっと期待外れだったんじゃないの? 大きな罰がもらえなくてさ。そりゃ親には怒られたし退学にもなるんだろうけど、それってドМの硝子ちゃん的にはどうなんだ? 満足できるの? もっと、ちゃんと罰を受けたいんじゃないの?」


 もちろん、無反応。


「おれがあげるよ。罰ってやつを。ちゃんと痛くて。苦しくて。死にたくなるようなやつ。いいでしょ?」


 哲郎は「だから出てこいよ」と語感を強める。

 今回は声を上擦らせなかった。我ながらよくやったと思う。慣れない演技にしては上出来だろう。あとは、結果がどうなるか。


 変化は数秒もかからず訪れた。沈黙の扉の向こうで、物音が響く。耳を澄ますと、靴下が床を踏む音が近づいてきていた。


「真魚ちゃん、隠れといて」


「はい」


 真魚が足音に気を遣いつつ、階段を下りていく。

 哲郎一人が残される。扉が開く。


「よっ。クルミちゃん、久しぶり」


「……」


「……でもないか」


 今にでも舌打ちをしそうな顔つきの硝子が、立っていた。





 この家の両親の帰宅は遅く、大体夜になるという。以前瑠璃のほうにそれを教えてもらった。この時間帯、胡桃沢家は娘たちが二人だけなのだと。これは、今から行うことには都合が良い。堂々と、リビングを使わせてもらうことにした。


 広さを持て余した胡桃沢家のリビング。哲郎はまず、硝子をソファーに座らせた。そしてポケットから黒い布を取り出し、細長いそれを、これ見よがしに硝子の顔の前で広げてみせる。


「……それは」


「ネクタイだよ。父さんのやつ。家から持ってきたんだ。ちなみにもう一つある」


「ハッ、なに? それで叩いてくれんの?」


 野犬のような、やさぐれた目つきで硝子は半笑い。これは、大分ヤケっぱちになってしまっているな。哲郎はソファーの後ろへ回る。


「叩くんじゃなくて。縛るんだよ」


「え?」


 硝子の背後から、強引に彼女の両手を掴んだ。両腕を後ろ手に固定させ、交差した手首にネクタイを巻いていく。


「痛いんですけど……」


「そりゃ良かった。ご満足いただけた感じ?」


 硝子はフンと鼻を鳴らすだけ。

 構わず、もう一つの黒ネクタイをポケットから取り出す。


(なにやってんだ、おれは)


「……目隠しするから。目閉じといて」


 もはや抵抗する素振りもなく、硝子はなすがまま。むしろ期待するようにもじもじ両膝を擦り合わせ始めている。その光景に哲郎は若干頬を引きつらせながら、彼女の両目をネクタイで隠し、耳の上を通して後頭部で縛ってやった。ちょっとやそっとの動きでは取れぬよう、キツく。


「やっぱ御子柴も、けっこうSよね」


「冗談はヨシコちゃんで……」


 ただでさえ、さっきからもう一人の視線が怖いのに。


「で。なにすんのよ、ここから」


 哲郎は頷きで合図を送る。リビングで身を隠していた真魚へ向けて。

 真魚は頷き返すと、しずしずと歩き、硝子の対面のソファーへ。なるべく音を立てぬよう腰を下ろした。


「ねぇ、ちょっと。なんなのよ」


 おもむろに真魚が黒髪の三つ編みを解く。煩わしげに頭を振ると、癖がついた長髪が肩のあたりで揺れ動いた。真魚が目が閉じる。


「実はおれ。催眠術の才能があるんだ」


「は?」


「今から不思議なことが起きるけど。ぜんぶ催眠のアレだから。気にしないでね」


 すぅ、と息を吸う音。

 まもなく真魚は眠りから覚めるように。ゆっくりとまぶたを開く。


「——また無様な姿をしているわね。硝子ちゃん」


「っ……⁉」


 硝子が立ち上がりかける。ほとんど条件反射の速さだった。素早く哲郎がその肩を押さえ、座り直させる。


「あなたが救いようのないお馬鹿さんなのは知っていたわ。でも、まさかここまで醜態を晒してくれるなんて、思わなかった」


「な、なんで」


「弱くてちっぽけで愚かで。笑えない」


 硝子は金魚のごとく口をパクパクと動かし、声にならない驚愕を表していた。


「見るに堪えないわ」


 侮蔑を孕んだ声。硝子が生唾を飲み込む。衝撃に震える彼女の唇が、やがて一つ、名前を紡いだ。


「逢原、さん」


 だれもがそう思う。

 そこにいるのは逢原朔なのだと。


「なんで。なにが起こって……」


「だれも彼も似たような反応ね。つまんないわ」


「逢原さん、なの? ほんとに?」


「訊けばなんでも答えてくれると思ってるの?」


「あい、はらさん……」


「頼って、委ねて、そればかり」


 ナイフの峰で優しく頬を撫でるような、冷淡な声。いつ耳にしても、真魚のものとは違う。まったく別人の声音。


 硝子は言葉を失くしていたが、


「優しい両親に育てられたせいで無意識に他人に期待することを覚えてしまった。憐れな子」


「……ち、違う」


 見透かしたような言い方に、引き攣った声を漏らした。


「わ、わたしは」


「口答え? 硝子ちゃんのくせに生意気じゃない」


「だって。みんなだってわたしに期待して……」


 硝子の声は、幼児の泣き言のよう。

 対する真魚の、朔の声色は、どこまでも冷酷だった。


「勉強もできて運動もできて美人な姉が大好きな妹。優秀な長女が誇らしい父親。お利口な娘を溺愛する母親。そして、その期待に応え続けてきた姉。果たしてだれが最も愚かかしら?」


「そ、そんなの、決まって」


「そう。決まっているわ。ええ。——あなたよ。愚かなあなた。期待されることに、愛されることに飽きて、いつしかそれに憎しみすら覚えるようにまでなった。自意識過剰な胡桃沢硝子ちゃん。あなたよ」


 哲郎は硝子が目隠しを取らぬよう無言で動きを見張る。硝子は、しかしそんなことを考える余裕すらない様子だ。額の部分に冷や汗がにじんでいる。


「今の自分もぜんぶわたしのせい。こんなふうにされた、見捨てられた。ふざけるなって。あなたわたしの病室でそう言っていたわね? ほんと……、笑わせるのも大概にしなさいな」


 硝子が息を呑む。


「あなたがそうしてほしがっていたから。いたぶってあげたんじゃないの。耳に穴を空けてさせて目の色も変えさせて髪の色もいじって。勉強もやめさせて。煙草も吸わせて。そうやって理想の姉から遠ざかっていく自分を家族に見せつけてえつに浸っていたのは、あなたじゃない」


「……」


「人のせいにしないでくれる?」


 唖然とした息が、硝子の口から漏れる。


「あなたがあなたを傷つけるのは、愛情深い家族への、お門違いな復讐心よ。わたしはただ、そこに付け込んだだけ」


「っ……」


「そろそろ自覚なさい。自分の醜悪な本性に。あなたはそこからよ」


「わ、わたしは」


(……罵倒プレイ、って感じでもないな)


 ふたりのやり取りを眺めながら哲郎は思う。

 これで興奮されたらいよいよだが……、見るかぎり硝子はひどく憔悴している。図星だったのか。言い返す気すら起きないのか。


 真魚は、朔は、一体ここからどうするつもりなのだろうか。


 見守っていた哲郎は、次の言葉で内心ひっくり返った。


「ところで硝子ちゃん。あなたまだ処女なの?」


「え?」


「はあ?」


 哲郎が口を開く。

 直後、ギロ、と猛禽類のそれよりも鋭い睥睨へいげいが、正面のソファーから送られた。哲郎は慌てて自らの口を手で塞ぐ。


「なっ、なにが」


 硝子は当然のごとく困惑していた。


「察しが悪いわね。援交まがいなことをしておいて。まだ身は清いままなのかと訊いているのよ。それとももう貫通済み?」


(か、貫通って)


 硝子は目隠しをしたまま、ぎこちなく答える。


「ほ、ホテルまでは……、行ったけど。部屋に入ったあとに女子高生ってのがバレて。なんか、めちゃくちゃおっさんに怒られて。結局なんもなく出てきて……」


「良識のあるおじ様で良かったわね」


「良識のあるおっさんはエンコーしないだろ」


 また、にらまれた。哲郎は目で謝罪を伝える。


「……そう。つまり処女のままだということね。よかった。それならあなたはまだ引き返せるわ」


「引き返せるって、なにが」


「だって、あなたはまだ破瓜はかの痛みを知らないでしょう」


 突然なにを言うんだ。


「よく聞きなさい、硝子ちゃん。若いうちに経験できる痛みのなかでも破瓜の痛みは最も強烈なものよ。とりわけ相手が下手くそだと殺したくなるぐらいにね」


「そこでおれを見るなよ」


「痛みが好きな変態の硝子ちゃんには。格別なものに感じるでしょう」


 目隠しで隠れた表情を見るまでもなく、硝子は唖然としている。


「でもね。できれば行きずりでない。好きな人とそれを試してみなさい。ほんとうに心から好きだと思える相手とね。そのときあなたはきっと満たされるわ」


「満た、される……」


「わたしの場合は顔がタイプだったから、少し脅しをかけて事に及んでみたけれど。まあ見事に後悔したものよ」


(おいこら)


「あなたにはそのチャンスが残されている。そうでしょう?」


 どんな角度の励まし方だ。

 哲郎は呆れてものも言えなかった。


「なんでもいいのよ。なんでもいいから、自分で未来に希望を見つけてみなさい。いつまでも忠犬みたいに主人を待っていないで。それが、これからのあなたよ」


「これからの、わたし……」


「好きにすればいいわ。退学するなら、もう会うこともないでしょうし。どうでもいいもの」


 なんて薄情極まりない。これで励ましているつもりなのか。


「……う、うん」


 それでも、なぜだか意味がわからないほどに。

 謎で不思議に、硝子はどうやら救われてしまったようだった。


「……うん……わっ、わかった」


 鼻をすする音がする。哲郎が背後から覗き込むと、硝子は嗚咽を漏らして泣いてしまっていた。目元を覆うネクタイの下から涙の雫が流れ落ちる。


「今まで。ありがとう。逢原さん……」


「どういたしまして。わたしのほうも、まあそれなりにおもしろい玩具だったわ」


 硝子はしばらく、子供のように泣いていた。


 

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