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(12)傷だらけの堕天使と書いてチジョと読む


「ありゃ、思ったより深刻だな」


 リビングのソファーは座り心地が抜群だった。哲郎は臀部でんぶが沈み込む感触を楽しみながら、まったく深刻さを感じさせない口調で言った。


 部屋の主に追い出された哲郎と真魚は胡桃沢邸の一階、庭の眺めがいいリビングにて、硝子の妹からもてなしを受けていた。真魚はくつろがず、ソファーに座して背筋を伸ばしている。


「しゃーないんだけど、やっぱドМって、実際見にすると引いちゃうな。理解がないわけじゃないんだけど」


「正しくはマゾヒズムです。低俗な言い方はやめてあげてください」


「どっちも一緒でしょ」


 マゾヒズム。被虐性欲。

 苦痛に快感を覚えてしまう。倒錯とうさくした性癖のこと。


「真魚ちゃんもさ。知ってはいたんだろ? クルミちゃんの性癖のこと」


「それは、まあ。……でもまさかあそこまでとは思わず」


「朔の記憶があるのに?」


「すみません。最近は少し、そのあたりが曖昧で」


 哲郎はアンティーク調のテーブルのうえ、洒落た器に盛られたドーナツ(来るときに買ってきたもの)を摘まみ「ふぅん。そうなんだ」と口をつけた。


「クルミちゃんがああなったのが、朔のせいなの?」


「はい。そうです」


 真魚は沈痛な面持ちで断言した。


「逢原さんと出会わなければ、胡桃沢さんはあんなふうにはなりませんでした。あのままでは危険です。だから早くなんとかしなければ」


「お待たせしました」


 テーブルに湯気立つカップがふたつ、丁寧に置かれた。硝子の妹がトレイを胸に抱き「紅茶でよかったですか?」と確認する。名前を胡桃沢瑠璃くるみざわるりというらしい。


「ありがと。瑠璃ちゃん。どうせならカフェオレが良かったけど」


「たっ、ただいまお持ちします!」


「こら。大人げないですよ。哲郎くん」


「こら、って……。母親以外に初めて言われた」


 パタパタとスリッパを鳴らし、瑠璃が洒落たカップとともにカフェオレを持ってきてくれる。しっかりした子だが、まだ中学二年生らしい。


「おふたりは、その、お姉ちゃんのお友達なんですよね?」


「うん。まあそんな感じ」


「そうですか……あ、あの」


 おずおずと、瑠璃が訊いてくる。


「お姉ちゃんって。ほんとに、悪い人たちと付き合ってるんですか?」


「いえ。哲郎くんとはただの知り合いのはずですが」


「なんでおれが悪い人前提で話してるんだ」


「ふ、不良の人とかと、一緒につるんでるって」


 聞き捨てならない一言に真魚がいち早く反応する。「だれが言ってたんですか? それ?」と訊き返した。


「ママとパパが……お姉ちゃんがあんなふうになったのは、絶対に悪い人と付き合うようになったからだって。そうじゃないとおかしいって」


 哲郎は真魚と顔を見合わせた。


「前のお姉ちゃんはどんな感じだったの?」


 訊くや、瑠璃は黙々とスマホを操作する。やがて液晶画面を見せてきた。


 家族写真だ。まだ小さい瑠璃と、真面目そうな両親、そして、今よりいろんな意味で別人の硝子が肩を並べている。中学校高学年ぐらいだろうか、硝子は折り目正しい制服姿に大和撫子然とした黒髪、地味な縁なしメガネに、控えめな微笑を浮かべている。


「うっわ。懐かし。たしか去年の一学期ぐらいもこんなんだったわ」


「……いかにも優等生然としていて。今とは別人みたいですね」


 少し真魚に似ている。と哲郎は思った。

 すると瑠璃が勢い込んで話す。


「みたいじゃなくて。ほんとに別人なんです。むかしはすごく優しくて、なんでもできてパパとママにも褒められてて、自慢のお姉ちゃんだったんです。なのに。高校に上がった途端、なんかおかしくなっちゃって……見た目とかも気持ち悪くなって」


 ぽつりと最後に呟かれた言葉に、哲郎は片眉を上げる。


(気持ち悪い、か)


「絶対なにかあったの……。お姉ちゃんはなにも言ってくれないけど。たぶん言えないんだと思う……お姉ちゃん、可哀想」


「瑠璃さん」


「わたし、元のお姉ちゃんに戻ってほしい。むかしみたいに一緒に笑って。ママとパパとも仲直りしてほしい」


 少女の目から涙がこぼれ、頬を伝って落ちていく。

 嘘偽りない本音だろう。顔を見ればわかる。


 瑠璃の述懐に真魚はひどく心を打たれたらしい。くしゃりと顔を歪ませる。やがて決然と席を立ち、瑠璃の背中を撫でた。


「わたしたちに任せてください。瑠璃さんのお姉さんは、きっとわたしたちが取り戻してみせます」


「まーたそうやって、安請け合いしちゃって」


 これも、真魚の美点ではあるのだろうが。

 瑠璃はしばらく、すすり泣いていた。


「ありがとう、ございます……」






 **






『来週の土曜日。〇〇大学病院の逢原朔の病室まで下着をつけずに来い。時刻はあとで知らせる。ちゃんと一人で来れたらご褒美をやろう』


 我ながら、正気の沙汰ではない一文だった。

 後日硝子のアカウントに送り付けたメッセージをあらためて自分で見直し、哲郎は一人愕然とした。


「これは、マジでおれが考えた文章なのか……」


 頭をひねり、精いっぱいサディストっぽい文章を考えようと努めたのは事実だった。だからといえ、ここまで酷い文章が出来上がるとは。


「信じたくないよ。おれにこんな文才があったなんて」


 大学病院の一角。逢原朔が眠る病室で、哲郎は肩を落としていた。


「だいたい、ふつーに呼び出せばよかったんだ。なにもこんなことしなくたって」


「今の胡桃沢さんが素直に呼ばれて来てくれるとは思いませんよ。先日は怒らせてしまいましたし。ここは哲郎くん持ち前の鬼畜さが輝くときでしょう」


「おれのことなんだと思ってるんだよ」


 こんな真似は二度とやらないと哲郎は未来の自分に誓った。


 さっきから、真魚はじっと病室の扉が開くのを待っている。どうも、大いなる確信があるようだ。哲郎もそうそう懐疑的ではないが、これで素直にほいほいやってこられるのも、それはそれで勘弁してほしい気もする。


 と。

 そうこうしているうちに、病室の扉が開かれた。開かれてしまった。


 現れたのは、やはりと言うべきか、硝子だった。特徴的な青髪はそのまま、やたら短いデニムスカートにほとんどヘソ出しの黒のニットセーターという出で立ち。マジかよ。と哲郎は頭を抱える。


「す、すごい格好ですね。哲郎くんの趣味を疑います」


「そんなわけあるか!」


 とばっちりにもほどがある。

 

 硝子は妙に不安的な動きで、ふらりふらりと室内へ。「き、きたわよ」と両手で自らの身体を抱きながら言った。際どい服装は、ボディラインがくっきりと出ていて、TPOに違反している。これで病院のエントランスを通過したのだろうか。正気じゃない。


「ちゃ、ちゃんと下着はつけずに来た? いや、き、来たかっ?」


 なぜこんな変態的展開に付き合わされているのだろうか。哲郎は現実から目を逸らしたくなった。


「……疑うなら、確認すればいいじゃない」


「マジかよ。いいの?」


「ダメに決まってるでしょう」


 真魚が遮る。


 すると硝子がむっと眉根を寄せた。


「この前からずっと思ってたんだけど。その子なんなの。御子柴の彼女?」


「断じて違います。ただのクラスメイトです」


「じゃなんで毎回いんのよ」


「それは……」


「まあ、あれだよ。なんつーかさ。朔の友達みたいな感じのアレで。あんまし気にしないでいいから」


「……逢原さんの」


 硝子の視線が、窓際のベッドで眠っている少女のほうへ。植物状態で点滴に繋がれている逢原朔は、最近また痩せてきたようだった。


「クルミちゃん。朔のお見舞いしたことなかったでしょ」


「……」


「ほら。こっち来て」


 手招きしてやると、硝子はおずおずとやってくる。

 両腕で胸元を隠したまま、ベッドのうえの朔の寝顔を見下ろした。


「全然目覚めないんだよ。もうすぐ六月だってのに。医者さんももう処置なしなんだってさ」


「……知ってる」


「え? もしかして来たことあった?」


 こくり、と頷く。


「倒れたって聞いて。じっとしてられなかったから、すぐ会いに来た。……こんなの。信じたくなかった」


「へー、知らなかったな」


 硝子が唇をきゅっと引き結ぶ。


「あたしのこと。こんなふうにしといて。満足したら勝手に捨てて、自分はもう知らないふり? ふざけんじゃないわよ」


「べつに、朔はクルミちゃんのこと捨てたわけじゃないだろ」


「じゃあなんで起きないのよ。いつまで経っても。ずっとこのままじゃない」


 なんで起きない。……か。

 意味やら理由やら、そんなのを説明したところで、解決することなどありはしない。硝子が今も取り憑かれているのは、逢原朔の幻影なのだから。


 哲郎はパイプ椅子に座る。なにも言わず、ふあぁと欠伸を噛み殺した。


「万が一逢原さんが目覚めたとしても。どうせまた玩具のように扱われるだけですよ」


「は? なに?」


 真魚が硝子を見上げて言う。背の高い硝子と、小柄な真魚。傍からみれば、その対格差は姉妹のようだ。


「髪型や色を変えられ、服装まで指導され、煙草を吸うよう指示され、わざとテストで間違うよう強要され、なぶられ、遊ばれ、それらすべてに従って。なすがままに甘んじていたって、あなたはいつまでも満たされないままです。そんなのは間違っています」


「……知ったふうに話すじゃない。どうせ御子柴に聞いただけなんでしょ。偉そうに。部外者は黙ってなさいよ」


「部外者ではありません。むしろ当事者に近いほうですよ。わたしは」


「意味不明なんですけど」


 窓の隙間から風が吹き込む。窓際で海月のようにカーテンが揺れて、真魚と硝子、ふたりのうえを大きな影がゆらゆらと舞い躍った。


「瑠璃ちゃんが話してくれました。むかしの胡桃沢さんは真面目で優しくて、家族といつも笑っていたと。あなたは、本当はそういう人のはずです。逢原さんに毒されてはいけません」


「喧嘩売ってんの? こいつ……」


 一触即発のムードが漂う。慌てて哲郎が仲裁に入る。


「まあまあ落ち着いて。クルミちゃんもさ。ただでさえ際どい服着てんのに、あんまり興奮するとほら、いろいろ見えちゃうかもよ?」


「っ……!」


 硝子の顔が真っ赤に染まる。


 重たい沈黙が病室を支配した。哲郎は「あれ?」と首を傾げる。


「真魚ちゃん、早くツッコんでくれないとさ。ほら。セクハラやめてくださいって」


 見やると、真魚がスマホを取り出し、ダイヤルの画面で110番と打ちこんでいた。「通報やめて!」と哲郎は泣きつく。


「ねぇ、ご褒美」


 硝子が、呟く。


「え?」


 哲郎は目を丸める。


「ちゃんと一人で来たら、ご褒美くれるんじゃないの」


「あ、あーうん。そう、だったね」


(そういえばノリでそんなこと書いたような)


「えっと……」


 硝子が物欲しそうに、熱っぽい視線を向けてくる。


「こっ……コーラとかでいいかな?」


「いいわけないでしょ」


 一蹴された。


「ここまで来るの大変だったんだけど……。スカートのなか。めっちゃスース―するし。バスで吊り革持って立ってるとき、恥ずすぎて死にそうだったし。階段上るときとか、後ろの人に見られてるんじゃないかって、かっ、考えたら……」


 短いデニムスカートを手で押さえ、一方の手で胸元を隠すようにしてモジモジと、硝子は息を荒げる。


「だ、だからご褒美、ちょうだい……。お願いだからっ」


 目の前で苦しそうなほど身体を火照らせている硝子。その姿が、哲郎にはあまりにも憐れで、可哀想なものに思えた。これじゃ、まるっきり痴女じゃないか。


 哲郎は渋々、パイプ椅子から立ち上がった。となりで真魚が固唾を呑む。見守ってないで助けてほしい。


 硝子は場違いに乙女チックな表情で、すっと目を閉じる。控えめに唇を差し出した。なんだこれは。どうしろと言うのか。去年はかなり好みの美人さんがやってきてくれたと哲郎も喜んだのに。一体どこで間違ったのか。


「えい」


 ——ぽす、と。

 哲郎は軽めのデコピンを一発。


 硝子がぎろりと目を剥いた。


「ふざけてんの?」


「すみません。ほんと勘弁してください」


「ヘタレですね」


「なんで真魚ちゃんもそっち側なんだよ」


 硝子が興ざめとばかりに溜め息をつく。


「……もういいわ。あんた見た目はドSっぽいのに中身はつまんないのね。マジで期待外れ」


「おれだって傷つくときもあるんだけどな」


 硝子はきびすを返し、


「……帰る」


 入り口のほうへ戻っていく。真魚が待ったをかけた。


「ま、待ってください。話はまだ」


「話す義務とかねーし。これ以上我慢とかムリだから」


「我慢って。なにを」


「わかんねーのかよ」


 入り口に立った硝子が振り向く。まるで、どいつもこいつも分からず屋だと言わんばかりに、鬱陶しげな眼差しで、哲郎と真魚のふたりをにらんだ。


「帰ってヌくの」


「ぬっ……………………」


 真魚が戦慄していた。


 

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