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(11)籠の中のマゾヒスト


 路線バスの車内は驚くほど空いていた。

 土曜、休日にもかかわらず空席が目立つ。昼下がりの陽光が無人のシートに降り注いでいた。くぐもった車内アナウンスが「次は~」と停留所名を告げる。目的地は次だ。


「ふぁぁ~……ねむ」


 一番後方の座席。陽だまりのシートで哲郎は寛ぐ。暖かな陽射しとゆりかごのようなバスの揺れに、つい欠伸を催す。すると窓際に座る真魚があきれて言った。


「いつも暇なくせに、今日はどうしてそんなに疲れているんですか」


昨夜ゆうべさー、おもろい漫画見つけちゃったんだよ。んで、スマホで読んでたらそのまま寝落ち」


 再び軽く欠伸。


「寝る前にブルーライトを浴びるのは睡眠の質を著しく下げます。せめて就寝前一時間ほどはスマホを遠ざけるべきです」


「でも超おもろかったんだよ? かなりエッチだから真魚ちゃんにもおススメ」


「どういう意味ですか、それ……」


 真魚が半眼で見上げてくる。柄物のオーバーサイズの黒Tに赤いパンツと、今日も今日とて前衛的なカラーコーディネートである。時間が許すなら今すぐアパレルにでも寄って全身分見繕ってやりたいが、それは無理なので、哲郎はゆっくりと顔を逸らし、真魚の私服を視界から外した。


「まあ、それはそれとして。真魚ちゃんのほうは元気そうで安心したよ。あの日は、怖いぐらい疲れてたみたいだし」


「バスケ部の観戦に行った日のことですか」


「もちろん。あの後の帰り道なんか、真魚ちゃんずっとふらふらしてて危なかったし。かなり心配だったよ」


 薫に活を入れた(と言っていいのか)あの日。真魚はすぐに不調を訴え、即時帰宅となった。哲郎も気がかりで、ともに帰路についたのだが、あの日の真魚の憔悴っぷりときたら……。青ざめた顔でよたよたと、頼りない足取りで進むのを見て、哲郎は病院に送るべきか迷ったほどだった。


「哲郎くんに心配されるほどヤワではありません」


「いやいやいや……」


 この子は、人の気も知らないで。

 さっき待ち合わせで再会したとき、何事もなかったようにけろりとしている真魚を見て、こっちがどれほど胸を撫で下ろしたことか。一言言ってやりたい気もするけれど、機嫌を悪くされるのも面倒なのでやめておいた。


 代わりに、「そういや聞いた?」と言い、


「薫ちゃん、やっぱりバスケ部続けるみたいだよ」


「……そうですか」


 返答には、やや間があった。真魚は車窓を眺めている。


「わかんないよねえ。あんな居心地悪い部活、おれだったらすぐやめてるけど」


「それほど本気で向き合っているということでしょう。バスケに対しても、自分に対しても」


「あえて苦しいほうを選ばなくてもよくない? なんなら今度はもっと辛い目に遭うかもなのにさ」


「そうでしょうか? 堂前くんは真摯な方です。時間はかかるかもしれませんが、その気持ちはいずれ、周囲にも伝わるはずです」


「遠回しにおれが軽薄だって言われたような」


「自覚があるからそう聞こえるのでは?」


「辛辣だなあ」


 並木道をバスがゆく。街路樹の影が少女の童顔のうえを過ぎていく。ぱちぱち、と二度瞬きをした。哲郎は、あらためて、綺麗な顔だなと思った。


「真魚ちゃんの目ってさ、なんで青いの?」


「母方の祖母がロシア人で。父親の家系にも薄っすらと異国の血が残っています」


「クォーターってこと? 目の色だけ受け継ぐとか凄くない?」


「滅多にあることではないようです。……子供の頃は、コンプレックスでした」


 あまり話したくないことなのかもしれない。哲郎は早々に舵を切る。


「ともあれ、薫ちゃんの迷いが晴れたなら万々歳じゃないか。これって真魚ちゃんのおかげじゃない?」


「いえ、わたしは」


 すると、真魚はなぜか、釈然としない表情をして、


「本当のことを言うと……あまり、覚えていないんです。あのときのことは」


 途切れ途切れに呟いた。予想だにしない発言だった。


「ま、マジで?」


「はい」


 あのとき、真魚のなかでなにが起こっていたのか。

 哲郎に推し量ることはできない。ひょっとして、それは真魚もおなじなのだろうか? だとしたら、それは彼女にとってすごく恐ろしいことかもしれない。哲郎は笑いかけた。


「薫ちゃんはありがとうって言ってた。感謝されてるってことだよ。自信持っていい」


「あれは」


 真魚はまだ浮かない表情で「不可抗力ですから」と声を低くする。


 哲郎はあらかじめ購入しておいた菓子の入った袋を漁った。


「まあまあ。そんな顔しないでよ。ドーナツあげるからさ」


「車内は食事禁止です」


「なら、バス出てから食べる?」


「いりません」


 目的の停留所が近づく。

 やがてバスは速度を緩め、バス停の前で停車した。ふたりはバスを出る。


「いやー。こっち来るの久しぶりだなあ」


「胡桃沢さんの家には何度かお邪魔していますもんね」


「真魚ちゃんは初めてでしょ?」






 バス停からしばらく歩く。

 しだいに通りは整備の行き届いたアスファルトへ、道路脇には高い塀や生垣が目立つようになってくる。そして、その向こうには決まって洒落た大きな一軒家だ。グレードの高い住宅街は潔癖なまでに清掃されている。哲郎は、この辺りが少しだけ苦手だった。


「それにしても。まさかクルミちゃんが停学してたなんてね」


「……わたしも、先生に言われるまで知りませんでした」


 胡桃沢硝子とは去年、同級生だった。しかし今年は別々のクラスだ。それは真魚も然り。くだんの三人の動向はそれとなく気にしていたが、わざわざ別の教室に遊びに行くほどの関係でもない。くわえて、最近はいろいろとバタついていた。

 彼女が長らく登校していきていないことに気づかなかったのは、そのせいだ。


「おそらく屋上での喫煙が、先生方の知るところとなったのかと。哲郎くんにも怪我を負わせてしまいましたし……処分を下されるのは当然と言えば当然でした」


「そう考えると、停学だけってのも割と温情なのかもね」


 哲郎は自らの頬を撫でる。もう痛みはなく、ガーゼも取れたが、まだ小さな火傷の痕がくっきりと残っている。このことに関し、硝子を責める気は毛頭ないが、学校側としても無視できない事案であるのは想像に難くなかった。


 傾斜のある道路をしばらく進み、やがて目的の一軒家に到着する。


 石造りの高い塀の向こう、緑豊かな庭をようしたクラシカルな洋風の建物が佇んでいた。手前には、高級車が数台収まりそうな大きさのガレージ。高級住宅街にあって一際重厚な、堂々とした佇まいの豪邸だ。


「いつ見ても凄いなあ、この家」


「なんというか、値段が高そうですよね」


「なにそのヘボい感想……」


 ほかでもない、ここが胡桃沢硝子の住まいだ。


「たしか母親か父親が、有名な弁護士なんだっけ」


「父親です。母親も、名のある市議会議員だと聞き及んでます。……教育に厳しいご家庭であることは、想像に難くありません」


 気圧されたように家の前で立ち尽くす二人。

 数十秒後、真魚が意を決した。洒落た門扉を開き、勇ましい一歩を踏み出す。哲郎も後に続く。踏み入れた庭は大型犬が数匹走り回っても余りある広さだ。

 やがて真魚は正面玄関の前へ。ためらいがちにインターホンを押した。


『……どなたですか』


 警戒した声が返ってくる。少女らしい声。硝子の妹だ。


「ごめんください。鍛冶谷と申します。硝子さんはご在宅でしょうか?」


『お姉ちゃんの友達?』


「知り合いです。硝子さんと話をしたくて」


『…………不良?』


「えっ?」


 思いがけない問いに真魚が数秒停止する。構わずインターホンの声は『迷惑なので帰ってください』と取り付く島もなく告げた。


「ふ、不良ではありません。むしろわたしほどの優等生はほかには」


『優等生は自分で優等生とか言わないし』


「い、言われてみれば……たしかにそうかもしれません」


「なにやってんの。真魚ちゃん」


 みかねた哲郎が代わりにインターホンの前へ顔を出した。


「クルミちゃんの妹ちゃんだよね? 見えてる? おれおれ。御子柴哲郎だよ」


『胡散臭いです。帰ってください』


「なんでだよ。何回か顔合わせてるだろ」


 無言の返事。……なんてこった。忘れてやがる。


 ならばと哲郎は身を乗り出し、自らの頬を指差した。


「ほらここ。見える? この火傷の痕。これ君のお姉ちゃんにやられたんだよ。煙草ぐいって押し付けられてさ。学校から連絡来てない? ……お話。しなきゃいけないんだよ。わかるよね?」


『っ……! 今開けます』


 瞬間、扉のロックが開く音がした。


「最低です。哲郎くん」


「え? なんで?」


 出迎えたのは、眼鏡をかけた少女だった。哲郎が扉を開くや、背中が見えるほど深々と頭を下げられる。「こ、この度は大変ご迷惑を……」と声が震えていた。


「ああいや、そういうのいいから。お姉ちゃんのところまで案内してくれる?」


 びくりと一際肩が跳ねる。少女は「こ、こちらです」とおどおどと案内する。

真魚が幻滅したようにこちらを見上げる。解せない。


 胡桃沢邸は内装も豪華そのものだった。アンティークな家具や暖炉、黒革のソファーと液晶テレビが鎮座するリビングからは自然豊かな庭が見渡せる。異国の富豪が所有する別荘地のごとき仕上がりだ。哲郎はうへぇーと苦い顔をする。やはりこの煌びやかさは肌が合わない。


 硝子の部屋は二階にあった。

 扉の前まで案内するや、少女は脱兎のごとく立ち去った。妹のほうに用事はないので気にしないが。なんだ、この腑に落ちなさは。


「胡桃沢さんっ」


 妹の態度に哲郎は傷心しているうちに、真魚が声を張った。


『…………だれ?』


 扉越しに、どこか無気力な声。——硝子だ。


「鍛冶谷真魚です。先日は失礼しました。つきましては一度直接謝罪をさせていただければと、直接お伺いさせていただいた次第で」


『かじや? 知らない、だれ?』


「か、鍛冶谷真魚ですっ」


『いやだから……マジでなんなの』


「顔を見ればわかるので! とりあえず扉を開けてください!」


『絶対ムリ』


 押し売り業者さながらの勢いだが、残念ながら勢いだけだった。

 真魚が泣きそうな顔になっていた。哲郎は「真魚ちゃん。そろそろ学ぼうよ」とため息をつく。


『……なに? 御子柴もいんの?』


「いるよー。ってかクルミちゃんもしかして寝起き? 声ガサガサだけど」


『死ね』


 おお、怖い。


「とにかく部屋上がらせてもらえない? ちゃんと説明するから。頼むよ」


 頼み込むも……、分厚い扉は微動だにせず。返事は沈黙のみ。

 頑として応じる気はないらしい。哲郎はやれやれと肩をすくめる。


 ……あまり気は乗らない手段だが。しかたない。


「いいから、開けろよ」


 足を振り上げ、扉を蹴る。ダンッ、と我ながら強かな音がした。


「て、哲郎くん……⁉」


 突然の暴挙に真魚が血相を変える。


 哲郎はかまわず、


「だいたい、おまえに拒否権とかあるのかよ。こちとら被害者だぞ? くだんない喧嘩のせいで、顔に一生消えない傷をつけられてるんだ。まったく毎晩痛くてしょうがねーよ。それを謝罪もしてねーくせに、もう無関係だって? ふざけんなよ」


 扉の向こうで一瞬、息を呑む気配がした。


「一発くらい殴らせてくれないと割に合わねーだろ? なあ?」


 再度扉を蹴って、脅す。


「ちょ、ちょっと!」


「さっさと開けろよ」


 みたび、沈黙。

 尋常でない空気を察知した真魚が「哲郎くん、いくらなんでもそれは」となだめかける。かすかな足音が近づいてきたのは、そのときだった。


 小さな音を立て、扉がわずかに開く。


「……どうぞ」


「え?」


「はい、お邪魔しまーす」


 哲郎は足取り軽く部屋へ入っていく。

 真魚は、まだ唖然としたまま。


 硝子の部屋は広い。しかしぱっと見の第一印象は——「物が少ない」。これに尽きた。殺風景に感じるほどだ。床や壁、ソファーやテレビに学習机に至るまでモノトーンの色で統一されており、よく言えばシンプル。悪く言えば無機質だ。ベランダへ続く掃き出し窓から昼下がりの光がカーテン越しに漏れている。思えば、私室にお邪魔するのは初めてだ。


「……」


 そして、部屋の主はもてなす気は一ミリもないらしい。扉を開けるや、さっさと白い革のソファーのうえへ。三角座りの体勢でそっぽを向く。白黒の室内だと、相変わらず見事なネイビーブルーの髪が際立つ。部屋着の濃い青色のブラウスに白のパンツはどれも上等そうに見えた。


「相変わらず素直なときは素直だよね。クルミちゃん」


「その呼び方。キモい」


「え、そう? 可愛くない?」


「ねーよ」


 切れ長の目でにらまれる。美人の怒り顔というのは迫力がひとしお、と相場で決まっている。が、今の硝子のは、弱った野良犬の精いっぱいの威嚇のようにしか、哲郎には思えなかった。


「……早くしなさいよ」


「なにが?」


 なにを催促されているのか、哲郎はわかっていて訊き返す。

 硝子はまた、明後日のほうへ顔を背けた。


「な、殴るんでしょ。もったいつけないでいいわよ」


「……はぁ」


 ……屈折している。相変わらず。

 目の前の少女が憐れすぎて、哲郎は見ていられなかった。


「いいの? 遠慮なくやっちゃってさ」


「責任が、あるし……。そうしないと、あんたも気が済まないでしょ」


「んー」


 哲郎は「まあいいならいいけどさ」と彼女に近づく。

 そのときだ。真魚が我に返ったのは。


「だ、ダメに決まってますそんなこと!」


「真魚ちゃん」


「失望しましたよ! 哲郎くん! 前からひょっとしてとは思っていましたが、やはり鬼畜な本性を隠していましたか! ドSは見た目だけにしてください!」


「だれの見た目がドSだよ」


 小熊のごとく懸命に両手を広げて立ちはだかる真魚。哲郎は一度硝子のほうを確認し、見られていないことを確かめると、「大丈夫だから。おれに任せて」と真魚の耳元に囁く。「え……?」と真魚が固まる。


 哲郎は硝子のもとへ、覗き込むように屈み、


「ほら、こっち。顔向けて」


 ソファーのうえで、硝子は三角座りから女の子座りへ。恐る恐るといったふうに顔を上げた。カラーコンタクトによって紅く染まった瞳が潤んでいる。ほのかな頬の赤みは、緊張か、それとも……。


「マジでいいの? すごく痛いよ?」


「い、いいから……早く、お願い」


「おっけい。じゃあ最初はビンタからね。目閉じといて」


 硝子がきつく目を閉じる。唇から漏れる吐息が震えていた。

 なんだか、と哲郎はふと思う。こうしていると、頬を赤く染めた想い人にキスを待たれているように、見えなくもない。実際はまるで逆の状況なのだが。なぜこうも、現実は虚しいものなのか。


 哲郎は気づかれぬよう、硝子の頬の近くでこっそり手のひらを固定し、もう一方の腕を振り上げる。そして、なるべく派手な音がするよう、硝子の顔付近で思い切り両手を打ち鳴らした。


 ——パチンッ‼


「んっ……‼」


 硝子の身体が、びくんと跳ねる。

 やがて糸が切れたように、横向きに倒れ込んだ。


「胡桃沢さん!」


 真魚が顔面蒼になんて駆け寄った。


「見損ないましたよ哲郎くん。たしかに今の日本は男女平等を掲げてはいますが、この仕打ちはあまりにも平等すぎます。平等院鳳凰堂です。藤原道草です」


「めちゃくちゃだよ。どんだけテンパってんの」


 一部始終を見ていただろうに。


「とにかく落ち着いて、真魚ちゃん。あと平等院は藤原頼道だから。ちょっとおもろい間違え方しないで」


「で、ですが」


「まあまあ、ほら、見てみなよ」


 うながされ、真魚はあらためてうずくまる硝子の顔を覗き込む。


「え……?」


 そして言葉を失った。


 力なくソファーに転がる硝子は自らの頬を手で押さえ、まるで熱に浮かされたように顔を紅潮させ、はあはあと息を荒げていた。……いや。ここは包み隠さず、はっきりと言うべきだろう。


 硝子は、明らかに興奮していた。



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