視覚の最適化
エリアナという名の極めて扱いやすいヒューマン・インターフェースを手に入れてから、俺の探求は加速した。
彼女は俺の異常な知的好奇心を、ただの『早熟な天才の気まぐれ』として極めて好意的に解釈した。
彼女の行動アルゴリズムは単純明快だ。『ゼノ様の望みを叶えること』。
その最上位コマンドの前では、父サイラスの言いつけや侍女としての常識さえも二次的な変数へと格下げされる。
その日も俺は彼女という『鍵』を使い、書斎という名の牢獄へとアクセスしていた。
「エリアナ。あの棚の一番上の、赤い装丁の本を取ってほしい」
「はい、ゼノ様。ですが、あちらは『高等魔法物理学概論』ですよ? まだゼノ様には難しすぎるのでは……」
彼女は困惑しつつも俺の指示に従う。
彼女のオドには俺の要求に対する『疑念』というノイズは存在しない。ただ、俺の身体を気遣う『心配』という純粋な信号だけが観測された。
(問題ない。俺はこの世界の言語体系の解析をとうに終えている。文字はもはや俺にとって、ただの情報パッケージに過ぎない)
俺はエリアナが差し出した分厚い専門書を、小さな手で受け取った。
革装丁の重みがこの不自由な身体には堪える。
彼女の助けを借りて重いページをめくる。
そして俺の視覚センサーは、初めてこの世界の『知性』そのものと直接対峙した。
そこに描かれていたのは、無数の幾何学模様とそれを補足する数式の羅列。
この世界の『魔法陣』と呼ばれるものだ。
他の人間が見れば、それはただの神秘的な図形か難解な学術資料にしか見えないだろう。
だが、俺の目には全く違うものが見えていた。
(……これだ)
それは図形ではなかった。
エネルギーの流れを記述した完璧なフローチャートだった。
一本一本の線が魔素の流れる経路を示し、円や多角形がエネルギーを収束、増幅、あるいは変換するための演算装置として機能している。
そしてその脇に添えられた数式は、そのプロセスにおける各パラメータ……入力される魔力量、変換効率、出力されるエネルギーのベクトルを、不完全ながらも定義しようと試みている。
それは俺が揺り籠の中でゼロから構築した理論体系と、驚くほど酷似していた。
俺が情報のノイズの海の中から見つけ出した、あの周期的なパターン。
俺が光虫の揺り籠の非効率性から逆算して導き出した、最適化されたエネルギー伝達経路。
俺がこの世界の物理法則を記述するために、頭の中で組み立ててきた基礎的な方程式。
その全てがこの古い羊皮紙の上に、不完全な形で、しかし確かに実在していた。
(……俺が頭の中で描いていた数式がここにある! 俺は間違ってはいなかった!)
圧倒的な知的興奮。
それは孤独な宇宙で、自分以外の知的生命体の信号を初めて受信したかのような根源的な歓喜だった。
俺はこの世界で初めて、孤独ではないと感じた。
この世界の誰かは、かつての俺と同じ道を歩み、同じ結論に不完全ながらも到達しようとしていたのだ。
俺は貪るようにページをめくった。
火の魔法、水の魔法、風の魔法。それぞれの現象を記述する魔法陣と数式を、俺の脳にスキャンしていく。
そして歓喜はすぐに、より冷徹な分析へと移行した。
(……だが、浅い。あまりにも理解が浅すぎる)
この世界の人間は法則の表層しか理解していない。
彼らはなぜこの魔法陣が機能するのか、その根源的な物理法則を理解せぬまま、ただ伝承として受け継がれた形を経験則で改良しているに過ぎない。
数式は近似値ばかりで厳密な定義がなされていない。エネルギー変換のプロセスには無駄な工程が多すぎる。
まるで最適化される前のレガシーコードのようだ。
(方向性は間違っていない。だが、彼らはこのOSのユーザーマニュアルを読んでいるに過ぎない。俺のように、そのソースコードを直接書き換えるという発想には至っていない)
俺ならこれをさらに発展させ、完璧な理論を構築できる。
このバグだらけの非効率なシステムを、より美しく、より効率的な完成された物理法則へと再定義できる。
「ゼノ様……? 大丈夫ですか? なんだかとても興奮されているようですけれど……」
エリアナが心配そうに俺の顔を覗き込む。
俺は彼女の声で、思考の海から引き戻された。
俺は彼女を見上げ、そしてこの世界に来て初めて、心の底からの純粋な笑みを浮かべた。
「……エリアナ」
「は、はい!」
「ありがとう。君のおかげで道が見えた」
それは彼女への感謝の言葉であると同時に、この非効率な世界に対する俺の宣戦布告でもあった。
エリアナは俺の言葉の意味を理解できず、ただ俺の初めて見る笑顔に顔を赤らめていた。
(観測は終わった。これより実験のフェーズへと移行する)
俺は目の前の魔導書に再び視線を落とした。
そこに描かれた不完全な数式は、もはや俺にとってただの過去の遺物ではない。
それは俺がこれから書き換えていく、新しい世界の最初の設計図だった。




