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異端賢者の魔導原論  作者: 杜陽月
揺り籠の中の観測者

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揺り籠の外の世界へ

 生後二年が経過した。


 俺の身体という名のこの不自由な観測装置は、ようやく最低限の自律行動が可能なレベルに達した。

 二足歩行は安定し、発声器官はこの世界の言語体系に準拠した複雑な音声データを出力できるようになった。


 だが、俺の探求は依然としてこの屋敷という名の小さな閉鎖宇宙に限定されていた。

 俺の行動は常に父と母、そして侍女たちの監視下にあり自由な実験は不可能。

 俺の知性はこの矮小な肉体と、家族という名の非合理的な社会システムの中に囚われ続けていた。


 その日、俺の探求は新しいステージへと移行した。

 俺は自らの意志で初めて、揺り籠の外の世界へとその一歩を踏み出したのだ。


 きっかけは単純な物理現象だった。

 俺は自室のベッドの上で、積み木という名の単純な構造力学の実験に没頭していた。

 もちろん、それは偽装だ。俺の意識はこの部屋を満たす無数の魔素(エーテル)の輝き、その美しい流れの観測に完全に集中していた。


 その瞬間だった。

 俺の身体の重心が僅かにずれた。

 俺はベッドから転がり落ちた。


 侍女が悲鳴に近い声を上げた。

「ゼノ様! お怪我はございませんか!」

 彼女のオドが心配という名の高周波ノイズで激しく乱れる。

 だが、俺の意識はそんなことには向いていなかった。


 俺は床に四つん這いになっていた。

 そして俺の目の前には、これまで見たことのない新しい視点からの世界が広がっていた。

 揺り籠の中から見上げるのとは違う。

 侍女に抱きかかえられて見るのとも違う。

 俺自身の意志で、俺自身の視点で世界を観測している。


(……行動範囲が拡大した。これにより、取得できるデータの種類と量が飛躍的に増大する)


 俺はゆっくりと立ち上がった。

 二本の足で大地を踏みしめる。

 この当たり前の行為が今の俺にとっては、人類が初めて月面に降り立った瞬間に匹敵する偉大な一歩だった。


「ゼノ様……? 立てるようになられたのですか……?」

 侍女が信じられないものを見るような目で俺を見つめている。

 俺は彼女の問いには答えず、ただ目の前の新しい世界へとその一歩を踏み出した。


 最初の観測対象は廊下だった。

 これまで何度も抱きかかえられて通ったただの通路。

 だが、自らの足で立つとそれは全く新しい情報に満ちた空間へとその姿を変えた。


 壁にかけられた歴代当主の肖像画。

 俺はその一枚の前に立ち止まった。

 描かれているのは俺の曽祖父にあたる、厳格な顔つきの老人だ。


(観測を開始する。対象:二次元平面における三次元情報の投影。手法:油彩。顔料の化学組成を分析。……なるほど。この世界の絵の具は植物や鉱物から抽出した天然由来のものが主らしい。故に経年劣化による色相の変化が著しい。特にカドミウム系の黄色は光化学反応により退色が激しい。保存状態は劣悪だ)


 俺は絵画そのものよりも、それを構成する物理的な要素に興味を惹かれた。

 キャンバスの布地、絵の具の質感、そしてそれを照らす窓からの光。

 光が絵の具の表面で乱反射し、俺の網膜に像を結ぶ。

 その当たり前の物理現象が今の俺には新鮮で、そして美しくさえ感じられた。


「ゼノ様、絵がお好きなのですね」

 侍女が俺の背後で嬉しそうに言った。

 俺は彼女のそのあまりに単純な解釈に、内心でため息をついた。


(違う。俺は絵画という芸術を鑑賞しているのではない。俺は光と物質の相互作用を観測しているのだ)


 俺は肖像画から興味を失うと、再び廊下を歩き始めた。

 次に俺の注意を引いたのは、廊下の隅に置かれた一体の全身鎧だった。


(対象:装飾用甲冑。材質:鉄及び真鍮。……面白い。この世界の製鉄技術はまだ発展途上らしい。表面には不純物による微細なクラックが無数に存在する。これでは実戦での耐久性は期待できない。だが、その表面に刻まれたこの幾何学模様は……)


 俺は鎧の胸当てに刻まれた複雑な紋様に目を凝らした。

 それはただの装飾ではなかった。

 微弱だが、確かに魔力を帯びている。


(……魔法陣(まほうじん)か。それも極めて原始的な防御系の。なるほど。この世界の人間はこうやって物質に付加価値を与えるのか。だが、この設計は非効率だ。エネルギーの伝達経路が冗長すぎる。俺ならもっと単純な、しかしより強力な防御力場を形成できる)


 俺はその場で頭の中で、より効率的な防御魔法陣(まほうじん)の設計図を組み立て始めた。

 そのあまりに異様な光景に、侍女はただ困惑した表情で立ち尽くすしかなかった。


 俺は鎧からも興味を失うと、廊下の突き当たりにある大きな窓へと向かった。

 窓の外には手入れの行き届いた広大な庭園が広がっていた。


(観測対象:生態系。植物、昆虫、鳥類。……なるほど。この世界の植物は地球のそれとは根本的に光合成のプロセスが異なるらしい。葉緑素の構造が違う。故に葉の色が僅かに青みがかって見える。そして、あの昆虫……蜂に似ているが、その翅の動きは航空力学の法則を完全に無視している。あれは翅で飛んでいるのではない。自らのオドを使い周囲の魔素(エーテル)に干渉し、反重力ベクトルを発生させているのだ。なんと非効率な飛行方法だ)


 俺はこの世界のそのあまりの非効率さに、もはや感心さえ覚えていた。

 この世界はバグだらけだ。

 だが、そのバグこそがこの世界の多様性と複雑性を生み出している。

 それは俺の知的好奇心を無限に刺激した。


 俺は庭園から屋敷の厨房へと向かった。

 扉の隙間から様々な匂いが漏れ出してくる。


(匂い……すなわち空気中を漂う微細な化学物質の粒子。……面白い。この匂いは前世では経験したことのない未知の香辛料か。そして、この甘い香りは……メイラード反応。糖とアミノ酸が加熱されることで生じる複雑な化学反応だ。この世界の料理人も経験則でその法則を理解しているらしい)


 俺は厨房の扉を僅かに開けた。

 中ではコックたちが忙しなく動き回っている。

 鍋の中では肉が焼かれ、野菜が煮込まれている。

 その当たり前の光景が今の俺には、壮大な化学実験の実験室に見えた。


「まあ、ゼノ様! このような場所は危のうございます!」

 俺に気づいたコックの一人が慌てて駆け寄ってきた。

 侍女も青い顔で俺を抱き上げようとする。


 俺は彼女たちのその過剰な反応を冷静に分析した。


(なるほど。この社会システムにおいて、俺という存在は『保護されるべき脆弱な子供』として定義されているらしい。故に厨房のような危険な場所へのアクセスは制限される。非合理的だ。俺の探求の邪魔になる)


 俺は彼女たちの腕をするりと抜け出すと、再び廊下を歩き始めた。

 俺の最初の探検はそこで終わった。

 侍女に捕獲され、俺は自室へと強制的に送還された。


 その夜、俺は自室のベッドの中で一人、今日の探検で得た膨大なデータを整理していた。

 肖像画の顔料。

 鎧の魔法陣(まほうじん)

 庭の植物と昆虫。

 厨房の匂いと化学反応。

 その全てが俺の頭脳の中で再構築され、この世界の物理法則と社会法則に関する新しい仮説を生み出していく。


(結論。行動範囲の拡大により、取得できるデータの種類と量が飛躍的に増大した。この屋敷の全てを解析し終えたら、次は壁の外の世界だ)


 俺は窓の外、その向こうに広がる夜の闇を見つめた。

 あの闇の向こうには、まだ俺の知らない無数の未知の観測対象が広がっている。

 俺の本当の探求はまだ始まったばかりなのだ。


 揺り籠の外の世界は非効率で非合理的で、バグだらけだった。

 だが、それ故に美しく、そして何よりも面白かった。

 俺はこの世界に来て初めて、心の底からそう思った。

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