書庫の光
鋼鉄扉が、俺の背後でゆっくりと閉じていく。
ゴゴゴゴ……という地響きのような低い駆動音は、この絶対的な静寂の中では轟音にも等しかった。だが、その音が完全に止むと、世界は再び死んだかのような沈黙に包まれた。
俺、ゼノ・ヴィリジアンは、ついにその場所へと足を踏み入れていた。
ソラリア魔術アカデミー、中央図書館地下最深部。
『禁断の書庫』。
空気が、地上のそれとはまるで違っていた。 光のない絶対的な静寂。
大気に満ちる魔素の匂いとは異なる、古い羊皮紙が数百年かけて放出し続ける独特の乾燥した知性の香り。そして何よりも、この場所に封印された無数の『異端』の知性が放つ、強烈なまでのプレッシャー。
それはまるで、凝縮された情報の質量が、物理的な重力となって俺の精神にのしかかってくるかのようだった。
(……ハッキング、完了。セキュリティシステムの脆弱性を確認。やはり、この世界の秩序は俺の知性の前ではあまりにも脆い)
俺の思考――桐山徹の演算能力は、自らが実行したばかりの完璧なハッキングの余韻よりも、既に次のフェーズ、すなわちこの巨大なデータベースの解析へと移行していた。
俺は闇に目を慣らしながら、ゆっくりと書庫の奥へと進んでいく。 この空間の設計思想は、地上の図書館とは全く異なっていた。
地上の図書館が「権威の誇示」を目的とした非効率で広大な空間設計だったのに対し、ここは「情報の保存」というただ一つの目的に特化している。
書架と書架の間は、人間一人がようやく通れるだけの幅しかなく、天井までぎっしりと、それこそ物理的な限界まで古文書が詰め込まれていた。 まるで、巨大なサーバーラックが立ち並ぶ、知性のデータセンターだ。
(……素晴らしい。この情報密度。父の書斎など、これに比べればただのパンフレット置き場に過ぎない)
俺の目的は明確だ。 この世界の物理法則を根底から覆した、あの『公理の構築者』たちが遺した、禁断のデータ。
ソラリア正教が「神話」として隠蔽し、アウグストゥス・セロンが「異端」として封印した、この世界の根源的なソースコード。 俺の『魔法物理学』を完成させるための、最後のピースがここにある。
俺は、この知の迷宮を解析するため、まずはこの書庫の構造そのもののマッピングを開始しようとした。 その時。 俺の知覚が、この絶対的な静寂と闇の中で、あり得ないはずの『ノイズ』を検知した。
(……なんだ?)
それは、音ではなかった。匂いでもなかった。 光だった。
書庫のさらに最深部。山と積まれた古文書の、その影。 そこに一つの、あり得ない光が灯っていた。
それは魔術的な光ではない。アカデミーの廊下を照らす、あの魔導灯の安定した光とは明らかに異質だ。 もっと原始的で、不安定で、非効率な燃焼による光。 ――ランタンの灯りだった。
俺の思考が、一瞬フリーズした。
(……侵入者か? 俺以外の?)
あり得ない。 あの三重の防護障壁。物理的な施錠、魔力感知式のトラップ、そして学長アウグストゥスレベルのオドでしか解除できないはずの認証システム。 それを、俺以外の人間が突破したというのか? 俺と同じように、あの旧弊なセキュリティシステムの脆弱性を見抜き、物理法則への直接介入によってバイパスしたというのか?
(……いや、違う。仮にそうだとしたら、その個体は俺と同等か、それ以上の知性を持つことになる。そんな存在が、このアカデミーに、俺以外の『生徒』として紛れ込んでいる確率は、天文学的に低い)
俺は即座に思考を切り替える。
(……ならば、可能性は二つ。一つは、正規の許可を得たアカデミーの上層部――例えばアウグストゥス本人か、あるいは彼に準ずる碩学士が、何らかの理由でこの深夜に研究を行っている。二つ目は、俺とは異なる未知のハッキング技術、あるいは物理的な『鍵』そのものを持つ、第三者の侵入者)
どちらにせよ、この状況は俺の研究計画にとって、予測不能な最大のリスク要因だった。 俺は即座に、この身体が持つ全ての感覚器の感度を最大に引き上げ、その光の発生源へと、音もなく接近を開始した。 書架の影を縫うように、一歩、また一歩。
(……個体のパラメータをスキャンする。魔力の励起反応、極めて微弱。ランタンの燃焼による魔素の擾乱以外、ほとんど観測できない。生命活動の兆候、安定。心拍数、呼吸、共に正常値だが、ごくわずかに『緊張』のパラメータが検出される。……敵意、殺意、警戒、いずれのネガティブな感情パラメータも観測されず)
俺の思考OSが弾き出した結論は、シンプルだった。
(……この個体は、脅威ではない)
俺は書架の最後の角を曲がり、ついに、その光景を観測した。 そこは、書庫の中でも特に古い文献が山積みになった、小さな空間だった。 ランタンの灯りが照らし出す狭い円の中心。
そこに、山のような古代文献に囲まれ、床に直接座り込み、一心不乱に何かを羊皮紙に書き写している一人の少女の姿があった。
俺は、その個体を詳細に分析する。 年齢は、俺と同じ15歳前後か。 服装は、粗末な、しかし清潔に洗濯されたアカデミーの制服。だが、その生地は明らかに安価なもので、おそらくは貴族ではない、一般の推薦枠か奨学生なのだろう。 顔の半分を覆うほど大きな、丸い眼鏡。レンズの奥の瞳は、目の前の古文書に釘付けになっており、俺の存在にはまったく気づく気配がない。 彼女は、まるでこの世界の全てから取り残されたかのように、ただひたすらに、禁断の知識を写し続けていた。 その姿は、俺がヴィリジアン邸の書斎で、父の蔵書を解析していた時の姿と、どこか似ていた。
(……彼女の目的は、俺と同じ……『知識の探求』)
俺の思考が、新たな仮説を導き出す。
(彼女は、正規の侵入者でも、俺と同じハッカーでもない。おそらく、この書庫の正規の管理者の一人――例えば、クレメント・マリウスのような、権威に弱いが知的好奇心には抗えない、下級の学者か司書――と何らかの形で通じ、この時間、この場所へのアクセスを黙認されている。あるいは、彼女自身がこの書庫の管理を任されている、末端の司書見習いか)
どちらにせよ、彼女は自らの立場というリスクを冒してまで、このシステムの規則を破ってまで、ここにアクセスしている。 その事実は、彼女がこの旧弊なアカデミーにおいて、俺以外で唯一、観測する価値のある知的生命体である可能性を示唆していた。
(……興味深いサンプルだ)
俺は、彼女の警戒心を刺激しないよう、その場に留まったまま、さらに詳細な観測を続けた。 俺の最大の関心事は、彼女が「何を」調べているのか、だ。 この禁断のデータベースの中で、彼女の知的好奇心をそこまで強く惹きつけている情報とは、一体何なのか。
俺は、彼女の肩越しに、その手元にある古文書のタイトルと、彼女が書き写している羊皮紙の断片的な内容を、俺の翠眼の最大解像度でスキャンしようと試みた。 古文書の表紙は、長年の劣化でほとんど判読不能だった。だが、そのかろうじて読み取れる古代語の文字列。
(……『■■■■の■|、■■■の堕天』……? 『第二公理の崩壊』……?)
その単語が、俺の思考に突き刺さった。 公理。アクシオム。 それは、俺が追い求めている『公理の構築者』たちを直接連想させる、この世界で最も重要なキーワードだった。
(……まさか。彼女が調べているのは、公理の構築者に関する文献か?)
俺の心拍数が、わずかに上昇するのを自覚した。 それだけではない。 彼女が熱心に書き写している別の羊皮紙。そこに描かれているのは、複雑な幾何学模様。
(……あれは。魔法陣ではない。生体組織の模式図か? 損傷した魂の設計図――オドの修復シークエンスに関する、失われた理論……?)
そう。彼女が調べているのは、アカデミーの公式カリキュラムからは完全に抹消された、「失われたとされる治癒魔法」に関する古文書だった。 俺の父、サイラス・ヴィリジアンが専門としながらも、その理論的限界に気づいてすらいなかった生命魔法の、さらに深淵にある領域。 クレメント・マリウスが、その限界(失われた四肢が再生しないこと)に悩み、異端の私見として俺に告白した、あの領域だ。
この少女は、このアカデミーの、このシステムの、最も深い場所に隠された二つの巨大な『謎』――すなわち、『世界の始まり(公理の構築者)』と『生命の根源(魂の修復)』――に、たった一人でアクセスしようとしていたのだ。
その事実は、経験したことのないレベルの知的興奮をもたらした。
彼女は、俺と同じだ。 この旧弊なシステムの表面的な『常識』になど目もくれず、その奥底に隠された『真理』だけを渇望している。 俺は、この世界に転生して初めて、自分以外の人間に対して『同志』と呼び得る可能性を感じていた。 俺は、彼女という名の『興味深いサンプル』に、接触することを決意した。
俺が、書架の影から、静かに一歩、踏み出した、その時だった。 パサリ、と。 この絶対的な静寂の中では、雷鳴にも等しい乾いた音。 俺の足が、床に無造作に積み上げられていた羊皮紙の束の端を、わずかに踏んでしまったのだ。
その瞬間。 ランタンの灯りの中心で一心不乱にペンを走らせていた少女の動きが、まるでぜんまい仕掛けの人形が壊れたかのように、不自然に停止した。 「――ッ!?」 彼女の身体が、獲物を前にした小動物のように硬直する。 その細い肩が、観測可能なレベルで微かに震えている。
(……エラー発生。対象に存在を検知された。警戒レベルが最大閾値に移行)
俺の思考OSが、即座に状況を再分析する。 少女は、ゆっくりと、信じられないものを見るかのように、その顔を上げた。 古い羊皮紙の山に囲まれた、絶対的な闇の聖域。 そこにいるはずのない、「何か」。
ランタンの灯りが、彼女の顔の半分を覆うほど大きな、丸い眼鏡のレンズに、不気味に反射する。その奥にあるはずの瞳は、光の反射によって隠され、俺からは観測できない。 だが、そのレンズの奥にある『何か』が、この闇の中で、俺という『もう一つの異物』を正確に捉えたのを、俺は確かに観測した。
静寂。 この世界の秩序から抹消されたデータベースの最深部で、二つの、あり得ないはずのバグが、初めて互いの存在を認識した瞬間だった。 彼女の呼吸が止まっている。 俺の思考OSは、この予測不能な変数に対し、最適解を導き出すために、猛烈な速度でシミュレーションを開始した。
(……状況を再定義する。対象:俺と同じく、システムの正規のルールを逸脱してこのデータベースにアクセスしている知的生命体。脅威レベル:不明。目的:不明。……だが、俺が今ここで取るべき行動は一つだ)
俺は、自らの両手をゆっくりと上げ、その掌を彼女に見せることで、敵意がないことを示すという、この世界の原始的なコミュニケーション・プロトコルを実行しようとした。 だが、俺が動くよりも早く、彼女が動いた。 彼女の行動は、俺の予測モデルの、そのどれとも一致しなかった。
悲鳴を上げるのでもない。 逃走するのでもない。 ましてや、警報を発するのでもない。
彼女は、硬直したままの姿勢で、その震える唇をかろうじて動かし、この静寂の中で、あり得ないほどに冷静な、しかし、か細い声を発した。
「……そこにいるのは……誰、ですか……?」
その声は、恐怖に震えてはいた。だが、それ以上に、この状況そのものが信じられないという、純粋な『困惑』に満ちていた。
「……もし、アカデミーの衛士の方なら……どうか、ご容赦を。私は、ただ……ただ、調べ物を……」
彼女は、俺を、このシステムの『管理者』側だと誤認したらしい。 その誤認は、俺にとって好都合だった。
(……思考OSの分析結果を更新。対象は、俺を『秩序』側の存在と誤認。この誤認を利用すれば、対象の目的と、ここへの侵入方法を、より詳細に聞き出すことが可能だ)
俺は、あえて書架の影から姿を現さず、この15歳の少女が出し得る、最も無機質で、権威を感じさせる声色をシミュレートして、応答した。
「……規則違反だ。この書庫への立ち入りは、学長の許可なくしてはあり得ない。あなたは、誰の許可を得て、ここにいる?」
俺の冷たい問いかけに、少女の身体がびくりと震えた。 彼女は、慌てて床から立ち上がろうとした。だが、その拍子に、積み上げられていた古文書の山に肘が当たり、数冊の重い本が、音を立てて床に崩れ落ちた。
「ひゃっ……!?」
彼女は、小さな悲鳴を上げ、その場に凍り付く。 そのあまりにも人間的で、非効率な反応。 俺の思考OSは、そのデータを冷静に分析していた。
(……感情パラメータ:『恐怖』と『動揺』が、一時的に理性を上回る。運動神経、極めて低い。……脅威レベルを、限りなくゼロに下方修正する。この個体が、俺に対して物理的な危害を加える可能性は、存在しない)
「……し、失礼しました! わ、私は、その……!」
少女は、狼狽しながら、必死に言葉を紡ごうとする。 その姿を見ながら、俺は、この問答が非効率であると判断し、戦略を変更した。 俺は、書架の影から、ゆっくりと姿を現した。 ランタンの灯りが、俺の姿――アカデミーの制服をまとった、銀髪翠眼の少女の姿――を、闇の中からぼんやりと浮かび上がらせる。
「…………え?」
俺の姿を認識した少女の反応は、先ほどとは比較にならない、純粋な『呆然』だった。 彼女の思考OSが、入力された情報を処理できずに、完全にフリーズしているのが観測できた。 彼女が想定していたのは、厳格な教授か、あるいは冷酷な衛士だったのだろう。 だが、目の前に現れたのは、自分とさほど変わらない年齢の、一人の新入生。 しかも、その顔は、この数日、アカデミーで最も『異端』として噂されていた、あの『翠眼の魔女』。
「……あ……あなた、は……二位の……ゼノ・ヴィリジアン……様……?」
彼女の声は、もはや恐怖ではなく、ただ、あり得ないものを見たという、純粋な驚愕に染まっていた。
「なぜ、あなたが、ここに……? ここは、許可なく入れば、退学どころでは……」
「あなたも、同じはずだ」
俺は、彼女の非効率な問いを遮り、単刀直入に、俺自身の問いを投げかけた。
「……あなたこそ、ここで何を調べている? その文献は、アカデミーの教義では、存在しないことになっているはずだ」
俺の視線が、彼女が先ほどまで熱心に読みふけっていた、床に散らばった羊皮紙へと向けられる。 ランタンの灯りに照らし出された、そのタイトル。 『第二公理の崩壊と大崩落の因果関係』 『魂の修復理論:失われし生命魔法の再構築』
(……なんだ、これは……!)
俺がこの『禁断の書庫』で探し求めていた、二つの巨大な『謎』。 『公理の構築者』たちが、なぜ『大崩落』を引き起こし、自滅したのか。 そして、俺の父、サイラス・ヴィリジアンの理論では解明できなかった、生命魔法の根源、『魂の修復』の可能性。 この少女は、その二つの、この世界の根源的なソースコードに、たった一人でアクセスしようとしていたのだ。
俺の視線が、その文献から、目の前の少女へと戻る。 もはや、彼女は『興味深いサンプル』などではなかった。 彼女は、俺の探求の、その核心に触れる『鍵』そのものだった。
俺のそのあまりにも強すぎる視線に、少女は再びびくりと肩を震わせた。 彼女は、自分がアカデミーで最も危険な『異端者』と二人きりで、この封印された書庫にいるという現実を、ようやく正確に認識したようだった。




