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異端賢者の魔導原論  作者: 杜陽月
入学試験と三つの邂逅

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禁書の森

ソラリア魔術アカデミーでの公式な日程――すなわち、入学試験と入学式という二つの非効率な社会的儀式は終了した。


 秩序の寵児として喝采を浴びたアウレリウス・フォン・アルゲントゥムは教授陣や他の生徒たちとの関係性という名の新たな社会的ネットワークの構築に時間を費やしていることだろう。 だが、俺の目的は彼らとは根本的に異なる。


 俺の目的は社交ではない。 探求だ。


 このアカデミーという帝国で最も知性が集積された巨大なデータベースを解析し、俺の理論――『魔法物理学』を完成させるためのデータを収集すること。


 入学式の翌日。


 俺は学生に割り当てられた簡素な寮の自室で目覚めると、侍女のエリアナによる身支度という名の非効率なプロセスを最小限の時間で終わらせ、ただ一つの目的地へと向かった。


 アカデミー中央図書館。


 その建物は、俺が育ったヴィリジアン邸がまるごと収まってしまうほどの圧倒的な威容を誇っていた。  大理石の柱が並ぶエントランスは、まるで神殿のように荘厳で静寂に満ちている。


 (……建築様式はやはり思想的牢獄のそれだ。知の探求者ではなく、敬虔な信徒を育成するための設計思想。この空間にいるだけで、利用者の精神はシステムの権威に従属するように誘導される)


 俺の思考OSがこの空間の非合理性を即座にスキャンする。

 だが、その非合理的な外装とは裏腹に、内部にアーカイブされている『情報』の価値は計り知れない。


 俺は新入生らしい好奇心を装いながら、その膨大な書架の間を歩き始めた。他の新入生たちはその圧倒的な情報量にただ気圧されているか、あるいはどの本から読めばいいのか分からずに右往左往している。


 俺には迷いはない。 俺の探求は8年前に家庭教師クレメント・マリウスという名の生けるデータベースをハッキングしたあの日から、すでに始まっているのだ。

 彼から得た情報によれば、この図書館の公開書庫にある蔵書は、アカデミーの教義に沿って「正しく」編纂されたものだけのはずだ。


 俺は「魔法物理学」の書架へと向かった。

 背表紙に並ぶのは、『太陽賛歌ソーラー・カンティクル概論』『正統魔術体系と詠唱理論』『魔素と神の恩寵』といったタイトルだけでその内容の非科学性が予測できるものばかりだ。


 俺はその中から一冊、最も分厚い基礎理論書を抜き取った。 ページをめくる。

 そこに記されていたのは、俺が予測した通りの古く非効率なドグマの羅列だった。


 (……やはり、だ。この世界の魔法理論は根本的な公理系が間違っている。『なぜ』を問わず、ただ『神がそう定めたから』という信仰を前提に全てが構築されている。これではただのユーザーマニュアルだ。俺が求めているシステムのソースコードではない)


 俺が揺り籠の中でゼロから構築し、書斎の牢獄で基礎を固め、フリントとの共犯関係を通じてその有効性を証明してきた『魔法物理学』。

 魔素(エーテル)の挙動、オドによる直接介入、詠唱(チャント)というノイズの排除。

 そういったこの世界の真理の根幹に触れる記述は、ここには一文字も存在しない。


 (予想通り、公開データは価値が低い。本当に価値のある情報は常にアクセスが制限されている)


 俺は静かに本を書架に戻した。

 周囲の生徒たちがその非効率な知識をまるで聖典でもあるかのように必死に羊皮紙に書き写している。その光景は俺の目にはひどく滑稽に映った。


 俺の目的はここにはない。

 俺が本当にアクセスすべきデータベースはこの光溢れる秩序の空間には存在しない。

 それはクレメントがかつて恐怖と畏怖の念を込めてその存在を口にしたあの場所。


 この大図書館の地下深くに存在し、アカデミーの最高権力者と、選び抜かれた一部の碩学士しか入室を許されないという禁断の領域。 ソラリア正教が異端として断罪し、その存在そのものを歴史から抹消しようとした本物の『知』が眠る場所。


 『禁断の書庫』。


 俺はその日の残りの時間を図書館の構造とセキュリティシステムの観測に費やした。

 『禁断の書庫』へと続く扉は、地下深く、一般の学生が立ち入ることのない管理区域の最奥にそれはあった。

 それはただの扉ではなかった。 この世界の技術の粋を集めたであろう重厚な鋼鉄の扉。

 その表面には無数の魔法陣が複雑な幾何学模様として刻み込まれ、淡い黄金色の光を放っている。

 太陽賛歌ソーラー・カンティクルに基づく最高レベルの魔術的封印だ。


 (……観測を開始する。セキュリティシステムを分析)


 俺の翠眼(すいがん)がその魔法陣の構造をスキャンする。


 (……なるほど。これは三重の防護障壁だ。  第一層:物理的な施錠。鍵穴の構造は複雑だが、俺の技術で突破可能。  第二層:魔力感知式のトラップ。太陽賛歌ソーラー・カンティクル以外の魔力の流れを検知すると、警報が作動する仕組みか。  第三層:これが本命か。認証システムだ。特定のオドの波長――おそらく学長アウグストゥスや許可された教授陣のもの――と一致しなければ、扉の物理的機構そのものが作動しない)


 (このセキュリティシステム……面白い。設計思想が古い)


 このシステムは、正統(・・)な魔術師が、正統(・・)な魔術で破ろうとすることを前提に設計されている。

 だが、俺のアプローチはその前提の外側にある。


 (このシステムは、詠唱や魔法陣といった魔力の『ノイズ』を検知することには特化している。だが、俺のようにノイズを一切出さずに物理法則そのものに直接干渉するアプローチは、想定されていない)


 (第二層のトラップは魔力を使わなければいい。  第三層の認証システム。俺は学長のオドは偽造できない。だが、その必要はない。認証システムが制御しているのは、最終的な物理的ロック機構だ。ならば、認証システムそのものをバイパスし、ロック機構に直接『開錠』のコマンドを送信すればいい)


 (これを突破するのは容易い)


 時計塔の古びた錠前を解錠したあの時の感覚を思い出していた。

 あの時よりも遥かに複雑だが、根本的な原理は同じだ。


 その夜。 アカデミーが月明かりと秩序を守るための魔導灯の冷たい光に包まれる頃。

 俺は学生寮の自室を音もなく抜け出した。


 アカデミーの敷地内には、一定間隔で警備の兵士が巡回している。

 だが、彼らの動きは俺がヴィリジアン邸で解析した警備兵のそれと同じく予測可能なルーチンワークに過ぎなかった。

 俺は、彼らの巡回ルートの死角と物陰が作り出す闇の回廊を完璧に計算し、誰にも知覚されることなく大図書館の地下管理区域へと侵入した。


 そして、あの重厚な鋼鉄の扉の前に、再び立つ。

 昼間とは異なり夜の闇の中で扉に刻まれた魔法陣は、まるで生きているかのように不気味な黄金色の光を明滅させていた。


 「……これより、実験を開始する」


 俺は誰に言うでもなく呟くと、その扉にそっと手を触れた。


 第一層、物理的な施錠。


 俺は自らのオドを鋼鉄の内部へと侵入させる。

 複雑に入り組んだシリンダー錠の内部構造を三次元的に完璧にマッピングする。

 そして、複数のタンブラーピンを同時に、そして正しい位置へと、まるで目に見えない指で押し上げるかのようにベクトル制御で操作した。 カチリというこの静寂の中では心臓に響くほど大きな金属音がした。第一層、突破。


 第二層、魔力感知式のトラップ。


 俺は魔力を一切使わない。俺が使うのは、純粋な物理法則への直接介入のみ。この層は俺の存在を認識することさえできない。


 第三層、オド認証システム。

 俺は扉の魔法陣の中枢――認証結果に基づき、最終的なロックボルトを制御している機構へと意識を集中させる。 そして、俺のオドから純粋な『開錠』のコマンドを物理的な信号としてその機構の深部へと直接送信した。


 ゴゴゴゴ……という地響きのような低い音。

 数十年、あるいは数百年間、正当な資格を持つ者以外には決して開かれなかったであろう鋼鉄の扉が、その重みに抗うように、ゆっくりと、しかし確実に開いていく。


 (……ハッキング、完了。セキュリティシステムの脆弱性を確認。やはり、この世界の秩序は俺の知性の前ではあまりにも脆い)


 俺は開かれた扉の向こう側、その深淵のような闇の中へと一歩、足を踏み入れた。


 空気が変わった。

 光のない絶対的な静寂。

 大気に満ちる魔素(エーテル)の匂いとは異なる古い羊皮紙が放つ独特の乾燥した知性の香り。  そして何よりもこの場所に封印された無数の『異端』の知性が放つ、強烈なまでのプレッシャー。


 ここが俺の真の戦場。 『禁書の森』。


 俺はこの世界の真理へと続く最初の扉を開いたのだ。


 俺は闇に目を慣らしながら、ゆっくりと書庫の奥へと進んでいく。

 俺の目的は、この世界の物理法則を根底から覆したあの『公理の構築者(アクシオム・ビルダー)』たちが遺した、禁断のデータ。


 その時。

 俺の知覚が、この絶対的な静寂と闇の中で、あり得ないはずの『ノイズ』を検知した。


 (……なんだ?)


 書庫のさらに最深部。

 山と積まれた古文書のその影。 そこに一つのあり得ない光が灯っていた。


 それは魔術的な光ではない。 極めて原始的な燃焼による光。


 ――ランタンの灯りだった。


 (……侵入者か?俺以外の?いや、違う。この個体のパラメータは、脅威を示していない)


 俺は音もなくその光へと近づいていく。そして俺はその光景を観測した。


 ランタンの灯りが照らし出す狭い空間。

 そこに山のような古代文献に囲まれ、床に座り込み、一心不乱に何かを羊皮紙に書き写している一人の少女の姿があった。


 粗末な、しかし清潔なアカデミーの制服。

 顔の半分を覆うほど大きな丸い眼鏡。


 彼女は俺の存在にまったく気づくことなく、まるでこの世界の全てから取り残されたかのように、ただひたすらに、禁断の知識を写し続けていた。


 (彼女の目的は俺と同じ……『知識の探求』。このシステムの規則を破ってまで、ここにアクセスしている。……興味深い(・・・・)サンプルだ)


 俺がこの世界で初めて出会う『同類』だった。

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