第二の課題:盾
「……い、異端だ……」
試験官の一人が絞り出したその言葉は、もはや怒りではなく、自らの秩序が足元から崩されることへの純粋な恐怖に満ちていた。
俺ゼノ・ヴィリジアンが、この旧弊なシステムの信奉者たちに提示した沈黙の解答 ――すなわち、詠唱も魔法陣も介さず、ただ物理法則への直接介入によって蝋燭に火を灯すという現象――は、彼らの脆弱な思考OSが処理できる許容量を完全に超えていた。
試験会場は、理解不能な現象を前にした数百人の受験生のざわめきと、試験官たちの動揺によって、混沌としたノイズの海と化していた。
(……予測通りの結果だ。このシステムは、未知のデータに対して、それを解析し理解するのではなく、『エラー』として分類し、隔離することを選択した)
あの親族の集いでレオンハルトの『憧れ』を破壊し、『翠眼の魔女』の烙印を押された時と全く同じ反応を、このアカデミーという名の思想的牢獄の中心で観測していた。
筆頭試験官の顔が恐怖から、今度は屈辱と憎悪の暗い色へと変わっていく。彼は俺の『最適化された解答』を、自らの権威に対する公然たる挑戦であり、神聖なる教義への冒涜として認識したのだ。
彼が自らの秩序を取り戻すために、俺という『バグ』を断罪する言葉を叫ぼうとした、その時。
「静粛に!」
別の上級試験官が、魔力で増幅させた声で会場の混乱を強引に鎮圧した。
「……第一の課題は終了とする。これより直ちに第二の課題へと移行する!」
その宣言は、俺が引き起こしたこの異常事態をこれ以上長引かせたくないという組織防衛本能の表れだった。彼らは俺が蝋燭に火を灯した現象を『解明』するのではなく、『無視』することを選んだのだ。
そして彼らは、次の課題こそがこの異端な少女の化けの皮を剥がしてくれるだろうと、心の底で期待していた。
第一の課題が、静的な魔力の『発生』を問うものだったとすれば。
第二の課題は、動的な魔力の『制御』を問うものだった。
「第二課題は、『魔力障壁』による防御だ!」
筆頭試験官が、今度こそこの異端者を排除できるという確信を声に滲ませて高らかに告げた。
「諸君らの目の前に設置された『魔力発射装置』から、標準化された威力の光弾が射出される。諸君らはアカデミーが定める正統な詠唱を用い、『標準魔力障壁』を構築し、これを完全に防ぎきること!」
その言葉に、今度は受験生たちの間に安堵ではなく明確な緊張が走った。
蝋燭への点火とは訳が違う。動的なエネルギーの塊を自らの魔力で受け止める。それは魔力制御の精度と、何よりも術者の純粋な魔力量が問われる極めて実践的な試験だ。
俺は、その課題の内容を冷静に分析していた。
(……光弾。すなわち魔素を高密度に圧縮し、指向性を持たせて射出する運動エネルギーの塊。それを、より大きなエネルギーで構築した『壁』で受け止めろ、と)
俺の思考――桐山徹の物理学者としての思考OSは、その課題設定の根本的な非効率性に、ある種の知的嫌悪感すら覚えていた。
(……エネルギーの塊を、より大きなエネルギーの壁で受け止めるなど愚の骨頂だ)
彼らの思考はあまりにも直線的で原始的だ。
飛んでくる石をより分厚い板で受け止める。ただそれだけ。
なぜ、その石の軌道を変えるという発想に至らない?
試験が開始された。
受験生たちは今度こそ落第するわけにはいかないと、必死の形相で詠唱を開始する。
「おお、不敗の太陽よ! 我が身を護る、黄金の盾となれ!」
あちこちで太陽賛歌の防御術式が起動する。
彼らの前に淡い黄金色の六角形の障壁が次々と展開されていく。
試験官の合図と共に魔力発射装置から光弾が射出された。
バスケットボール大の白く輝くエネルギーの塊が、唸りを上げて障壁に激突する。
バキィン! という甲高い音と共に障壁が蜘蛛の巣状にひび割れた。
「ぐっ……!」
詠唱を続けていた学生が、その衝撃に耐えきれず後ろへ吹き飛ばされる。
次の学生。
ガシャァン! 障壁は光弾の運動エネルギーに耐えきれず、光の粒子となって砕け散った。
「……失格!」
試験官の非情な声が響く。
会場は阿鼻叫喚の様相を呈し始めていた。
この世界の魔術師にとって、障壁の展開と維持は最も魔力消費が激しく、そして最も制御が難しい技術の一つなのだ。
俺は、その光景を冷静にスキャンしていた。
(……観測を開始。光弾の射出初速は秒速約50メートル。質量は魔素の密度から換算して約1.2キログラムと推定。そこから導き出される運動エネルギーは……なるほど。彼らが展開している『標準魔力障壁』の許容量の実に90%に迫る数値だ。意図的にギリギリの負荷をかけているのか)
この試験の目的は防御の成功ではない。
術者を極限状態に追い込み、そのプレッシャーの中でいかに教義通りの完璧な『詠唱』と『魔力制御』を維持できるかを試す、一種のストレステストだ。
そして、ついに俺の順番が回ってきた。
「次! ゼノ・ヴィリジアン!」
その名が呼ばれた瞬間、あれほど騒がしかった会場が再び水を打ったように静まり返った。
数百の視線が好奇と恐怖と、そして嘲笑の入り混じった複雑な色を帯びて俺に突き刺さる。
(……面白い。第一の課題で俺が提示した『沈黙の解答』は、彼らにとってはただの『偶然』か、あるいは点火にしか使えない『奇術』として処理されたらしい。彼らは今、こう期待しているのだ。防御というより高度な術式において、この異端者は何もできずに打ちのめされるだろう、と)
筆頭試験官の目が冷たく俺を射抜いていた。
「……どうした、ヴィリジアン家の者。今度の課題は沈黙では解決できんぞ。正統なる太陽賛歌の詠唱を今すぐ開始しろ!」
俺は、その命令を無視した。
俺は演台の前に静かに立ち、ただ目の前にある魔力発射装置を真っ直ぐに見据えるだけだった。
詠唱はしない。
魔力障壁も、展開しない。
「……何を愚弄している! 詠唱の意思無しとみなし、失格と……!」
「失格ではありません」
俺は、その試験官の言葉を静かに、しかしはっきりと遮った。
「私はあなた方が提示した課題を、俺の理論に基づきより効率的に解決するだけです。……射出してください」
俺のその言葉は、もはや狂気の沙汰としか彼らには聞こえなかっただろう。
筆頭試験官は怒りに顔を紫に変え、わなわなと震えながら射出担当の試験官に叫んだ。
「……やれ! 射出だ! あの異端者に、神の教えに背く愚か者の末路をその身に刻み込んでやれ!」
合図と共に魔力発射装置が唸りを上げた。
白い光弾が、圧縮されたエネルギーの咆哮と共に俺の顔面めがけて射出される。
他の受験生たちが思わず目を閉じた。
試験官たちは異端者がその傲慢さの代償を払う瞬間を、歪んだ期待を込めて見つめていた。
だが、俺は動かない。
俺の思考は、そのコンマ数秒の世界でこの世界の誰よりも高速で冷徹な計算を実行していた。
(ターゲット、ロックオン。運動エネルギー、算出完了。必要なのは障壁による『停止』ではない。最小限のエネルギー介入による『軌道の変更』だ)
俺の翠眼には、飛来する光弾がスローモーションで迫ってくるのが見えていた。
(……実行する。ベクトル制御)
俺のオドが微かに脈動した。
詠唱も、魔法陣も、黄金色の光も、何もない。
俺の意識が、俺と光弾の中間に位置する何もない空間の一点に集中する。
(……アクセス開始。対象空間:X座標3.14、Y座標1.59、Z座標2.65。目標:対象空間の魔素密度を局所的に増大させ、空間の屈折率を0.03%だけ、0.01秒間のみ強制的に変更する)
俺の思考そのものが、この世界の物理法則を書き換えるコマンドとなった。
次の瞬間。
飛来した光弾は、俺が設定したその何もない空間を通過した。
そして、まるで水の中に入った光が折れ曲がるように。
その軌道を滑らかに、そして僅かに逸らした。
それは障壁に激突するような派手な現象ではなかった。
誰の目にも、ただ光弾が勝手に逸れていったようにしか見えなかった。
シュッ、という静かな風切り音を残して、光弾は俺の右肩の数センチ横をすり抜け、背後の壁に突き刺さった。
ドン、という遅れた衝撃音が死んだように静まり返った試験会場に響き渡った。
数秒間の完全な沈黙。
受験生たちは何が起こったのか理解できず、ただ呆然と立ち尽くしている。
「……え?」
「……よ、避けた?」
「いや、あの人、一歩も動いていない……」
「……こ、故障? 装置の故障よ……」
彼らにとって、それは『あり得ない偶然』あるいは『機械の故障』としてしか処理できなかった。
だが、試験官たちは違った。
彼らはその道のプロだ。
筆頭試験官の顔から血の気が引いていた。
「……ば、馬鹿な。今のは……偶然ではない。魔力発射装置は完璧に機能していた。ならば、なぜ……」
彼は俺がただの一歩も動かず、指一本動かさず、詠唱もせず、防御もせず、しかし完璧に『無傷』で立っているという、自らの常識では処理不可能な現実を前にわなわなと震えていた。
俺は、その混沌の中心でただ一人、冷徹な分析を完了させていた。
(……使用エネルギー、算出完了。彼らが『標準魔力障壁』の展開・維持に消費したエネルギーを100と仮定した場合、俺が今しがた『ベクトル制御』で行った空間屈折率の局所的変更に要したエネルギーは、わずか0.012。驚くべきコストパフォーマンスだ)
(彼らの魔法はあまりにもエネルギー効率という概念が欠如している。運動ベクトルの向きをわずかに変えてやるだけで、結果は同じだというのに)
俺はこのシステムの旧弊な代弁者である筆頭試験官へと視線を戻し、静かに告げた。
「……課題は完了しました。光弾は私に命中していません。この結果を、どう評価しますか?」
俺のその問いは、彼らの常識と権威に対する二度目の、そして決定的な挑戦状となった。




