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異端賢者の魔導原論  作者: 杜陽月
揺り籠の中の観測者

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音という名の情報

 揺り籠の中の観測は限界に達しつつあった。


 俺の知覚は、この世界の物理法則の根幹をなす魔素(エーテル)の存在を明確に捉え、その挙動を記述するための基礎的な方程式を頭脳の中に構築し終えていた。

 だが、理論は検証されて初めて科学となる。

 この赤子の身体では観測できる物理現象も実行可能な実験も、あまりに限定的すぎた。


 探求は停滞していた。


 その停滞を打ち破ったのは、俺がこれまでノイズとしてフィルタリングし続けてきた一つの情報……『音』だった。


 その日、俺は揺り籠の中で意識を半ばスリープモードに移行させながら、二つの音源から発せられる複雑な音波の干渉パターンを観測していた。

 音源は父サイラス(・・・・)と母ヘレナ(・・・)だ。


 彼らは俺の処遇について議論しているらしかった。


「……やはり、あの子の才能は異常だ。常軌を逸している。このままではいずれヴィリジアン家の手に余る。太陽神ソル・インウィクトゥスの教えに背く、異端の道へと進みかねん」


 父の音声データ。周波数は低く、振幅には不規則な揺らぎが多い。

 彼の感情パラメータ……『恐怖』と『不安』がその波形を歪ませている。


「あなた。それはあの子の才能を、我々の小さな物差しで測ろうとするからですよ。あの子はヴィリジアン家の跡取りとして最高の教育を受けるべきです。ですが、その器は既存の教育という枠には収まらないでしょう」


 母の音声データ。周波数は安定し、波形は常に冷静さを保っている。

 彼女の思考は感情というノイズに汚染されていない。合理的で、常に最適解を模索している。


 これまで俺は彼らの会話を、意味のない音の羅列として処理してきた。

 鳥のさえずりや風の音と同じ、ただの環境音だ。


 だが、そのとき俺の脳はある重大なパターンを発見した。


(……待て。この音の波形……ランダムではない。特定の音の組み合わせが繰り返し出現している。そして、そのパターンが出現するとき、彼らのオドの流れ……感情パラメータに明確な相関関係が見られる)


 例えば、『ゼノ(・・)』という音のパターン。

 この音波が観測されるとき、彼らの意識は必ず俺という存在に向けられる。


 例えば、『異端』という音のパターン。

 この音波が観測されるとき、父のオドには必ず『恐怖』のパラメータが急上昇する。


(……なるほど。これは……言語か)


 雷に打たれたかのような衝撃だった。


 俺はあまりに初歩的な可能性を見落としていたのだ。


(この世界の人間はこうやって情報を交換するのか。音の波形に特定の意味……情報をエンコードし、それを互いにデコードし合うことで意思疎通を図る。なんと非効率なシステムだ)


 思考による直接的な情報伝達に比べ、音声言語はあまりに冗長でエラーが多く、伝達できる情報量も少ない。

 おまけに感情という名のノイズによって、その意味は容易に歪められてしまう。


 だが、それでも。


(……解析する価値はある)


 俺は思考の全てを、言語という新しい解析対象へと注ぎ込んだ。

 両親の会話、侍女たちの噂話、庭師の鼻歌。屋敷の中で交わされる全ての音の波形をデータとして収集し、その構造を分析する。

 音の最小単位である『音素』を特定し、それが組み合わさって『単語』という情報パッケージを形成するルールを解明する。

 そして単語が連なることで、より複雑な『文』という名のアルゴリズムが構築される文法体系を逆アセンブルしていく。


 それは揺り籠の中で行われた、最も困難で最もエキサイティングなハッキングだった。


 数ヶ月後、俺はこの世界の言語体系のほぼ完全な解析を終えていた。


 そして俺は気づいた。

 彼らの会話の中に、俺がこれまで観測してきた物理現象とは全く異なる、もう一つの『法則』が存在することに。


「ヴィリジアン家の『名誉』のために」

「貴族としての『義務』を果たさねば」

「侍女としての『分際』をわきまえなさい」


 名誉。義務。分際。

 これらの単語は物理的な実体を伴わない。だが、この世界の人間たちの行動を極めて強力に規定している。


 それはまるで重力や電磁気力のように、彼らの社会というシステムを支配する見えざる力場だった。


(なるほど。この世界には二つのOSが存在するのか。一つは魔素(エーテル)と因果律によって支配される物理世界のOS。そしてもう一つは、『常識』や『伝統』、『身分』といった非合理的なルールセットによって構築された、社会という名のOSだ)


 そして俺は理解した。

 俺がこれまで感じてきた息苦しさの正体を。

 父の恐怖も母の打算も、俺がこの身体に囚われているという物理的な不自由さも、全てはこの社会というOSが俺という存在を『バグ』として認識しているが故の、システム的なエラーなのだと。


(面白い。実に面白い)


 俺の探求の対象は飛躍的に拡大した。

 世界の物理法則を解き明かすだけでは不十分だ。

 この非効率でバグだらけの社会というOSもまた、俺が解析し、ハッキングし、そして再定義すべき壮大な研究対象なのだ。


(彼らの会話から、この世界の『常識』という名のOSをハッキングしてやる)


 揺り籠の中で俺は新たな決意を固めた。

 俺はただの物理学者ではない。

 この世界の全ての法則を解き明かす、唯一の観測者となるのだ。


 そのための第一歩として、俺は自らの発声器官を制御し、この世界の言語体系に準拠した最初の音声データを出力した。


「……あー」


 それはまだ意味をなさない、ただの音の羅列。

 だが、俺にとってはこの非効率な世界への最初の宣戦布告だった。

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