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異端賢者の魔導原論  作者: 杜陽月
入学試験と三つの邂逅

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沈黙の解答

「そこの女学生! ヴィリジアン家の者だな! なぜ詠唱(チャント)を始めない! 課題の意味が理解できないのか!」


 筆頭試験官の怒声が、実技試験場の張り詰めた空気の中で異様なほどクリアに響き渡った。


 その声を合図にしたかのように、それまで必死に詠唱 を続けていた他の受験生たちの集中が途切れた。数百の視線が、まるで異物でも見るかのように、ただ一人、演台の前に静かに佇む銀髪翠眼の少女――俺、ゼノ・ヴィリジアンへと突き刺さる。


 彼らの詠唱 が途切れたことで、試験場を支配していた不協和音のような雑音が消え、代わりに奇妙な静寂が訪れた。あちこちで、かろうじて点火に成功していた不安定な炎が、ふっ、と力なく消えていく。


 俺は、この旧弊なシステム の代弁者である試験官の、その怒りに満ちた顔を真っ直ぐに見据えた 。


 俺の思考――桐山徹の演算能力は、彼の問いかけに含まれる複数の論理的誤謬を即座に特定していた。 (……第一に、俺は『詠唱 を始めていない』のではない。『詠唱 という非効率なプロセスを、意図的に排除した』のだ。第二に、『課題の意味を理解していない』のではない。むしろ、この世界の誰よりも深く、その根源的な物理法則のレベルで理解している。彼の問いは、前提条件そのものが間違っている)


 俺は、彼に言葉で答えることを選択しなかった。

 このシステムの信奉者に対し、俺の言語――『魔法物理学』 ――はコンパイルできない 。彼らが理解できるのは、彼らの常識という名の脆弱なOS でも処理できる、絶対的な『結果』だけだ。


 俺はゆっくりと視線を試験官から外し、目の前にある演台の上の、真鍮の燭台へと移した 。


 まだ火の灯っていない、一本の蝋燭。


 その俺の沈黙の解答に、試験官の怒りは頂点に達したようだった。


「……貴様! アカデミーの権威と、神聖なる太陽賛歌ソーラー・カンティクル を愚弄するか!」


 彼が再び何事かを叫ぼうとした、その瞬間。


 俺は、実行した。


 詠唱はない 。

 この世界の魔術師が依存する、あの冗長でエラーの多い音声コマンド は、俺の理論においては不要なノイズだ。


 魔法陣もない。

 魔素エーテル の流れを補助するためだけの、非効率な外部インターフェースも必要ない。


 俺はただ、蝋燭を見つめる 。

 だが俺の翠眼(すいがん) には、彼らが見ているようなただの蝋燭は映っていない。


(……スキャン、開始。対象:パラフィン繊維にて構成された蝋燭の芯。周囲の大気組成、酸素濃度20.8%。現在温度、摂氏24度。発火点、摂氏約250度)


 俺の思考OSが、燃焼という物理現象に必要な全てのパラメータを瞬時にスキャンする。


(……自らの魂の設計図、オド にアクセス。これより世界の物理法則OSに対し直接コマンドを実行する)


 俺の意識が、この15歳の少女の身体という脆弱な器の奥底にある34年分の知性が宿る魂の核へと接続される。


(……ターゲット、蝋燭の芯先端、直径0.5ミリメートルの領域。対象領域内の魔素エーテル に対し、俺のオドから直接特定の周波数による振動を強制的に与える。目的、対象領域の分子運動エネルギーを発火点である摂氏250度を超えるまで局所的かつ急速に上昇させる)


 俺の思考そのものが、この世界の物理法則を書き換える究極のコマンドとなった。


 次の瞬間。


 音は、なかった 。

 魔力が励起する甲高い音も、炎が空気を焦がす音も。


 光も、なかった。

 彼らが信奉する太陽賛歌ソーラー・カンティクル 特有の、あの儀式的な黄金色の輝きも。


 ただ、ふっ、と。

 まるで最初からそこに存在していたかのように。


 蝋燭の芯の先端に、小さな、しかし完璧な白金色の炎が灯った。


 それは、他の受験生たちが必死に生み出そうとしていた、空気の対流に煽られて揺らめくような「生き物」としての炎ではなかった。

 まるで物理法則の標本のように、一切の揺らぎも一切の音も立てずただ静かに、そして完璧に安定した輝きを放ち続けていた 。


 それは、燃焼という現象の、純粋な『解』だった。


 その完璧な静寂が、試験場を支配していた張り詰めた空気を逆に切り裂いた。


 最初に異変に気づいたのは、俺の周囲にいた受験生たちだった。

 彼らの詠唱(チャント)が、一人、また一人と途切れていく。


「……え?」 「……うそ……」 「……いつの間に……」


 ざわめきが、まるでさざ波のように広がっていく 。


「おい、見たか? 今……」 「何も見えなかった。魔法陣も、魔力の光も……」 「詠唱……? 彼女、一言も発していないわ……」


 そのざわめきは、ついに試験官たちの耳にも届いた。  俺を断罪しようとしていた筆頭試験官が、その言葉を途中で飲み込み、俺の目の前にある燭台に視線を落とした。


 そして、彼の時間が、止まった。


 彼の顔が、怒りの赤から、驚愕の青を通り越し、最終的に理解不能な現象を前にした純粋な困惑の白へと変わっていく。


「……な……」


 彼は、まるで幽霊でも見たかのように、その完璧に安定した炎と、俺の無表情な顔とを、何度も交互に見比べた。


「……あり得ない。無詠唱(サイレント・チャント)だと? この歳で? いや、違う……あれは、無詠唱(サイレント・チャント)特有の魔力の高まりさえもなかった。では、一体……」


 試験官たちが動揺し、互いに顔を見合わせ始める。

 彼らの思考OSが、自らのデータベースに存在しない未知のエラーを前に、完全にフリーズしている 。


 俺は、その混沌とした人間模様を冷静に観測しながら、内心で冷徹な分析を完了させていた。


(……なぜ驚く? 燃焼(・・)という現象は、可燃物、酸素、そして発火点以上の温度という三つのパラメータが揃えば、必然的に発生する。詠唱という非効率な儀式は、このプロセスにおいて全く不要なノイズだ)


 俺の思考は、彼らの混乱の根源を正確に突き止めていた。


(……彼らは、結果ではなく、プロセスそのものを神聖視しているのか)


 そうだ。

 彼らにとって、蝋燭に火が灯るという『結果』は二の次なのだ。

 神聖なる太陽賛歌ソーラー・カンティクル を正しく唱えるという『プロセス』こそが、彼らの信仰であり、彼らの世界の全てなのだ。


 俺が今しがた行った行為は、彼らの信仰に対する、最も静かで、最も残酷な冒涜に他ならなかった。


 筆頭試験官が、震える指を俺に向けた。


「……き、貴様……! 今、何をした! それは、アカデミーの教義に反する……!」


 その言葉は、もはや怒りではなく、自らの秩序が足元から崩されることへの、純粋な恐怖に満ちていた。


 俺は、その恐怖に満ちた顔を静かに見上げ、この世界に来て初めて、公の場で、自らの『理論』を口にした。


「……私は、課題を実行しました」


 その声は、15歳の少女のものとは思えないほどに、冷たく、平坦だった。


「蝋燭は、灯っています。あなたがたが神聖視する『プロセス』は、この物理現象を発生させるための、数ある選択肢の一つに過ぎません。そして、それは、極めて非効率で、冗長な選択肢です。私は、より最適化された解答を提示した。ただ、それだけのことです」


 静寂。


 もし試験官の怒声が張り詰めた空気だったとすれば、俺のこの言葉は、全ての空気が抜き去られた真空だった。


 俺の完璧な論理は、彼らの非合理的な信仰を、一片の情けもなく断罪した。


 試験官の顔が、恐怖から、今度は屈辱と憎悪の暗い色へと変わっていく。


「……い、異端だ……」


 誰かが、そう呟いた。


 それは、8年前にあの親族の集いで俺が浴びせられた、『翠眼の魔女』 という言葉と、全く同じ響きを持っていた。


(……予測通りの結果だ。このシステムは、未知のデータに対して、それを解析し理解するのではなく、『エラー』として分類し、隔離することを選択した)


 俺の、この思想的牢獄における戦いは、今、静かに火蓋を切られた。

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