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異端賢者の魔導原論  作者: 杜陽月
入学試験と三つの邂逅

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象牙の塔の門

 ソラリア魔術アカデミー。


 それが、俺という名の『問題』に対する、ヴィリジアン家の合理的な解だった 。


 7歳で「翠眼の魔女」の烙印を押されたあの日 。父サイラスの恐怖と拒絶 、そして母ヘレナの冷徹な計算によって、俺の運命は決定づけられた 。


 それから、8年。


 俺、ゼノ・ヴィリジアンは15歳になった 。


 あのヴィリジアン邸という名の、最初の『知的な牢獄』で過ごした歳月は、決して無駄ではなかった 。


 表向きは完璧な淑女を演じ、クレメント・マリウスからアカデミーの「常識」という名の旧世界のOSの仕様書を徹底的に吸収した 。彼はもはや『理解者』ではなく、俺の知性を恐れる忠実な『監視役』でしかなかったが 、その彼が持つデータベースは利用価値が高かった。


 そして夜。夜は俺の本当の時間だった。


 俺の唯一の相棒であり、この世界における最強の『社会的インターフェース』であるフリント・ロック 。彼が煤壁通(すすかべどお)りの闇のネットワークを駆使して調達してくる禁書や古代文明の遺物を、俺たちの秘密基地である時計塔で解析し続けた 。


 俺の『魔法物理学』は、この世界の誰も知らない次元へと、爆発的に深化していた 。


 そして今日、俺はヴィリジアン邸という『仮の鳥籠』から、ソラリア魔術アカデミーという、より広大で、より強固な、本物の『鳥籠』へと移送される 。


 ヴィリジアン家の馬車を降りた瞬間、春の喧騒が俺の感覚器を飽和させた。


 空気を震わせるのは、何百という人間の声。期待に上擦った若者の声、不安げに我が子に最後の注意を与える母親の声、そして自らの家門の権勢を誇示するかのように朗々と響く父親たちの声。


 目の前には、天を突くような二本の尖塔に挟まれた、巨大な門がそびえ立っていた。


 ソラリア魔術アカデミーの正門。


 磨き上げられた純白の大理石で構築されたそれは、春の柔らかな陽光を反射し、まるでそれ自体が光を放っているかのように神々しく輝いている。


(……なるほど。ここがアカデミーか)


 俺、桐山徹の思考が、目の前の光景を冷静にスキャンし始める。


(建築様式は、被験者に畏怖の念を抱かせ、システムの権威に服従させることを目的として設計されている。極めて非合理的な、思想的牢獄だ)


 俺の分析は、単なる比喩ではない。


 あの巨大なアーチ構造。荷重の分散が全く考慮されていない。あの高さを維持するためだけに、見えない部分に無駄な量の鉄骨と魔術的な補強が施されているはずだ。全ては、この門をくぐる者に、自らの小ささとシステムの偉大さを物理的に刷り込むため。


 壁面にびっしりと刻まれた幾何学模様。あれは太陽神ソル・インウィクトゥスの神聖な紋章であると同時に 、この施設全体を覆う広域監視網のターミナルでもあるのだろう。


 非効率だ。あまりにも非効率極まりない。


 だが、その非効率な設計思想こそが、このアカデミーが「何を目的として」存在するのかを雄弁に物語っていた。


 ここは真理を探求する場所ではない。


 ここは、ソラリア正教という巨大なシステムが定義した『真理』を学び、それを疑うことなく受け入れ、システムの維持に貢献する従順な歯車を量産するための、巨大な工場だ。


 俺は、その人間模様という名の複雑なデータストリームへと視線を移した 。


 門の前には、高位貴族のものと思わしき豪奢な馬車が何台も連なり、新たな『製品』を搬入している 。


 涙を浮かべて娘の手を握りしめる母親。 (……感情パラメータ:不安、期待。娘という資産の初期投資フェーズが完了し、次のステージへと送り出す際の典型的な情緒不安定)


 尊大な態度で息子に何事かを言い聞かせる父親。 (……行動パターン:社会的地位の再確認と、派閥内での生存戦略の伝達。非効率な口頭伝承だ。マニュアル化すればいいものを)


 そして、希望と不安、あるいは傲慢なまでの特権意識に顔を輝かせる新入生たち。 (……この中で、何人がこのシステムの非合理性に気づく? おそらく、一人もいない。彼らはこの『牢獄』を、栄光ある『象牙の塔』だと信じて疑っていないのだから)


 彼らの熱に浮かされたような喧騒の中で、俺の存在は異質だった。


 銀髪翠眼の15歳の少女 。侍女のエリアナが、俺の社会的体裁を維持するためだけに付き従っているが、そこに家族の情愛という名の非合理的なノイズは存在しない。


 母ヘレナは、少し離れた場所に停めた馬車の中から、この光景を冷静に眺めているはずだ。彼女にとって、今日は娘の晴れ舞台などではない。自らが8年間かけて磨き上げた『資産』を、より高い価値がつく市場へと出荷する、重要な取引の初日だ 。


 父サイラスは、来ていない。彼は、自らが産み出してしまった『怪物』が、ついに公の場に解き放たれるこの日を、書斎で恐怖に震えながら迎えていることだろう 。


 俺は、その誰の期待にも応えるつもりはなかった。


 周囲の視線が、俺の異質な存在に気づき始める。


「……あれを見ろ。あの銀髪……」

「……ヴィリジアン家の……。まさか、あの『翠眼の魔女』か?」

「噂は本当だったのか。あんな美しい方が……」


 8年前に俺が引き起こしたレオンハルト事件 。それは貴族社会という閉鎖的なネットワークの中で、興味深いゴシップとして今なお消費され続けているらしい。


 彼らの視線、囁き声。それらが俺の感覚器に入力されるが、俺の思考OSはそれを意味のある情報として処理しない。全て、無視すべきノイズだ。


 俺の視線は、目の前の巨大な門でも、愚かな人間模様でもない。


 その遥か先。アカデミーの広大な敷地の中央にそびえ立つ、巨大な時計塔――否、あれは時計塔の形をした『図書館』だ。


 クレメントが恐怖に震えながら、その存在を俺に教えてくれた 。


 帝国の知の全てが集積された、巨大なデータベース。


 そして、その最深部には、ソラリア正教が異端として断罪し、その存在そのものを歴史から抹消しようとした『禁書』たちが眠っているという 。


(……だが、収集できるデータの量は、あの屋敷とは比較にならない)


 そうだ。


 彼らが何と呼ぼうと構わない。思想的牢獄だろうと、象牙の塔だろうと。


 俺にとって、ここはヴィリジアン邸の書斎の何千倍もの情報がアーカイブされた、最高の『実験室』に過ぎない。


 俺の目的はただ一つ。


 この世界の物理法則を支配する、根源的なソースコード。  父が恐れ、母が利用しようとし、クレメントが理解しながらも背けた、あの『真理』。


 その全てを解析し、この手で証明することだ。


 やがて、荘厳な鐘の音が鳴り響き、重厚な門がゆっくりと開き始めた。


 新入生たちの歓声が上がる。


 俺は、その熱狂の奔流に逆らうことなく、ただ一人、冷静な観測者として、ゆっくりと『象牙の塔』の門をくぐった。


 俺の知性が、この世界の旧弊な秩序と初めて公然と衝突する、新たな実験のフェーズが今、始まった。

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