家族会議
ヴィリジアン邸の大広間を隔てる重厚な樫の扉が俺の背後で閉ざされた。
その音はまるで断頭台の刃が落ちる音のように、この静かな廊下に響き渡った。
先ほどまで俺の感覚器を飽和させていた人々の喧騒、弦楽四重奏の旋律、混沌とした感情のノイズ。その全てがこの一枚の扉によって完全に遮断される。
世界は再び静寂を取り戻した。
だがそれは俺が愛する書斎の知的な静寂ではない。墓場のような冷たく、そして重い沈黙だった。
父サイラス・ヴィリジアンは一言も発することなく、俺の小さな手を強く握りしめたまま長い廊下を歩き続ける。
その握力は父親が娘を導くための温かいものではない。
異端審問官が罪人の腕を掴む無慈悲な拘束だった。
俺の思考OSは彼の生理学的パラメータを冷静にスキャンしていた。
(個体名:父。感情パラメータ:『恐怖』の閾値を超えシステム全体に致命的なエラーを伝播させている。心拍数、上昇。血圧、上昇。だがその表情筋の微細な動きからは恐怖よりも、それを理性で押し殺そうとする強固な『意志』の力が観測される。彼はもはや父親ではない。ヴィリジアン家の当主という名の社会システム防衛プログラムとして機能している)
俺は父に引きずられるまま、その視線の刃の中をただ無表情で歩いた。
俺の内なる思考OSはこの一連の事象を最後の最後まで、冷静に分析し続けていた。
(……システムのフリーズを確認。俺の行動は彼らの許容範囲を逸脱したらしい。…面倒なことになった。この物理的・社会的隔離は俺の今後のデータ収集計画に深刻な遅延をもたらすだろう)
面倒なことになった。
その思考はどこまでも冷徹で合理的だった。
だがその思考の最も深い層であの『痛み』という名のバグが再び、静かにそして確実にその存在を主張していた。
父に握られたこの小さな手が痛い。
それは物理的な痛みではない。
俺がこの世界で初めて経験する拒絶という名の心の痛みだったのかもしれない。
俺たちが連れてこられたのは俺の自室ではなかった。
父の書斎。
かつて俺がこの世界の知識という名の宝の山を初めて発見したあの場所。
だが今のこの部屋は知的な興奮ではなく、冷たい審判の匂いに満ちていた。
父は俺の手を乱暴に離すと、部屋の中央に俺を突き飛ばすようにして立たせた。
そして自らは暖炉の前に立ち、その背中を俺に向けたまま重い沈黙を続けた。
やがて書斎の扉が静かに開き、母ヘレナ・ヴィリジアンが入ってくる。
彼女は扇でその口元を隠し、その表情を誰にも読み取らせてはいなかった。
だがその瞳だけがこの混沌とした状況の中で唯一、氷のように冷静だった。
彼女は恐怖しても絶望してもいない。
ただこの状況――自らが仕掛けた『戦場』が最悪の形でコントロール不能に陥ったことに対する、冷徹な損害計算を行っているだけだ。
彼女は父の隣に立つとその扇を静かに閉じた。
パチンという乾いた音がこの息の詰まるような静寂の中で、まるで裁判の開始を告げる小槌の音のように響き渡った。
「……ゼノ。あなたは一度自室でお待ちください」
母の感情を一切含まない声が俺にそう命じた。
俺は無言で頷くと、言われた通りに書斎を出た。
だが俺は自室には戻らない。
俺は書斎の扉のすぐ横にある物陰に身を潜め、その聴覚センサーの感度を最大に引き上げた。
これから行われるのは俺の処遇を決定するための最も重要な会議。
その情報を聞き逃すわけにはいかなかった。
「……サイラス!」
俺が部屋を出てすぐ、扉の向こうからこれまで聞いたことのないほどに激昂した父の声が響いてきた。
「見たかヘレナ! あれが我々の娘だというのか!? いや、違う! あれは我々の娘などではない! あれは……あれは化け物だ!」
その声は恐怖と怒りと、そして自らが産み出してしまった存在に対する深い、深い絶望に満ちていた。
「ゲルハルト卿の言う通りだ! あれは魔法ではない! 邪悪な呪いだ! 我々の手には負えない! ヴィリジアン家の、いやこの帝国の秩序を根底から覆しかねない危険すぎる存在だ!」
父の激昂に対し母の声は氷のように冷静だった。
「……落ち着きなさい、あなた。感情的になることは何の解決にもなりません。まずは状況の整理を。ゲルハルト卿はレオンハルト様を連れて既に屋敷を後にしました。他の親族たちも動揺を隠せないまま三々五々帰路についています。パーティーは事実上、崩壊しました」
彼女の言葉は感情を一切含まない、ただの状況報告だった。
「分かっている! だからこそ言っているのだ! このままではヴィリジアン家は終わりだ! 『翠眼の魔女を輩出した呪われた一族』として社交界から完全に抹殺されるぞ! そうなる前に我々自身の手で、あの化け物を……!」
父の言葉がそこで途切れた。
彼が何を言わんとしているのか、俺の思考OSはいくつかの可能性を即座に弾き出す。
処分。あるいは完全な幽閉。
どちらも彼の恐怖という名の感情パラメータに基づけば、極めて合理的な選択肢だ。
だが母はその感情的な結論を、冷徹な論理で一蹴した。
「……だからこそですわ、あなた」
その声は静かだったが、有無を言わせぬ響きを持っていた。
「だからこそあの子をソラリア魔術アカデミーに入れるのです」
沈黙。
父の息を呑む音が扉の隙間から聞こえてきた。
俺の思考OSもまたその予測モデルを逸脱した、あまりにも大胆な提案に一瞬だけフリーズした。
(……アカデミーに? なぜだ。この状況で俺という名の爆弾を帝国の心臓部へと送り込む? 非合理的だ。リスクが高すぎる。……いや、待て。彼女の思考モデルを再計算する。彼女の目的関数は常に『ヴィリジアン家の利益の最大化』と『リスクの最小化』だ。ならばこの提案には俺がまだ気づいていない別の合理性が存在するはずだ)
父が俺の疑問を代弁した。
「……何を言っているのだヘレナ! 正気か!? あのような化け物をアカデミーに? アウグストゥス猊下の、あの『秩序の柱』の目の前に差し出すというのか! あれは我々が管理できるような存在ではないのだぞ!」
「ええ。その通りですわ」
母は静かに、しかしはっきりと父の言葉を肯定した。
「我々には管理できない。だからこそ我々よりも、もっと巨大でもっと強固な『檻』にあの子を預けるのです」
彼女の言葉は冷たい、冷たい響きを持っていた。
「考えてもごらんなさい、あなた。あの子を我々の手で処分する? あるいはこの屋敷の奥深くに幽閉する? どちらも最悪の選択ですわ。処分すれば我々は子殺しの大罪人。幽閉すればいつその力が暴走し我々自身を滅ぼすか分からない時限爆弾を、自らの家に抱え込むことになる。そして何よりもどちらの道を選んだとしても、我々はあの子のその類まれなる才能というヴィリジアン家にとって最大の『資産』を永遠に失うことになる」
資産。
彼女は俺を娘としてではなく、ただの資産として計算している。
その冷徹さに俺はむしろ安堵に似た感情を覚えていた。
感情的なノイズよりも純粋な利害計算の方がよほど信頼できる。
「ですがアカデミーならば話は別です」
母はその冷徹なプレゼンテーションを続けた。
「あそこは帝国の知性の最高学府であると同時に、ソラリア正教の教義によって完璧に支配された思想の坩堝。そしてその頂点に君臨するのが、あのアウグストゥス・セロン猊下ですわ」
彼女の声にはアウグストゥスという名に対する深い、深い計算の色が滲んでいた。
「あの方の『秩序』は絶対です。あの方の『神聖論理学』はいかなる異端の思想をもその論理の刃で断罪する。あの子のその異様な力もアウグストゥス様の『秩序』の前ではただの子供の戯言に過ぎないでしょう。あそこならばあの子の力を正しい方向へ導くか……あるいはその危険な牙を抜き、完全に封じ込めてくれるでしょう」
導くか、封じ込めるか。
どちらに転んでもヴィリジアン家にとってはリスクを外部に委託できる最善の策。
そしてもし万が一、あの子の才能がアウグストゥス猊下に認められ帝国の秩序の中で開花することがあれば、それはヴィリジアン家にとって計り知れない栄光となる。
完璧なリスクヘッジ。
これこそが母ヘレナ・ヴィリジアンという影の戦略家の真骨頂だった。
父は母のその完璧な論理を前に、もはや何も言うことができなかった。
彼の高い『誠実性』はヴィリジアン家の当主として一族の存続を最優先しなければならないと叫んでいる。
彼の高い『神経症傾向』は俺という名の理解不能な恐怖から一刻も早く解放されたいと願っている。
そしてその心の奥底に残る父親としての僅かな『愛情』は、娘を自らの手で処分するという最悪の選択だけは避けたいと懇願している。
母の提案はその全ての矛盾した要求を同時に満たす、唯一のそして悪魔的なまでに合理的な解答だったのだ。
「……分かった。ヘレナ、お前の言う通りにしよう」
父が長い、長い沈黙の末に絞り出したその声は、敗北を認めた将軍のようにひどくかすれていた。
「ゼノは……この娘はアカデミーに入れる。それがヴィリジアン家の決定だ」
扉の向こうで俺の運命が決定された。
俺の知らない場所で、俺の知らない論理によって。
俺はその決定をただのデータとして静かに受信していた。
そして俺の内なる思考OSは、その決定の真の意味を彼らとは全く異なる次元で解析していた。
(……なるほど。俺というバグをより大きなデバッガー(アカデミー)に委託する、と。合理的だ。彼らの思考モデルに基づけば現時点での最適解だろう)
(だが彼らは根本的に間違っている。俺はバグではない。この世界のOSそのものが旧式なのだ)
(そしてアカデミー。アウグストゥス・セロン。そして何よりも……『禁断の書庫』。彼らは俺を檻に閉じ込めるつもりらしいが、その檻こそが俺が最も渇望していた宝の山だということにまだ気づいていない)
やがて書斎の扉が静かに開いた。
出てきた父と母はもはや俺に何の感情的な視線も向けなかった。
ただ父がヴィリジアン家の当主として、その決定事項を俺という名の『問題』に対して事務的に通告しただけだった。
「……ゼノ。お前は15歳になったらソラリア魔術アカデミーに入学してもらう。それまではこの屋敷でクレメント先生の指導の下、勉学に励むように。いいな」
それは問いかけではなかった。
決定事項の伝達だった。
家族という非合理的な関係性はこの夜、完全に終わった。
そして俺と彼らとの間には管理者とその管理対象という、新たなそしてより合理的な関係性が定義されたのだ。
俺は完璧な令嬢の仮面を被り、こくりと無垢に頷いてみせた。
その翠色の瞳の奥で34歳の物理学者が、これから始まる新たな実験――アカデミーという名の巨大なブラックボックス――を前に、獰猛な笑みを浮かべていることをまだ誰も知らなかった。




