沈黙の断罪
俺はその光景を極めて冷静に分析していた。
(……システムのフリーズを確認。俺の行動は彼らの許容範囲を逸脱したらしい。恐怖という感情が個体から個体へと伝播し、システム全体に連鎖的なエラーを引き起こしている。興味深い。パニックの伝播モデルとして極めて良質なデータだ)。
その冷徹な分析の片隅で、俺の論理体系に刻まれた『痛み』という名のバグがじくりと疼いた。
だが今はそれを解析している場合ではない。
この社会実験は俺の予測を遥かに超える危険なフェーズへと移行しつつあった。
静寂を今度こそ明確に引き裂いたのは、怒りに震える声だった。
「……サイラス卿!」
声の主はレオンハルトの父親、ゲルハルト・ファルケン。
彼は床に崩れ落ちたまま虚ろな目で一点を見つめる息子を抱きかかえながら、その顔を憎悪に歪め俺の父を睨みつけていた。
「これは一体どういうことだ! 我が息子はお前の娘に何をされたのだ! あれは魔法ではない! 邪悪な呪いだ! ヴィリジアン家の血にいつから魔女が混じるようになったのだ!」
その言葉は公然たる断罪だった。
ヴィリジアン家の本家の当主に対する分家からの最大限の侮辱。
だがその場にいる誰もがゲルハルトの言葉に暗黙の内に同意していた。
彼らの目には、俺はもはやヴィリジアン家の令嬢ではない。
一族の集いに紛れ込んだ忌まわしき『異物』なのだ。
父サイラス・ヴィリジアンが蒼白な顔で一歩前に出た。
その瞳が俺を捉える。
そこに浮かんでいたのは、かつて俺が二歳の時に書斎で彼に見せたあの恐怖の色だった。だがその色は、より深くそして絶望的に変質していた。
かつてのそれは自らの理解を超えた知性に対する純粋な畏怖だった。
だが今のそれは、自らが産み出してしまった『怪物』に対する純粋で救いようのない恐怖と拒絶。
(……父の感情パラメータをスキャン。『愛情』の信号レベル、著しく低下。『恐怖』の閾値を超えシステム全体に致命的なエラーを伝播させている。彼の思考OSはもはや俺を『娘』としてではなく『脅威』として認識している)。
父は何かを言おうとして唇を震わせた。
弁解か。怒りか。あるいは娘を庇うための父親としての最後の抵抗か。
だが彼の口から言葉が発せられることはなかった。
その彼の肩にそっと白い手が置かれたからだ。
母、ヘレナ・ヴィリジアン。
彼女は扇でその口元を隠し、その表情を誰にも読み取らせてはいなかった。
だがその瞳だけが、この混沌とした状況の中で唯一、氷のように冷静だった。
彼女は恐怖しても絶望してもいない。
ただこの状況――自らが仕掛けた『戦場』が最悪の形でコントロール不能に陥ったことに対する、冷徹な損害計算を行っているだけだ。
彼女の視線が一瞬だけ俺を捉えた。
その視線に込められていたのは叱責でも失望でもない。 (――やりすぎましたね、あなた)
ただそれだけの冷たい事実の確認。
彼女は俺の知性の価値もその危険性も全てを理解した上で、それを制御しようとしていた。だが俺は彼女の制御すらも振り切り暴走した。
この状況は彼女の計算にとっても想定外のエラーだったのだ。
そして広間の隅ではクレメントが両手で顔を覆い、絶望に打ちひしがれていた。
彼の警告が最悪の形で現実のものとなってしまったのだから。
彼は俺の知性の輝きに希望を見出した。だがその光が旧弊な世界を焼き尽くす劫火であることを誰よりも理解していた。
そして今、その劫火は彼の目の前で燃え上がったのだ。
彼の学者の魂はこの光景を前にして完全に沈黙していた。
父は母のその無言の圧力とゲルハルトの憎悪に満ちた視線、そして広間全体を支配する恐怖と敵意の空気の中で、ついに一つの決断を下した。
彼はゆっくりと、まるで死刑執行人が断頭台へと向かうかのような重い足取りで俺の方へと歩み寄ってきた。
広間の人々がモーゼの前の海のように彼のために道を開ける。
彼は俺の目の前で立ち止まった。
そして俺を見下ろした。
その瞳にはもう何の感情も浮かんでいなかった。
愛情も恐怖も葛藤さえも。
ただヴィリジアン家の当主としてこの異常事態を収拾しなければならないという、冷たい、冷たい義務感だけがあった。
彼は何も言わなかった。
俺を叱責することも問い詰めることもしなかった。
ただ静かに俺の小さな手を、その冷たい手で強く握りしめた。
それは父親が娘の手を引く優しいものではない。
異端審問官が罪人の腕を掴む無慈悲な拘束だった。
そして彼は俺を広間の中心から出口へと引きずっていく。
一言も発することなく。
その沈黙こそが何よりも雄弁な断罪の宣告だった。
言葉による叱責ではない。
議論の余地さえない絶対的な社会的『排除』。
俺という存在をこのヴィリジアン一族というシステムから物理的に隔離するという冷徹な決定。
これこそが父サイラス・ヴィリジアンが下した『沈黙の断罪』だった。
人々が俺たちのために道を開ける。
その視線はもはや好奇心さえ含んでいない。
ただ穢れたもの、呪われたものから距離を取ろうとする純粋な忌避。
俺は父に手を引かれるまま、その視線の刃の中をただ無表情で歩いた。
俺は、この一連の事象を最後の最後まで冷静に分析し続けていた。
(……システムのフリーズを確認。俺の行動は彼らの許容範囲を逸脱したらしい。父の感情は『恐怖』の閾値を超えシステム全体に致命的なエラーを伝播させている。…面倒なことになった。この物理的・社会的隔離は俺の今後のデータ収集計画に深刻な遅延をもたらすだろう)。
面倒なことになった。
その思考はどこまでも冷徹で合理的だった。
だがその思考の最も深い層で、あの『痛み』という名のバグが再び、静かにそして確実にその存在を主張していた。
父に握られたこの小さな手が痛い。
それは物理的な痛みではない。
俺がこの世界で初めて経験する、拒絶という名の心の痛みだったのかもしれない。
広間の重厚な扉が俺の背後で、ギィィと音を立てて閉ざされる。
それは俺がこの世界の社交界から完全に追放されたことを告げる断頭台の音だった。
序章のクライマックスはこうして、温かい賞賛の輪から冷たい沈黙の断罪へと一瞬にして転落する、最悪の悲劇によってその幕を閉じたのだった。




