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異端賢者の魔導原論  作者: 杜陽月
最初の異端者

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憧れの死

 レオンハルトは錆びついた人形のように、ゆっくりとその顔を上げた。


 そして初めて、目の前の巨大な光球から俺へとその視線を移した。


 その瞳に浮かんでいたのは、もはや絶望ではなかった。


 絶望というまだ人間的な感情さえも通り越した、純粋で根源的な恐怖。


 それは自らが信じていた世界の法則が目の前で音を立てて崩れ落ち、その瓦礫の下から全く理解不能な異形の神が姿を現したのを目の当たりにした、哀れな信徒の目だった。


 彼が憧れたのは天才だった。


 彼が信じたのは努力だった。


 彼が証明したかったのは自らの価値だった。


 だが今、彼の目の前にいるのは天才などという人間的な尺度で測れる存在ではなかった。


 努力を、価値を、そして世界の法則そのものをただの玩具のように弄び、いとも容易く『再定義』してしまう、何か。


 彼の憧れはその瞬間、完全に死んだ。


 そしてその死体の中から、理解不能な力への純粋な恐怖だけが産声を上げたのだ。


「……あ……あ……」


 彼の唇から意味をなさない喘ぎのような声が漏れた。


 その顔は恐怖で引きつり蒼白になっている。


 そして彼の目の前に浮かんでいたあの巨大な光の球体は、ふっと、まるで最初からそこには何もなかったかのように音もなく消えた。


 彼のオドがその現象を維持するための、意志という名の接続を完全に断ち切ったのだ。


 その光景を観測しながら、俺の精神は、初めて自らの論理体系では説明のつかない致命的なエラーに直面していた。


(なぜ怖がる? 俺はただ非効率な現象をより効率的な形に最適化しただけだ。彼の出した結果を否定したわけではない。むしろ彼の出した結果をより完璧な形へと昇華させてやったはずだ。これは祝福であるべきで、恐怖の対象であるはずがない)


 俺の思考OSが彼の生理学的パラメータをスキャンする。


 心拍数の異常な上昇。呼吸の乱れ。瞳孔の散大。全身の筋肉の硬直。


 それは生命の危機に直面した生物が示す典型的な恐怖反応だった。


 だが、なぜ?


 俺は彼に何の危害も加えていない。


 それどころか彼の努力の先にあった、より美しい『正解』をただ示してやっただけだ。


(違う。俺は君の努力を否定したかったわけじゃない。ただ、もっと美しい『正解』があると教えたかっただけだ。君のその非効率な努力は確かに一つの答えだ。だがその先には、こんなにもエレガントで、こんなにも合理的な別の解答が存在するのだと。その知的興奮を君と共有したかっただけだ)


 そうだ。


 俺は善意のつもりだったのだ。


 クレメントが俺の理論を初めて見た時、恐怖しながらもその美しさに打ち震えたように。


 レオンハルトもまたこの完璧な物理現象を前にして、同じ知的興奮を覚えてくれるはずだと、俺の思考OSはそう予測していた。


 だが、現実は違う。


 彼の瞳は俺を、真理の探求者として見てはいない。


(なぜ伝わらない? なぜそんな目で俺を見るんだ? まるで化け物を見るような目で……)


 その思考は俺の胸の奥に奇妙な痛みをもたらした。


 前世では経験したことのない非合理的な感覚。


 期待が裏切られたことによる失望。


 そしてこの世界に、やはり俺を理解できる知性は存在しないのだという絶対的な孤独感。


 俺の完璧な論理体系に生じた亀裂が、じわりとその傷口を広げていく。


(やめろ)


 その思考は命令ではなかった。


 懇願だった。


 俺の知性が初めて、他者の感情という名の非論理的な暴力の前に悲鳴を上げていた。


 やめろ。そんな目で俺を見るな。


 俺は化け物じゃない。


 ただ真理を知りたいだけの科学者だ。


 その俺の内なる絶叫が、広間の静寂を破ったわけではなかった。


 静寂を破ったのはレオンハルトの父親、ゲルハルト・ファルケンの怒りに震える声だった。


「……レオンハルト! 何をしている! 立て! ファルケン家の男が、みっともない!」


 だが、その叱責はもはや彼の耳には届いていなかった。


 レオンハルトはがくりと膝から崩れ落ち、その場にへたり込んだ。


 その瞳は虚ろで、何も映してはいない。


 彼の魂はその輝きを完全に失っていた。


 その異常な光景に広間の人々はようやく我に返った。


 恐怖は囁き声へと変わる。


「……見たか、今の」

「あれは一体、何の魔法だ……?」

「魔法などではない。あれは呪いだ。あの娘は呪われている」

「翠眼の魔女……」


 その言葉が誰の口から発せられたのかは分からなかった。


 だがその一言はまるで伝染病のように、広間全体へと瞬く間に広がっていった。


 人々はもはやレオンハルトを見ていない。


 彼らの視線はただ一人、その中心に立つ銀髪翠眼の少女へと注がれていた。


 その視線に込められているのはもはや賞賛でも好奇心でもない。


 自らの理解を超えた未知の存在に対する、純粋で根源的な恐怖と、そして排除しようとする明確な敵意だった。


 父サイラスが蒼白な顔で俺を見つめている。その瞳にはかつて俺が二歳の時に見せたあの恐怖の色が、より深く絶望的に浮かんでいた。


 母ヘレナは無表情だった。だがその瞳の奥では、この状況――自らが仕掛けた『戦場』が最悪の形でコントロール不能に陥ったことに対する、冷徹な損害計算が行われているのが分かった。


 そして広間の隅でクレメントが両手で顔を覆い、絶望に打ちひしがれていた。彼の警告が最悪の形で現実のものとなってしまったのだから。


 俺はその全ての視線の中心でただ一人、立ち尽くしていた。


 善意だった。


 ただ真実を教えたかっただけだ。


 だがその善意が、一人の少年の心を完膚なきまでに破壊してしまった。


 その事実は俺の論理体系に、決して修復不可能な致命的なエラーとして深く、深く刻み込まれた。


 それはレオンハルトの心の中で起こった悲劇だった。


 そして同時に、俺の純粋で完璧だったはずの論理の世界が、初めて非合理的な『痛み』によって侵食され始めた始まりの瞬間でもあった。

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