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異端賢者の魔導原論  作者: 杜陽月
最初の異端者

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事象の再定義

 俺は壁際の席からその光景を、ただの観測者として見つめていた。


 賞賛の輪の中心で誇らしげに胸を張り、俺へと挑戦的なまでの視線を向けるレオンハルト・ファルケン。その視線は明確に俺に認められたいと語っていた。


 彼の人生で最も輝かしいその瞬間の全てが、俺という名のたった一人の観測者に捧げられていた。


 俺はその視線をただ無表情のまま受け止めた。


 俺の精神は、その光景を極めて冷静に分析していた。


(……なるほど。この社会的システムにおいて結果の絶対値よりも、そこに至るまでの『努力』というプロセスが評価されるらしい。彼の魔法の出力は依然として俺の最低基準を遥かに下回っている。だが、周囲の個体は彼の年齢と彼が払ったであろう努力という非定量的なパラメータを考慮し、その相対的な『成長率』を高く評価している。非合理的だが興味深い文化だ)


 俺の思考OSはこの社会の新たな法則を一つ学習した。


 だが、物理法則は社会の慣習によって捻じ曲げられることはない。


 俺は彼の魔法を純粋な物理現象として再計算する。


(観測を再開する。対象:レオンハルト・ファルケンによって生成された熱エネルギー体。……詠唱プロトコルの変更を確認。情報伝達効率、推定3%向上。オドからマナへの転写プロセスにおける情報損失率、推定5%改善。結果、出力された熱エネルギー量、前回観測時と比較して12.7%増加。……しかし、彼がこの数日間で費したであろう時間的コスト、肉体的・精神的リソースを考慮すれば、その投資対効果は依然として許容範囲を大幅に下回る)


 俺の思考は冷徹な結論を弾き出す。


 彼は壁に頭を打ち付けるのをやめ、壁に梯子をかけることを覚えた。それは確かに進歩だ。


 だが、俺はその壁そのものを原子レベルで分解し通り抜ける方法を知っている。


 俺と彼との間には依然として絶対的な断絶が存在する。


(……だが、そのプロセス自体が根本的に間違っているのだが)


 クレメントが俺の隣で安堵のため息をついた。


「……良かった。本当に良かった……。彼は自らの力で立ち直ったのですね」


 彼の瞳は教え子の成長を心から喜ぶ、善良な教育者のそれだった。


 彼は俺がこのまま約束通り『普通の子供』を演じきり、この温かい調和を乱さないことを心から願っている。


 だが、その願いは俺の思考OSにインプットされたある一つの絶対的な公理によって無慈悲に棄却された。


(科学者は、観測された誤りを放置してはならない)


 目の前で間違った実験が行われ、その非効率な結果が賞賛されている。


 この状況を俺の知性が許容することは不可能だった。


 クレメントの警告も母ヘレナの命令も、この物理学者としての本能の前では意味をなさない。


 俺は静かに席を立った。


 その俺の唐突な行動に、クレメントが「ゼノ様!?」と狼狽の声を上げる。


 だが、俺は彼に一瞥もくれることなく広間の中央へと、一歩、また一歩と歩みを進めた。


 賞賛の輪の中心にいるレオンハルトへと。


 俺のその小さな姿が人々の視界に入る。


 銀髪翠眼の絶世の美少女。ヴィリジアン家の至宝。


 人々はその天才令嬢が努力の末に成果を出した少年を祝福しに来たのだと、微笑ましい光景を期待して俺のために道を開けた。


 俺はその視線の奔流の中を何の感情も見せずに歩き続けた。


 そして誇らしげな表情で俺を見つめるレオンハルトの目の前で立ち止まった。


 俺は彼が指先に灯すその努力の結晶――ランプの炎ほどの大きさのオレンジ色の火の玉を見上げた。


 そして広間に響き渡る静かな、しかし絶対的な声で告げた。


「その方法は、非効率です」


 瞬間。


 広間の温かい空気は絶対零度まで凍りついた。


 賞賛の声がぴたりと止む。


 人々の笑顔が困惑と、そして不快の色へと変わっていく。


 レオンハルトの誇らしげだった表情が、まるで仮面のように剥がれ落ち、その下から信じられないものを見るような純粋な愕然が姿を現した。


 俺はその全ての反応を無視した。


 俺の目的は社交ではない。


 ただ目の前にある非効率な物理現象を『再定義』することだけだ。


 俺はレオンハルトが灯した火の玉に、そっとその小さな指を触れた。 「きゃっ!」「ゼノ様、おやめなさい!」


 エリアナとレオンハルトの母親の悲鳴が同時に響き渡る。


 だが、遅い。


 俺の指先は既にその炎の根源的な魔法式に直接アクセスしていた。


 詠唱はない。


 ただ俺のオドが既存の魔法式に介入し、そのパラメータをリアルタイムで最適化していく。


(……解析を開始する。対象:レオンハルト・ファルケンによって生成された熱エネルギー体。……魔法式の構造をスキャン。なるほど。彼は俺が教えた『熱は魔素の振動である』という定義を、ただのイメージとしてしか利用できていない。結果、彼の魔法式はエネルギーを浪費するだけの冗長なコードが多すぎる) (……これより事象の再定義を開始する。第一フェーズ:冗長なコマンドを全て削除。第二フェーズ:燃焼効率を最大化するための酸素供給に関する変数を追加。第三フェーズ:プラズマ状態を安定して維持するために必要な魔力の閾値を再計算し、入力値を最適化する) (……これでいい。これがこの現象の『正解』だ)


 俺の思考が結論を弾き出した、その瞬間。


 レオンハルトの指先に灯っていたオレンジ色のランプほどの大きさの炎は、その姿を劇的に変えた。


 それはもはや『炎』ではなかった。


 オレンジ色の光は一瞬で純粋な『白』へと収束し、その大きさはビー玉ほどの小さな球体へと音もなく圧縮された。


 その白い光球は燃えていない。揺らめいてもいない。


 ただそこにあるだけでシャンデリアの光を全て飲み込むほどの圧倒的な光量を放っている。


 それは小さな、小さな太陽だった。


 広間全体がその白い光に照らし出され、影という影がその存在を許されない。


 熱は感じない。


 音もない。


 ただそこにあるだけで世界の物理法則がその一点に捻じ曲げられているかのような、絶対的な存在感。


 人々はその光景を声も出せずに見つめていた。


 それは彼らが知る『魔法』のどのカテゴリーにも属さない未知の現象だったからだ。


 美しい。


 そしてあまりにも、恐ろしい。


 俺はその白い光球から指を離すと、その現象の創造主――いや、ただの最初の観測者に過ぎなかったレオンハルトへと視線を向けた。 「これがあなたの魔法式の最適解です。エネルギー変換効率は98.7%向上。出力は324%増加。そして魔力消費量は67%削減されています。あなたの『努力』は素晴らしい。ですが、そのベクトルが間違っていた。ただそれだけのことです」


 俺は事実だけを告げた。


 科学者としてこれ以上ないほどに誠実な解答を。


 だが、その俺の言葉はレオンハルトの耳には届いていなかった。


 彼はただ自らの指先に輝くあの小さな太陽を見つめていた。


 自らが人生の全てを懸けてようやく灯すことができた、ささやかな炎。


 その炎が目の前の少女のただ一度の指先の接触によって、全く別の神の御業のような現象へと、いとも容易く『再定義』されてしまったその事実を。


 賞賛は消えた。


 誇りも消えた。


 彼の瞳から光という光が急速に失われていく。


 その獅子のような瞳に再び、あの庭園で見たよりもさらに深く、そして救いようのない絶望の闇が広がっていくのを、俺はただの観測者として見つめていた。


 広間の静寂を破ったのは誰かが、ひっと息を呑む音だった。


 そしてそれは伝染するように広間全体へと広がっていく。


 人々はもはやレオンハルトを見ていない。


 彼らの視線はただ一人、その中心に立つ銀髪翠眼の少女へと注がれていた。


 その視線に込められているのはもはや賞賛でも好奇心でもない。


 自らの理解を超えた未知の存在に対する、純粋で根源的な恐怖だった。


 一人の少年のその輝かしい努力の証明が、一人の少女の悪意なき、しかしあまりにも残酷な真実によって完膚なきまでに破壊されるという、最悪の悲劇によって下ろされたのだった。

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