表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異端賢者の魔導原論  作者: 杜陽月
最初の異端者

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

51/68

努力の証明

 ヴィリジアン邸の大広間に息を呑むような静寂が訪れた。


 弦楽四重奏の最後の音がシャンデリアの光の中に溶けて消え、全ての視線が広間の中央にただ一人立つ金色の髪を持つ少年へと注がれる。


 レオンハルト・ファルケン。


 その小さな背中には今、ヴィリジアン一族の百を超える個体の好奇、期待、侮蔑、そして同情といった混沌とした感情のベクトルが巨大な圧力となってのしかかっていた。


 俺の精神は壁際の席という完璧な観測地点から、この社会実験の最初の、そして最も重要なデータポイントを冷徹にスキャンしていた。


 クレメント・マリウスが隣で祈るように固く手を握りしめているのが視界の端に映る。彼の(オド)は恐怖と、そして僅かな期待との間で激しく揺れ動いている。彼は俺がレонハルトの心を『破壊』したことを悔い、そして同時にこの少年が自らの力でその屈辱を乗り越えることを非合理的ながらも願っているのだ。


(観測を継続。対象:レオンハルト・ファルケン。生理学的パラメータ:心拍数、推定毎分140。血圧、上昇。アドレナリン分泌量、増加。極度のストレス環境下における典型的な闘争・逃走反応。だが、彼は逃走を選択しない。興味深いサンプルだ)


 レオンハルトは深呼吸を一つすると、天に向かってその小さな右手を突き上げた。


 その仕草は数日前に庭園で見た、あの非効率な反復作業のそれと同じだった。


 だが、その瞳に宿る光は全く異なっていた。


 もはやそこには才能の不足に喘ぐ少年の焦りはない。


 ただ、自らの全てを懸けてこの不条理な試練に挑むことを決意した戦士の光があった。


 彼は目を閉じた。


 広間の喧騒が完全に彼の意識からシャットアウトされる。


 その唇が微かに動き始めた。


 だが、それはソラリア正教が定めるあの冗長な『太陽賛歌ソーラー・カンティクル』ではなかった。


 俺の聴覚センサーが捉えたのは、意味をなさないが明確な意志のこもった単語の断片だった。


「……熱は、エネルギー……魔素の、振動……俺の、魂の、命令……!」


 俺が彼に教えた魔法の根源的な定義。


 彼はあの屈辱の後、ただ絶望していただけではなかったのだ。


 彼は俺が提示したあまりにも残酷で合理的な『真実』を自分なりに咀嚼し、理解し、そして自らの力へと変換しようと必死にもがいていたのだ。


 その額に玉の汗が浮かぶ。全身のオドを指先の一点に集中させようと必死に格闘しているのが観測できた。


 彼の小さな身体が自らの限界を超えようと悲鳴を上げている。


 そして数秒間の、永遠にも思える沈黙の後。


 彼の突き立てた人差し指の先に、ぽっと火の玉が灯った。


 その火の玉は数日前に庭園で見た、あの蝋燭の炎にも満たないか弱く不安定な光ではなかった。


 大きさは一回り以上大きい。ランプの炎ほどの確かな質量を持っている。


 そして何よりもその輝きが安定していた。


 数日前の今にも消えそうに揺らめいていた光とは違い、確かな熱量を持ってそこに存在している。


 それは客観的に見て、誰の目にも明らかな『進歩』だった。


 広間からどよめきが起こった。


「おお……!」 「見事だ! 十歳にしてあれほどの火球を!」 「詠唱もほとんど行っていなかったぞ……! なんという才能だ!」


 親族たちの声は純粋な賞賛に満ちていた。


 彼らはこの世界の常識――詠唱の長さと正確さこそが魔法の才能を測る基準であるという常識――に照らし合わせ、レオンハルトのその拙いが本質を突いた試みを『天才の所業』だと誤解したのだ。


 皮肉なものだ。彼のその魔法がこの世界の常識を根底から覆す異端の理論の片鱗であることなど、誰も知らずに。


 レオンハルトの父親ゲルハルト・ファルケンの厳格な顔が誇らしげにほころんでいるのが見えた。彼の隣で母親がそっとハンカチで目頭を押さえている。


 父からの、絶対的な権威からの承認。


 それが彼が最も渇望していたものだったのだろう。


 レオンハルトは額の汗を拭うのも忘れ、その賞賛の奔流の中心で少しだけ戸惑ったように、しかし誇らしげに胸を張った。


 彼は自らの努力が報われたのだ。


 父に、親族に、そしてこの世界に認められたのだ。


 そして彼はゆっくりと俺の方を振り返った。


 その獅子のような瞳。


 そこにはもう絶望の色はなかった。


 代わりにあったのは自らの努力の価値を証明したことへの純粋な誇り。


 そして俺という名の、自らを絶望の淵に突き落とし、しかし同時に新たな道を示した絶対的な存在に対する挑戦的なまでの問いかけ。


(どうだ、見たか。俺はあんたが言った通り、ただの非効率な努力を繰り返すだけの凡人じゃない。俺はあんたの教えを理解し、そして乗り越えてみせたぞ)


 その視線は明確にそう語っていた。


 彼は俺に認められたいのだ。


 師として、天才として、そして何よりも彼が憧れる存在として。


 彼の人生で最も輝かしいその瞬間の全てが、俺という名のたった一人の観測者に捧げられていた。


 俺はその視線をただ無表情のまま受け止めた。


 その光景を極めて冷静に分析していた。


(……なるほど。この社会的システムにおいて結果の絶対値よりも、そこに至るまでの『努力』というプロセスが評価されるらしい。彼の魔法の出力は依然として俺の最低基準を遥かに下回っている。だが、周囲の個体は彼の年齢と彼が払ったであろう努力という非定量的なパラメータを考慮し、その相対的な『成長率』を高く評価している。非合理的だが興味深い文化だ)


 俺の思考OSはこの社会の新たな法則を一つ学習した。


 だが、物理法則は社会の慣習によって捻じ曲げられることはない。


 俺は彼の魔法を純粋な物理現象として再計算する。


(観測を再開する。対象:レオンハルト・ファルケンによる魔法行使。……詠唱プロトコルの変更を確認。情報伝達効率、推定3%向上。オドからマナへの転写プロセスにおける情報損失率、推定5%改善。結果、出力された熱エネルギー量、前回観測時と比較して12.7%増加。……しかし、彼がこの二日間で費したであろう時間的コスト、肉体的・精神的リソースを考慮すれば、その投資対効果は依然として許容範囲を大幅に下回る)


 俺の思考は冷徹な結論を弾き出す。


 彼は壁に頭を打ち付けるのをやめ、壁に梯子をかけることを覚えた。それは確かに進歩だ。


 だが、俺はその壁そのものを原子レベルで分解し通り抜ける方法を知っている。


 俺と彼との間には依然として絶対的な断絶が存在する。


(……だが、そのプロセス自体が根本的に間違っているのだが)


 俺は手元の果実水を一口だけ口に含んだ。


 甘い。


 広間は一人の少年の、そのささやかだが輝かしい成功を祝う温かい賞賛の空気に満ちている。


 悲劇の直前の、最後の静寂。


 彼の人生で最も輝かしい瞬間。


 その輝きが次の瞬間、俺という名の絶対的な真理によって無慈悲に砕け散ることになるとは、まだ誰も、そして彼自身さえも知る由もなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ