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異端賢者の魔導原論  作者: 杜陽月
最初の異端者

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舞台の準備

 ヴィリジアン邸の大広間で繰り広げられる『親族の集い』という名の社会実験は、表面的には安定した状態で進行していた。


 俺は完璧な『七歳の令嬢』を演じきっている。


 壁際の席にちょこんと腰掛け、侍女エリアナが差し出す果実水を時折口に運び、誰に話しかけられてもただ無垢な笑みを返すだけの美しい人形。


 その仮面の下で俺の思考OSは、この大規模な社会実験の観測と分析を冷徹に続けていた。


(観測を継続。システムは安定した状態で稼働中。個体群は血縁と社会的地位という二つの主要パラメータに基づき、予測可能なクラスターを形成している。会話の内容は自己の優位性を誇示するための情報交換と、他者の脆弱性を探るための情報収集に大別される。実に非効率だが、生物の生存戦略としては興味深いサンプルだ)


 俺の視覚センサーが天井のシャンデリアを捉える。


 あれはこの世界の魔道具技術の一つの到達点なのだろう。無数の魔晶石が中央の大型魔石から供給される魔力を光エネルギーへと変換している。


(……だが設計思想が古い。エネルギー伝達回路が直列に近く、一つの魔晶石に不具合が生じた場合、連鎖的に全体の光量が低下するリスクを内包している。魔力の消費効率も悪い。出力の30%以上が熱エネルギーとして無駄に放出されている。俺なら並列回路を基本とし、各魔晶石に小型の魔力安定化回路を組み込むことで、消費効率を50%は改善しかつシステムの冗長性を確保できる。全く非合理的な設計だ)


 俺の思考が次に給仕たちの動きを捉える。


 黒い制服に身を包んだ彼らはトレーにグラスや皿を乗せ、広間を縦横無尽に動き回っている。


(……動線に無駄が多すぎる。厨房から広間へのルートが一本化されていないため複数の給仕が狭い通路で交錯し、ボトルネックを形成している。各テーブルへの最適配膳ルートを計算すれば、現在の7割の人員と時間で同等以上のサービスレベルを維持できるはずだ。巡回セールスマン問題の亜種。単純なアルゴリズムで解決可能な問題だ)


 この世界の全てが俺の目には非効率でバグだらけのシステムに見えた。


 そしてそのシステムの最大のバグは人間そのものだ。


 俺は広間の向こう側で繰り広げられている一つの人間ドラマを観測していた。


 レオンハルト・ファルケン。


 金色の髪を持つ、あの『努力の人』。


 彼は厳格な顔つきの父親――ファルケン辺境伯家の当主、ゲルハルト・ファルケンに捕まり、何事か厳しい口調で叱責を受けているようだった。


 レオンハルトは俯き、ただ黙って父の言葉を聞いている。その拳は礼服のズボンの横で固く、固く握りしめられていた。


 俺の聴覚センサーは彼らの会話の断片を捉えるには距離が離れすぎている。


 だが、問題ない。


 俺は彼らの唇の動きと、その微細な表情筋の動き、そして彼らのオドが放つ感情のスペクトルを分析することで、その会話の内容を高い精度で再構築することができた。


「……いいかレオンハルト。お前はファルケン家の次期当主となる男だ。いつまでもそのような下を向いた情けない顔をしているでない!」


 ゲルハルトの言葉は息子への期待と、それと同じくらいの苛立ちに満ちていた。


「お前の努力は私も認めている。だが努力だけではこの貴族社会では生き残れん。必要なのは結果だ! 人々にお前の価値を認めさせる明確な結果なのだ!」


 彼は周囲をちらりと見回し、声を潜めた。


「……聞いているかレオンハルト。この集いにはヴィリジアン家の『至宝』も出席されている。四歳にして父君の書斎の蔵書を全て読破されたという、あの天才令嬢が。お前はあの方と同じ血を引いていながらこの体たらくは何だ! 少しは見習ったらどうだ!」


 その言葉がレオンハルトの肩をナイフのように突き刺したのが分かった。


 彼の顔がさらに蒼白になる。


 俺の存在が彼の努力を否定するための比較対象として利用されている。


 クレメントが警告した最悪のシナリオの一つだ。


「……ですが父上。私はまだ……」


「言い訳は聞かん!」


 ゲルハルトは息子の言葉を遮った。


「幸い今宵は我らヴィリジアン一族の集い。失敗をしても笑われるだけで済む。これほどの好機はない。皆の前で日頃の成果を見せてみろ。お前の努力が決して無駄ではないことを、お前自身の力で証明するのだ!」


 その言葉は命令だった。


 父親という名の絶対的な権威による拒否不可能なコマンド。


 レオンハルトは唇を噛み締め、しばらくの間俯いたまま動かなかった。


 彼のオドが屈辱と反発と、そして……父に認められたいという子供らしい純粋な渇望との間で、激しく揺れ動いているのが観測できた。


 やがて彼はゆっくりと顔を上げた。


 その獅子のような瞳にはもう絶望の色はなかった。


 代わりにあったのは自らの全てを懸けてこの不条理な試練に挑むことを決意した、戦士の光だった。


 彼は父に向かって力強く、しかし震える声で答えた。


「……はい、父上。やらせていただきます」


 その返答にゲルハルトは満足げに頷いた。


 そしてその瞬間。


 レオンハルトの視線が広間を横切り、まっすぐに俺を捉えた。


 その視線に込められた複雑な感情の奔流。


 俺に才能を否定されたことへの反発。


 俺に認められたいという渇望。


 そして自らの努力の価値を今度こそ証明してみせるという、悲壮なまでの決意。


 俺はその視線をただ無表情のまま受け止めた。


 観測者としてこれから起こる現象を、ただありのままに記録するために。


 ゲルハルトは息子のその決意に満ちた顔を見ると、満足げに頷き近くにいた有力な親族たちに声をかけ始めた。


「皆の者、しばし耳を貸していただきたい! 我が息子レオンハルトが日頃の鍛錬の成果を皆様にご披露したいと申しております!」


 その声に広間の喧騒が少しずつ静まっていく。


 人々は何事かと興味深そうな、あるいは面白半分な視線をレオンハルトへと向け始めた。


 弦楽四重奏の演奏がぴたりと止む。


 広間の中央に自然と円形のスペースが作られていく。


 舞台は整えられつつあった。


 悲劇のための完璧な舞台が。


 俺の精神は、その光景を極めて冷静に分析していた。


(観測を継続。システムは安定した状態で稼働中。レオンハルトの感情パラメータに外部からの圧力(父親)による急激な変動を観測。彼が公衆の面前で魔法を行使する確率、97.4%に上昇。…面白い。この非効率なシステムがどのような結果を出力するのか、見せてもらおう)


 レオンハルトは父に促され、広間の中央へと一歩、また一歩と進み出ていく。


 その足取りはまるで断頭台へと向かう罪人のように、重くそして覚悟に満ちていた。


 全ての視線が彼一人に集中する。


 期待、好奇心、侮蔑、同情。


 様々な感情のベクトルが彼という一点に収束し、巨大な圧力となって彼にのしかかる。


 彼は広間の中央で立ち止まると、一度だけ俺の方を振り返った。


 その瞳が何かを訴えかけている。


(見ていてくれ)


 そう言っているようだった。


 俺はその視線に対し、ただ静かにそして冷徹に観測を続ける。


 これは実験だ。


 『努力』という名の非合理的な変数がこの世界の残酷な物理法則と衝突した時、どのような結果を弾き出すのかを観測する、またとない機会。


 レオンハルトは深呼吸を一つすると、天に向かってその小さな右手を突き上げた。


 広間に息を呑むような静寂が訪れる。


 悲劇の直前の最後の静寂。

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