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異端賢者の魔導原論  作者: 杜陽月
揺り籠の中の観測者

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不完全な観測、完全な孤独

 父という非合理的な感情のノイズ源が去った後、俺の観測対象は母ヘレナ(・・・)・ヴィリジアンへと移行した。

 彼女は父とは全く異なるシステムで稼働している個体だった。


 彼女の子育ては一つの最適化されたアルゴリズムのようだった。

 おむつの交換、授乳、寝かしつけ。その全てのプロセスにおいて無駄な動きが一切ない。

 最小限の労力で最大限の結果……つまり赤子である俺の生命維持と成長を、完璧に管理している。


 父が俺に向ける感情の揺らぎという名の予測不能なバグは、彼女の行動には存在しない。

 彼女は常に冷静で、常に合理的だ。


(個体名:母。父よりは遥かに合理的で理解しやすい。彼女の行動は全てが論理的な因果関係に基づいている。この個体となら、いずれは建設的な対話が可能になるかもしれない)


 俺は彼女の合理性に、ある種の知的親近感を覚えていた。

 彼女はこの非効率な世界における唯一の例外に見えた。


 その日もヘレナは一連の育児タスクを完璧にこなしていた。

 最後のタスク……俺を揺り籠に戻し眠りにつかせるプロセスを完了させた後、彼女は立ち去るはずだった。


 だが、彼女は立ち去らなかった。


 ヘレナは静かに揺り籠のそばに腰を下ろすと、俺をその腕に抱き上げた。

 そしてただ静かに、俺の顔を見つめ始めた。


 俺は即座に観測モードへと移行する。


(行動予測にないパターンを検知。目的は何だ? 俺の成長状態のより詳細なデータ収集か? あるいは何らかの異常を疑っているのか?)


 だが、彼女の行動は俺のどの予測モデルにも合致しなかった。

 彼女はただ、俺を抱きしめているだけだった。

 彼女の身体から伝わる穏やかな温もり。彼女の胸から聞こえる規則的で力強い心音。そして彼女の口から漏れる意味のない音の連なり……おそらく、この世界の『子守唄』と呼ばれるものだろう。


 そして彼女は微笑んだ。

 父が俺に向ける恐怖と期待が混じった複雑な表情ではない。

 ただ純粋な、何の計算も含まれていない穏やかな微笑みだった。


 その瞬間、俺の思考は初めて経験するシステムエラーに見舞われた。


(……なんだこれは? 彼女の身体から微量の熱エネルギーが放出されている。心拍数も平常時より僅かに上昇。瞳孔が拡張し、顔面の筋肉が弛緩している。これらのパラメータが示す感情は……)


 俺のデータベースが、一つの単語を弾き出した。


(……愛情? 馬鹿な。それは生存戦略において何のメリットももたらさない)


 俺はその結論を即座に棄却した。

 愛情などという非論理的で非効率で定量化不可能な変数を、俺の美しい数式に組み込むわけにはいかない。

 これは何かの間違いだ。彼女の行動には俺がまだ観測できていない、別の合理的な目的があるはずだ。


 だが、俺の思考とは裏腹にこの身体は奇妙な反応を示していた。

 彼女の温もりが心地よい。

 彼女の心音が安心する。

 彼女の微笑みが不快ではない。


(……なんだこの感覚は。この身体のバグか? 外部からの熱エネルギー入力に対し、脳が快感に類似した信号を誤って出力しているのか? 解析不能だ。この現象を記述する方程式が俺の知識の中には存在しない)


 俺は混乱した。

 34年間の物理学者としての人生と、この世界に生まれてからの2年間で、初めて俺は自らの知性が完全に無力であることを悟った。


 父の恐怖は理解できた。それは未知の存在に対する自己防衛本能という合理的な反応だ。

 だが、母のこの行動は理解できない。

 何の利益も生み出さない純粋なエネルギーの浪費。何の目的もないただの時間消費。

 俺は宇宙の法則を解き明かそうとしているのに、目の前のこの最も単純な現象さえ説明できない。


 その事実が俺に、これまで感じたことのない新しい種類の孤独をもたらした。


 父との断絶は知的な断絶だった。俺の知性が彼の理解を超えていただけだ。

 だが、母とのこの断絶はもっと根源的な、存在そのものの断絶だ。

 俺は彼女が感じているであろう感情を理解することができない。そして彼女もまた、俺が今感じているこの知的混乱を理解することは永遠にないだろう。


 俺はこの世界でたった一人だ。

 俺の知性を理解する者はいない。

 そして俺の心を理解してくれる者も、またいない。


 不完全な観測は、完全な孤独を俺に突きつけた。


 俺はゆっくりと目を閉じた。

 思考を目の前の解析不能な現象から、より確実でより美しい論理の世界へと逃避させる。


(……もういい。感情などというバグだらけの非論理的な変数は、当面の間解析対象から除外する。俺が優先すべきはこの世界の物理法則の解明だ。それだけが俺が理解できる唯一の真実なのだから)


 母の腕の中で俺は、誰にも理解されない孤独を抱きしめながら、ただひたすらに書斎の牢獄に眠る美しい数式のことだけを考えていた。

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