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異端賢者の魔導原論  作者: 杜陽月
最初の異端者

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49/60

クレメントの警告

 ヴィリジアン邸の大広間。


 そこはこれから始まる大規模な社会実験の完璧な舞台装置だった。


 天井からは数千の魔晶石を光源とするシャンデリアが、計算され尽くした角度で光を乱反射させ、広間全体を昼間よりも明るく照らし出している。弦楽四重奏が奏でる退屈だが調和の取れた旋律は、これから行われる非効率な情報交換のための心地よい背景ノイズとして機能していた。


 俺は、銀髪翠眼の美少女ゼノ・ヴィリジアンという名のこの非機能的で文化的な拘束具ドレスにパッケージングされ、その舞台の中央に配置されていた。


 俺の周囲にはヴィリジアン家の血を引くという、ただそれだけの理由で集まった個体群が、それぞれの社会的地位と欲望に基づいた複雑な相互作用を繰り広げている。


 彼らの視線、声のトーン、そしてオドが放つ微弱なエネルギーの揺らぎ。その全てが俺の思考OSに膨大なデータとして流れ込んでくる。


 その情報の奔流の中で、俺の視覚センサーは一つの特異点を捉えていた。


 レオンハルト・ファルケン。


 厳格な顔つきの父親の隣で石像のように微動だにせず立ち尽くす、金色の髪を持つ少年。


 彼の獅子のような瞳は二日前の庭園で俺に向けられた、あの純粋な憧憬の光を完全に失っていた。代わりにあったのは、自らの価値を、そして自らの努力を否定された者の、深く暗い絶望の色だった。


 俺の言葉が彼を『破壊』した。


 その観測事実は俺の完璧な論理体系に、未だ解析不能なノイズとして残留し続けていた。


 その時だった。


 人々の輪をかき分けるようにして、一人の男が俺の方へと駆け寄ってくるのを俺の視覚センサーが捉えた。


 クレメント・マリウス。


 父が俺の『矯正』と『監視』のために送り込んできた、この小心でしかし知的好奇心に満ちた学者。


 彼の顔は蝋燭の光の下でも分かるほどに蒼白だった。その額には脂汗が滲み、普段は整えられているはずの髪は僅かに乱れている。


(個体名:クレメント・マリウス。感情パラメータ:極度の緊張、恐怖、そして……懇願? 行動予測:俺の行動に対し何らかの緊急的な制約を課そうと試みる可能性が高い)


 俺の思考OSが彼の状態を冷静に分析している間に、クレメントは俺の目の前にたどり着くと、周囲に聞かれぬようしかし切羽詰まった声で囁いた。


「ゼノ様……! お願いです。どうか、お聞き入れください」


 彼の声は震えていた。それは俺の知性に対する畏怖だけではない。これから起こるであろう悲劇をただ一人予見してしまった者の、絶望的な震えだった。


「今夜は、どうか……どうか、普通の子供でいてください」


 普通の子供。


 そのあまりにも非論理的で定義不可能な要求。


 俺はただ無表情のまま彼の次の言葉を待った。


 クレメントはまるで助けを求めるかのように、俺の背後――レオンハルトがいる方向へと怯えたような視線を向けた。


「……ご覧ください、ゼノ様。レオンハルト殿のお顔を。あれがあなたの『真実』がもたらした一つの結果なのです。あなたは悪意なく、ただ純粋な論理で彼の魂を殺してしまわれた」


 彼の言葉は俺がこの数日間、思考の片隅で処理し続けていたあの解析不能なノイズを容赦なく抉り出してきた。


「あなたの知性は光です。それはこの世界の停滞した闇を照らし出す希望の光だと、私は今でも信じています。ですが、その光はあまりにも強すぎる。あまりにも純粋すぎるのです」


 クレメントは必死に言葉を続けた。その瞳は潤んでいた。


「ここにいる人々はあなたのようには世界を見ていません。彼らにとって真実とは論理的な正しさのことではない。自らが信じる『常識』であり、自らの地位を守るための『秩序』なのです。あなたの光は彼らにとって真理の啓示などではない。自らの世界を焼き尽くすただの劫火でしかない」


 彼は俺の肩に、震える手をそっと置いた。


「あなたの本当の力は彼らには決して理解できません。そして理解できない力は彼らにとって『脅威』でしかないのです。脅威は排除されなければならない。それがこの世界のもう一つの、どうしようもない物理法則なのです」


 彼の懇願。


 それは俺が「非論理的だ」と一蹴した、あの助言の繰り返しだった。


 だが今の俺には、その言葉の重みが以前とは全く異なるデータとして入力されていた。


 レオンハルトという具体的な『実験結果』を経た今、クレメントの言葉はもはや単なる感情的なノイズではなかった。


 それはこの脆弱な社会システムにおける極めて重要なリスク管理に関する、合理的な警告だった。


 俺の精神は、彼のその必死の形相を冷静に分析していた。


(クレメントのストレスレベルが危険域に達している。心拍数の上昇、発汗、瞳孔の散大。彼の精神は俺という異物とこの旧弊な世界との間で引き裂かれ、限界に近い負荷がかかっている) (だが彼の警告は論理的には正しい。俺の知性を不用意に開示することは、この脆弱な社会システムに予測不能なエラーを引き起こす可能性がある。前回のレオンハルトへの介入はその実証実験となってしまった。彼の感情パラメータの急激な低下は俺の予測モデルを逸脱した危険なバグを誘発した)


 俺はクレメントの瞳を見つめ返した。


 その瞳に浮かぶ純粋なまでの心配と恐怖。


 それは非論理的で非効率な感情の奔流だ。


 だがその非論理的な感情こそが、今、俺という論理の塊に対して最も合理的な警告を発している。


 皮肉なものだ。


(……承知した。今夜の俺はデータ収集に特化したパッシブ・モードを維持する。母上が言う『戦場』において最も有効な戦術は必ずしも攻撃ではない。完全なステルス状態を維持し、敵の情報を一方的に収集することだ。俺は完璧な『七歳の令嬢』を演じきる。それが現時点での最適解だ)


 俺はクレメントのその震える手の上に、自らの小さな手をそっと重ねた。


 そして静かに、しかし明確に一度だけ頷いてみせた。


 言葉はなかった。


 だがその一つの頷きに込められた情報を、クレメントは正確に受信したようだった。


 彼の強張っていた肩からふっと力が抜けるのが分かった。その瞳にわずかな安堵の色が浮かぶ。


「……ありがとうございます。ゼノ様」


 彼は絞り出すような声でそう言うと、深々と一礼し広間の隅へと下がっていった。


 彼は俺が彼の善意を理解し、受け入れたと信じたのだろう。


 その解釈は半分は正しく、そして半分は致命的に間違っていた。


 俺は彼の善意を受け入れたのではない。彼の提示したリスク情報を分析し、自らの行動計画を最適化したに過ぎないのだから。


 クレメントが去ると同時に、広間の喧騒がまるでボリュームを上げたかのように俺の聴覚センサーに流れ込んできた。


 父が次の有力な親族へと俺の手を引いていく。


「こちらは分家の長老、ゲルハルト叔父上だ。ゼノ、ご挨拶を」


「……はじめまして、おじいさま。ゼノと申します」


 俺は計算され尽くした完璧な無垢な笑顔を、その顔に貼り付けた。


 目の前の老人は満足げにその皺だらけの顔をほころばせる。


 大規模な社会実験は既に始まっていた。


 俺は完璧な擬態を維持しながら、この非合理な人間たちの生態をただ静かに、そして冷徹に観測し続ける。


 クレメントの警告は悲劇を回避するためのものだった。


 だが皮肉なことに、その警告こそがこれから起こる悲劇の最後の引き金となることを、まだ誰も知らなかった。


 なぜなら俺が演じる『普通の子供』という仮面は、この世界の人間が最も油断し、そして最も残酷になる完璧な舞台装置だったのだから。

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