親族の集い
レオンハルト・ファルケンという名の純粋で脆い観測対象を、俺の言葉が『誤差』という名の刃で切り刻んでから一日が経過した。
彼の感情パラメータの急激な低下――あの愕然とした表情の背後にある解析不能な心の動きを、依然としてバックグラウンドで処理し続けていた。
俺の論理は揺るがない。結果に結びつかない努力に価値などない。
だが、その自明のはずの真理がなぜ彼をあそこまで『破壊』したのか。
その問いは俺の完璧な論理体系に生じた小さな亀裂から、じわりと染み出す不快なノイズのように俺の思考の片隅に居座り続けていた。
そして運命の日は訪れた。
ヴィリジアン家の『親族の集い』。
その非合理的な社会的イベントの開催を告げるように、屋敷全体が朝からヒステリックなエネルギーに満ちていた。
侍女たちが廊下を走り回り、厨房からは未知の香辛料と焼けた肉の匂いが漂ってくる。広間からは楽器のチューニングと思われる不協和音が断続的に聞こえてくる。
全てが非効率なフローラインと過剰な情報量に満ちていた。
俺は自室の書斎でその混沌から完全に隔絶されていた。
手元の羊皮紙に描かれた古代文明の論理ゲートの美しい設計図。それだけが俺の世界の全てだった。
この静寂を破ったのは、重厚な扉がノックもなしに開かれる乱暴な音だった。
「ゼノ。準備の時間です」
そこに立っていたのは母、ヘレナ・ヴィリジアン。
その声はいつものように冷静だったが、その瞳には有無を言わせぬ強い意志の光が宿っていた。
(個体名:母。感情パラメータ:決意、そして……僅かな苛立ち? 行動予測:俺を俺の世界から彼女の世界へと強制的に引きずり出すつもりか)
「……母上。私はこの解析を中断することはできません。この社会的儀式への参加は、私の研究計画に著しい遅延をもたらす極めて非合理的な選択です」
俺は文献から顔を上げることなく事実だけを告げた。
だが、ヘレナは俺の論理を一蹴した。
「あなたの『研究』がこの世界でどのような価値を持つのか。それを決めるのはあなたではありません。世界です。そして今夜ここに集まる人々こそが、あなたの価値を値踏みする最初の『世界』なのです」
彼女は俺の机の前に立つと、その冷徹な瞳で俺を見下ろした。
「あなたは自分の知性が絶対だと信じている。ですが、その知性もそれを振るうための『力』がなければただの独り言に過ぎません。今夜の集いはパーティーではない。あなたの才能をヴィリジアン家の『力』として世界に認知させるための最初の戦場です。理解なさい」
彼女の言葉は俺の知らないもう一つの物理学――『政治』という名の社会法則に基づいていた。
俺の思考OSは彼女の提示した論理の有効性を認めざるを得なかった。
(……なるほど。彼女の思考は常に長期的かつ戦略的だ。これは単なる社交ではない。将来の研究環境を最適化するための政治的投資か)
「……分かりました、母上。参加します」
俺の返答にヘレナは満足げに、しかし笑み一つ見せずに頷いた。
「よろしい。エリアナ、ゼノ様の準備を」
その合図と共に数人の侍女たちが部屋になだれ込んできた。
彼女たちの手には俺がこの世界で最も嫌悪する、ある物体が掲げられていた。
ドレスだ。
銀糸で繊細な刺繍が施された深翠の絹のドレス。幾重にも重ねられたレースと胸元を不必要に飾るリボン。
俺はその物体を、まるでこれから自らを拘束する拷問具であるかのように冷徹な目で見つめていた。
(大規模な社会実験が始まる。多数の個体が家柄、年齢、性別といった様々なパラメータに基づき複雑な相互作用を繰り広げる。…収集できるデータは多いだろう。だが、このドレスはダメだ。身体の動きを阻害し体温調節の効率を著しく低下させる。全く非合理的な文化的拘束具だ)
侍女たちはまるで美しい人形を着せ替えるかのように、俺の身体から普段着を剥ぎ取りその非機能的な衣服をまとわせていく。
肌を締め付けるコルセット。歩行を阻害する幾重ものペチコート。
俺はその全てのプロセスをただ無表情で受け入れた。
抵抗は非合理的だ。これは母が言う『戦場』における指定された『軍服』なのだから。
「まあ、ゼノ様! まるで森の妖精のようですわ!」
エリアナが純粋な賛辞の言葉を口にする。
だが鏡に映る俺の姿は、俺、桐山徹の目にはただの滑稽な道化にしか見えなかった。
銀髪翠眼の絶世の美少女という儚い器。その器にさらに華美な装飾を施し、その脆弱さを強調する。
この世界の人間はなんと非効率な美意識を持っているのだろうか。
準備が整うと俺は父サイラスと母ヘレナに両脇を固められ、今夜の舞台となるヴィリジアン邸の大広間へと向かった。
扉が開かれた瞬間、俺の感覚器は情報の洪水に飲み込まれた。
シャンデリアの眩い光。弦楽四重奏が奏でる計算された和声。人々の香水と料理と、そして隠しきれない欲望の匂いが混じり合った混沌とした空気。
そして何よりも無数の視線。
好奇、嫉妬、羨望、値踏み。
様々な感情パラメータを含んだ視線が俺という名の新たな変数に一斉に突き刺さる。
(……観測を開始する。個体数、推定120名。パラメータ:ヴィリジアン家及びその分家、縁戚関係者。目的:社会的地位の確認とそれに伴う情報交換。……なるほど。これは巨大な生物の年に一度の代謝活動のようなものか)
俺は父と母に導かれるまま広間の中央へと進み出た。
父が誇らしげな、それでいてどこか不安げな声で俺を親族たちに紹介する。
「我が娘、ゼノだ。今年で七歳になる。皆、よしなに頼む」
その言葉を合図に人々が俺の周りに集まってくる。
「まあ、この子が噂の……」 「なんと美しい銀髪と翠眼。まさにヴィリジアンの至宝」 「七歳にして既に聖女のような気品が……」
彼らの言葉は俺の外面――この『儚い器』――に対する予測通りの賞賛のデータだった。
俺は完璧な淑女の笑みをその顔に貼り付け、ただ無言でそれらを受け流す。
俺の思考OSは彼らの言葉の内容ではなく、その声のトーン、視線の動き、そして彼らの魂が放つ微弱なエネルギーの揺らぎから、その真の意図――俺という存在を自らの利益のためにどう利用できるかを計算しているその思考プロセス――を冷静に解析していた。
その退屈なデータ収集の最中だった。
広間の入り口がにわかに騒がしくなった。
執事の一段と張りのある声が響き渡る。
「ファルケン辺境伯家当主、ゲルハルト様、並びに奥方様、御子息レオンハルト様、御到着!」
その名を聞いた瞬間、俺の思考は初めてこの非効率なパーティーの中で明確な焦点を結んだ。
レオンハルト・ファルケン。
俺の論理によってその心の根幹を『誤差』だと断じられた、あの少年。
俺は人々の輪の切れ間から入り口の方へと視線を向けた。
そこに立っていたのは庭園で見た汗と土にまみれた姿とは全く異なる、一人の貴族の少年だった。
上質なベルベットの礼服に身を包み、その金色の髪は完璧に整えられている。
だが、その表情は石のように硬かった。
彼の隣には厳格な顔つきの父親と、心配そうに彼を見つめる母親の姿がある。
彼は自らの家門を背負い、この社交という名の戦場に緊張した面持ちで立っていた。
彼の父親が俺の父サイラスと儀礼的な挨拶を交わしている。
その間レオンハルトはまるで人形のように、ただ微動だにせず前を見据えていた。
その獅子のような瞳は二日前の庭園で俺に向けられた、あの純粋な憧憬の光を完全に失っていた。
代わりにあったのは自らの価値を、そして自らの努力を否定された者の、深く暗い絶望の色だった。
やがて二人の父親の挨拶が終わり、レオンハルトが俺の前に進み出るように促された。
彼はゆっくりと、まるで重い枷を引きずるかのように俺の方へと歩み寄ってくる。
そして俺の数歩手前で立ち止まった。
その瞬間、俺たちの視線が初めて交錯した。
俺の翠色の瞳に映るのは解析すべき興味深い観測対象。
彼の絶望に濡れた瞳に映るのは自らの全てを否定した、残酷なまでの絶対的な真理の化身。
俺たちの間に言葉はなかった。
だが、その沈黙の中にはこれから始まる悲劇の全ての予兆が満ちていた。
クレメントが警告した人間関係の摩擦。
母が語った社交という名の戦場。
その全てが今、この一点に収束しようとしている。
俺はただ無表情のまま彼を見つめ返した。
これから始まるこの大規模な社会実験の、最初で最も重要なデータが目の前に現れたのだから。
物語のクライマックスとなる悲劇の舞台はこうして完璧に整えられたのだった。




