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異端賢者の魔導原論  作者: 杜陽月
最初の異端者

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最初の対話

「……レオンハルト様」


 俺は静かに口を開いた。


 その翠色の瞳の奥に、これから始まる新たな実験に対する冷徹な光を宿して。


 俺の呼びかけに、目の前の少年――レオンハルト・ファルケンははっとしたように顔を上げた。


 彼は俺が彼の血の滲むような努力をただの一言で『非効率』だと断罪することを予測していたのかもしれない。あるいは子供らしい無邪気な賞賛を。


 だが、俺が次に紡ぐ言葉はそのどちらでもなかった。


「あなたのその非効率で、しかしあまりにも真摯な努力に対して、私が提示できる唯一そして最も誠実な『解答』をお教えしましょう」


 俺の言葉は何の感情も乗らない、ただの事実の陳列だった。


 エリアナが隣ではっと息を呑む気配がした。七歳の少女が十歳の貴族の少年に向かって放つには、あまりにも無慈悲であまりにも傲慢な言葉。


 だが、俺は続けた。


「まず剣術。あなたの踏み込みは重心が僅かに浮き、地面からの反力を十分に剣先に伝えられていない。剣を振り下ろす際の肩の回転も腕の力に頼りすぎており、体幹からのエネルギー伝達に著しいロスが発生しています。その動きを何万回繰り返しても到達できる域はたかが知れている」


 俺は彼の動きを観測して得られたデータを淡々と開陳する。


 次に魔法。


「詠唱も同様です。あなたは詠唱を『祈り』だと誤解している。あれは世界の物理法則にアクセスするための極めて冗長でエラーの多い音声コマンドプロトコルに過ぎません。あなたの魔法行使におけるエネルギー変換効率は理論上の最低値を下回っている。(オド)から外部魔力(マナ)への情報転写プロセスにおいて90%以上の情報がノイズとして失われているのです」


 俺の言葉は彼のこれまでの人生――その血の滲むような努力の全てを、ただの『誤り』だと断罪するものだった。


 クレメントが聞けば卒倒しただろう。


 エリアナは既に顔面蒼白でわなわなと震えている。


 だが、レオンハルトの反応は俺の予測モデルを僅かに、しかし明確に逸脱していた。


 彼は傷ついた顔をしなかった。


 怒りも侮辱されたという色も、その獅子のような瞳には浮かばなかった。


 代わりにあったのは自らが解けないと思っていた難問の解法を目の前で鮮やかに提示されたかのような、純粋で畏敬の念に満ちた驚愕だった。


「……すごい……」


 彼が漏らした一言はそれだった。


「……あなたは今、俺が剣を振るのを少し見ただけで……? それだけでそんなことまで分かるのですか……? それに魔法のことも……俺がずっと誰に聞いても『才能がないからだ』としか言われなかったことを、そんな風に……」


 彼は俺の言葉を『批判』としてではなく『解析』として受け取ったのだ。


 その反応は俺にとって極めて興味深いデータだった。


 クレメントは俺の論理を『非人間的』だと恐怖した。


 この少年は俺の論理を『本物の知性』だと憧憬している。


(……面白い。実に面白いサンプルだ。彼は俺の論理を理解しない。だが、その論理がもたらす『結果』――つまりは『力』――を盲目的に信奉する。彼のこの純粋な信仰心は、俺の理論を検証するための完璧な実験台になるかもしれない)


 俺はこの少年を俺の最初の『実験動物』として利用することを決定した。


 彼の非効率な努力を俺の論理で最適化し、その成長過程を観測する。


 それはこの世界の人間というシステムの学習アルゴリズムを解析するための、またとない機会だった。


「……いいでしょう」


 俺は静かに頷いた。


「ですが私の授業はアカデミーのどの教師よりも厳しく、そして合理的です。あなたはこれまで信じてきた全ての常識を一度捨て去る覚悟がありますか?」


 俺の問いは試練だった。


 だが、レオンハルトは一瞬の躊躇もなく力強く答えた。


「はい! 望むところです!」


 こうして俺とレオンハルト・ファルケンとの最初の対話は終わった。


 それは対等な人間同士の対話ではなかった。


 研究者と、その研究対象。


 あるいは神と、その最初の信徒。


 そんなどこまでも非対称で、そして歪な関係性の始まりだった。


 親族の集いまで、あと一日。


 俺はレオンハルトという名の新たな観測対象を得たことに、ある種の知的満足感を覚えながら再び庭園でのフィールドワークに戻っていた。


 今日のターゲットは花壇の周りを不規則に飛び回る一匹の甲虫だった。


 その昆虫は前世の地球で言うところのカブトムシに似た形状をしている。だが、その飛行原理は俺の知る航空力学の法則を完全に無視していた。


(……観測を再開する。対象:所属不明の鞘翅目昆虫。……興味深い。この個体の翅の形状とストロークの振幅では、その質量を持ち上げるのに必要な揚力を到底生み出せないはずだ。翼面積に対して体重が重すぎる。レイノルズ数が低すぎる環境下での飛行モデルとしても説明がつかない)


 俺がその未知の生体魔道具の解析に没頭していた、その時だった。


 背後から意を決したような、それでいてどこかぎこちない足音が近づいてくるのを俺の聴覚センサーが捉えた。


 振り返るまでもない。この(オド)のパターンは再びレオンハルト・ファルケンのものだ。


「あ、あの……! ゼノ様(・・・)!」


 緊張に上ずった声。


 俺はゆっくりと振り返り、完璧な淑女の仮面を被って彼を見上げた。


 金色の髪を陽光に輝かせた少年は俺の前に立つと、顔を真っ赤にしながらぎこちなく騎士の礼をした。


「昨日はありがとうございました! 俺、あれからあなたが言っていたことをずっと考えていました!」


「……それで、結論は出ましたか?」


「はい! 全然分かりませんでした!」


 彼は清々しいほどの笑顔で自らの知的限界を告白した。


 その反応に俺は僅かな興味を覚える。


 俺は目の前の少年を改めて観測対象としてスキャンした。


 彼の瞳に浮かんでいるのは純粋で一点の曇りもない『憧れ』。


 そこには父が俺に向ける『恐怖』も、母が俺に向ける『計算』も、クレメントが俺に向ける『畏怖』も存在しない。


 ただ強い光に惹かれる虫のように真っ直ぐな感情だけがあった。


(個体名:レオンハルト・ファルケン。彼が俺に向ける感情は純粋な『憧れ』。パラメータのブレが少ない極めて観測しやすいサンプルだ。彼の質問は単純だろうが、俺の知識に対する彼の反応データを収集することは、この世界の『常識』という名のOSを理解する上で有益だろう)


 俺が彼の価値を冷静に査定している間にも、レオンハルトは興奮した様子で言葉を続けていた。


「俺、ずっと分からなかったんです! いくら努力しても俺の魔法は少しも上手くならない! でも、あなたならその答えを知っているんじゃないかって……!」


 彼は俺に助言を求めている。


 俺は彼のその純粋な問いに答える代わりに、目の前を飛び回るあの奇妙な甲虫を指差した。


「レオンハルト様。あの昆虫が見えますか?」


「え? あ、はい。ただのカブトムシですが……」


 レオンハルトは俺の唐突な質問の意図が分からず困惑している。


「あれはただのカブトムシではありません。あれはこの世界の物理法則の一つの『解答』です」


 俺は彼ではなく、あくまで昆虫を観測し続ける体で俺の分析結果を淡々と開陳した。


「この昆虫の翅の動きは揚力を生むにはストロークが非効率すぎます。おそらく魔素を利用した未知の飛行原理が働いているのでしょう。翅の表面にある鱗粉状の組織が周囲の魔素と共振し斥力場を形成している。それは我々が使う魔法とは異なる、より根源的な生命そのものに組み込まれた物理法則です」


 沈黙。


 俺の言葉は十歳の少年が理解するにはあまりにも難解で、あまりにも抽象的すぎたはずだ。


 俺は彼の反応を観測した。


 困惑。混乱。そしてやがて彼の瞳に浮かび上がってきたのは、俺の予測を僅かに超える新たな感情の光だった。


「……すごい……」


 レオンハルトは俺が指差すただの甲虫を、まるで伝説の竜でも見るかのような畏敬の念に満ちた目で見つめていた。


「ただの虫が飛んでいるだけなのに……あなたにはそんな世界の仕組みみたいなものまで見えているのですか……?」


 彼は俺の難解な言葉をその内容ではなく、その言葉が示唆する『知性の深さ』として受け取った。


 俺の臨床的な分析は彼の思考フィルターを通して『深遠な知恵』へと変換されたのだ。


 彼は俺の言葉を理解したのではない。ただ俺が自分とは全く異なる次元で世界を観測しているという事実そのものに圧倒されているのだ。


 その反応は俺にとって極めて興味深いデータだった。


「……当たり前のことです」


 俺は静かに答えた。


「全ての事象は観測し、分析し、その背後にある法則を理解することができます。魔法も剣術も、そしてあの昆虫の飛行原理も全ては同じ物理法則の下にあります。あなたが強くなれないのはその法則を理解せず、ただ闇雲に教えられた通りの非効率な努力を繰り返しているからです」


 俺の言葉は残酷なまでに率直だった。


 クレメントが聞けば再び卒倒しかねないほどの真実の刃。


 だが、レオンハルトの反応はクレメントのそれとは全く異なっていた。


 彼は俺の言葉に傷つくでもなく反発するでもなく、ただその獅子のような瞳をさらに強く輝かせた。


「……教えてください! ゼノ様!」


 彼は俺の前にほとんどひざまずくような勢いで頭を下げた。


「俺はどうすればあなたのように強くなれるんですか!? その『法則』とやらを俺にも教えてください!」


 そのあまりにも真っ直ぐで純粋な渇望。


 その姿を見ながら俺の内面――桐山徹の精神は、この少年との関係性を最終的に定義した。


「……分かりました」


 俺は静かに頷いた。


「ではレオンハルト様。あなたを私の最初の『弟子』としましょう。ただし私の教えはアカデミーのそれとは全く異なります。それでもよろしいですね?」


「はい! 望むところです!」


 こうして俺とレオンハルト・ファルケンとの二度目の対話は終わった。


 それは師と弟子という新たな関係性の始まりだった。


 だが、その本質は変わらない。


 研究者と、その最も興味深い研究対象。


 そんなどこまでも非対称で、そして歪な関係性の確立だった。

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