獅子の心
三日後に迫ったヴィリジアン家の『親族の集い』。
その非合理的な社会的イベントを前に、クレメント・マリウスとの間に生じた微細な、しかし決定的な亀裂の解析に依然としてリソースを割かれていた。
彼は俺の知性を理解した。だが、その知性が導き出す論理的な結論――人間社会における非効率な『感情』という名のノイズを排除すべきだという結論――を彼は恐怖した。
理解者でありながら、理解者ではない。
その矛盾したデータは俺の完璧な論理体系に、これまで経験したことのない不快な揺らぎをもたらしていた。
その日、俺は侍女エリアナに手を引かれ昼下がりの庭園を散策していた。
これもまた母ヘレナによって課せられた『貴族令嬢としての責務』という名の非生産的なタスクの一つだ。
陽光は暖かく、鳥のさえずりが聞こえる。手入れの行き届いた花壇には俺の知らない生態系の植物たちがそれぞれの物理法則に従って光合成を行っている。
全てが平穏で退屈なデータに満ちていた。
その退屈な静寂を破るように、庭園の一角から鋭い風切り音が聞こえてきた。
シュッ、シュッと空気を切り裂く、規則的で何よりも真摯な音。
俺は音の発生源へと視線を向けた。
そこには俺より少し年上に見える少年が一人、木剣を振るっていた。
年の頃は七歳か八歳。陽光を反射して輝く金色の髪。その瞳は獲物を狙う獅子のように真剣な光を宿し、ただひたすらに目の前の仮想の敵を見据えている。
彼の額には玉の汗が光り、騎士見習いが着る簡素な訓練着は既に汗でぐっしょりと濡れていた。
「……まあ、レオンハルト様。今日も熱心でいらっしゃいますこと」
隣でエリアナが感心したような、それでいてどこか憐れむような声で呟いた。
(個体名:レオンハルト・ファルケン。ヴィリジアン家の遠縁。俺より三つ年上の七歳。……なるほど。彼がクレメントが言っていた『努力の人』か)
俺はその場で足を止め、彼の動きを物理学者の目でスキャンし始めた。
(……観測を開始する。対象:レオンハルト・ファルケン。行動:剣術訓練。……興味深い。彼の剣の軌道は力学的に見て極めて非効率だ。踏み込みの際、重心が僅かに浮き地面からの反力を十分に剣先に伝えられていない。剣を振り下ろす際の肩の回転も腕の力に頼りすぎており、体幹からのエネルギー伝達に著しいロスが発生している)
彼の剣術は才能ある者が振るう洗練されたそれとは程遠かった。
だが、その非効率な動きを補って余りあるものが彼にはあった。
反復。
ただひたすらな反復。
彼の身体に染み付いた動きは何万回、あるいは何十万回と繰り返されたであろう愚直なまでの鍛錬の跡を物語っていた。
彼は才能の不足を圧倒的な試行回数で補おうとしている。
それは最も非効率で、そして最も誠実な一つの解法だった。
やがてレオンハルトは大きく息を吐き、木剣を地面に突き立てた。
これで休憩に入るのかと俺が観測を打ち切ろうとした、その時。
彼は休む間もなく次の訓練へと移行した。
魔法の訓練だ。
彼は天に向かって右の人差し指を突き立てると目を閉じ、精神を集中させた。
その唇が微かに動き始める。
俺の聴覚センサーがその音声を正確に捉えた。
それはクレメントが俺に教えようとした、あの『太陽賛歌』の最も初歩的な一節だった。
「……おお、偉大なる太陽よ。その御手よりこぼれ落ちる、最初の火種を、今ここに……」
彼の詠唱は必死だった。
一語一語をまるで神に祈りを捧げるかのように懇願するように紡いでいく。
その額からは剣の稽古の時以上の脂汗が滲み出ている。
そして数秒間の詠唱の後。
彼の突き立てた人差し指の先に、ぽっと小さな光が灯った。
それは蝋燭の炎にも満たない、か弱く不安定な火の玉だった。
その火の玉は数秒間、必死にその形を保とうとするかのように揺らめいた後、ふっと儚く消えた。
「……くそっ! またか……!」
レオンハルトは悔しげに地面を拳で殴りつけた。
そして荒い息を整えると、再び同じ詠唱を一から繰り返す。
何度も、何度も。
指先に灯っては消える小さな火の玉。
その光景を俺は冷徹な観測者として分析していた。
(個体名:レオンハルト・ファルケン。行動:魔法訓練。……非効率だ。あまりにも非効率すぎる。彼の魔法行使におけるエネルギー変換効率は理論上の最低値を下回っている。オドからマナへの情報転写プロセスにおいて90%以上の情報がノイズとして失われている。原因は詠唱という非効率なプロトコルへの過剰な依存と、現象そのものへの物理的な理解の欠如だ)
彼は魔法を物理現象として理解していない。
ただ教えられた通りの『祈り』を捧げ、神の気まぐれな『奇跡』が起こるのを待っているだけだ。
それは科学ではない。宗教だ。
(意思の力で物理法則を捻じ曲げようとする典型的な錯誤だ。彼のその強靭な精神力――『克己心』という名の感情パラメータは賞賛に値する。だが、そのエネルギーの投入先が根本的に間違っている。彼は壁を乗り越えようと、ただひたすらに壁に頭を打ち付け続けているだけだ。壁の構造を解析し扉を探すという最も合理的な選択肢に気づかずに)
その時だった。
不意にレオンハルトの視線がこちらを向いた。
俺とエリアナの存在に気づいたのだろう。
彼の顔に一瞬、見られていたことへの羞恥と気まずさの色が浮かんだ。
だが、次の瞬間。
彼が俺の姿――銀色の髪と翠色の瞳を持つヴィリジアン家の直系の娘であること――を認識すると、その表情は劇的に変化した。
羞恥は消え、代わりに浮かび上がったのは一点の曇りもない、純粋で熱烈なまでの憧憬の光だった。
「……あ……! あなたが、ゼノ様……!」
彼は慌てて立ち上がると、汗と土で汚れた服のものであるのも構わず俺に向かって駆け寄ってきた。
そして俺の数歩手前で立ち止まると、貴族としての礼儀作法を思い出したかのようにぎこちない、しかし真摯な礼をした。
「は、はじめまして! 俺はレオンハルト・ファルケンと申します! あなたの遠縁にあたります!」
その声は先ほどの悔しげな声とは打って変わって、緊張と興奮に上ずっていた。
俺の思考OSが彼の感情パラメータをリアルタイムで解析する。
(個体名:レオンハルト・ファルケン。感情パラメータ:純粋な憧れ、強い克己心。敵意、嫉妬、警戒といったネガティブなパラメータは検出されず。……興味深い。クレメントは彼が俺の才能に『嫉妬』を抱く可能性を示唆していたが、観測されたデータはその予測モデルとは一致しない)
「噂はかねがね伺っております!」
レオンハルトはまるで伝説の英雄にでも会ったかのように目を輝かせながら続けた。
「四歳にして父君の書斎の蔵書を全て読破されたとか! 古代語で書かれた魔導書さえも独学で解読されたと! まさにヴィリジアン家の至宝! 俺のような凡人とは出来が違います!」
彼は何の屈託もなく自らを『凡人』と称し、俺を『天才』として賞賛した。
その言葉にはクレメントが俺に向けたような知性への畏怖や恐怖の色はなかった。
ただ純粋な尊敬があるだけだ。
彼は俺の知性そのものを理解しているわけではない。ただその知性がもたらした『結果』――『四歳で書物を読破した』という分かりやすい伝説――に憧れているのだ。
クレメントは俺の理論を『理解』し、そして『恐怖』した。
この少年は俺の理論を『理解』せず、ただ『憧れ』ている。
どちらが俺にとって有益な変数か。
俺の思考OSが新たな比較分析を開始する。
「……俺も、あなたのように強くなりたいんです」
レオンハルトは自らの拳を固く握りしめ、その瞳に決意の炎を燃やした。
「才能がないのは分かっています。詠唱の一つもまともにできない。でも努力だけは誰にも負けないつもりです。いつか必ず、あなたのような……ううん、あなたの隣に立っても恥ずかしくないような立派な騎士になってみせます!」
そのあまりにも真っ直ぐで純粋な誓い。
その言葉を聞きながら、クレメントに語った自らの信条を思い出していた。
(観測された事実が非効率であるならば、そのプロセスを評価することに論理的な意味はない。彼の努力のベクトルが間違っているという事実と彼の感情パラメータの間に因果関係はない。彼の努力は『誤り』だ。その誤りを指摘し、より効率的なアプローチを提示することこそが最も合理的で、かつ彼自身の利益にも繋がるはずだ)
そうだ。
クレメントはその俺の論理を『非人間的』だと恐怖した。
だが、俺の論理は変わらない。
目の前のこの少年は間違った努力を続けている。その非効率なプロセスを俺はただ黙って観測し続けるべきではない。
それは科学者として不誠実だ。
俺はレオンハルトのその純粋な憧れに満ちた瞳を見つめ返した。
そして彼のその非効率で、しかしあまりにも真摯な努力に対して俺が提示できる唯一の、そして最も誠実な『解答』をその唇に乗せようとした。
「……レオンハルト様」
俺は静かに口を開いた。
その翠色の瞳の奥に、これから始まる新たな実験に対する冷徹な光を宿して。




