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異端賢者の魔導原論  作者: 杜陽月
最初の異端者

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小さな亀裂

 俺とクレメント・マリウスという名のこの世界で最初の理解者との知性の交換は、もはや日常となっていた。


 彼は俺の異端な理論を驚くべき速度で吸収し、それをこの世界の学術体系へと翻訳するための極めて優秀なインターフェースとして機能していた。


 俺の知性はクレメントという名の触媒を得て、その探求を指数関数的に加速させている。


 全てが計算通りだった。


 俺たちの間には師と生徒、あるいはそれ以上の純粋な知性に基づいた共犯関係が築かれつつある。


 俺はこの関係性に、前世では決して得られなかったある種の満足感を覚えていた。


 だが、その知的な調はクレメントがふと漏らした一つの懸念によって破られた。


「……しかし、ゼノ様」


 彼は数式から顔を上げると、どこか憂いを帯びた目で俺を見つめた。


「その素晴らしい理論も、今はしばしその頭脳の奥にしまっておかねばなりません」

「……なぜです?」

「三日後に迫ったヴィリジアン家の『親族の集い』です。あなたはあのような場で決してご自身の才能を見せてはなりません」


 親族の集い。


 俺のデータベースによれば、それはヴィリジアン家の分家や遠縁の者たちが一堂に会し一族の結束を確認するという、極めて非効率で儀礼的な社会的イベントだ。


 俺の思考OSは、そのイベントへの参加を「研究時間を浪費するだけの低価値なタスク」として分類していた。


「先生の懸念は理解できます。ですがそれは過剰なリスク評価です。俺はあの場で自らの理論を開示するつもりはありません。それは価値を理解できない聴衆の前で高度な論文を発表するのと同じくらい非合理的な行為ですから」


 俺は完璧な淑女の仮面を被り、ただ静かに微笑んでいるだけでいい。それだけでこのタスクは完了するはずだ。


 だが、クレメントは深刻な表情で首を振った。


「……ゼノ様。あなたはまだこの世界の『人間』という最も複雑で非合理的な変数を理解しておられない」


 彼はまるでこれから危険な実験の手順を説明するかのように、慎重に言葉を選びながら続けた。


「あのような場にはあなたの才能を純粋な驚異として受け止められない者たちが数多く集まります。あなたの存在そのものを自らの地位を脅かす『脅威』として認識する者。あなたの価値を自らの派閥の力を増すための『道具』としてしか見ない者。そして……あなたの才能にただ純粋な『嫉妬』を抱く者」


 クレメントは一枚の羊皮紙を取り出すと、そこに一人の少年の名を記した。


 レオンハルト・ファルケン。


 ヴィリジアン家の遠縁にあたる俺より三つ年上の少年。


「……レオンハルト殿は努力の人です。彼は決して恵まれた才能を持っているわけではありません。ですが誰よりも真摯に、誰よりも愚直に魔法の研鑽を積んでこられました。来る日も来る日も血の滲むような努力を重ねて……。しかし彼の努力は未だ報われていない。彼はあなた様のような『天才』を前にした時、果たしてどのような感情を抱くでしょうか」


 クレメントの言葉は善意に満ちていた。


 彼は俺という異質な存在がこの世界の複雑な人間関係の中で傷つくことを心から案じているのだ。


 彼は俺にこの世界の『社会物理学』を教えようとしていた。論理だけでは割り切れない感情という名の厄介な法則について。


「ですからゼノ様。どうかレオンハルト殿の前ではご自身の才能を誇示するような言動はお控えください。たとえ彼の魔法に理論的な欠陥を見つけたとしてもそれを指摘してはなりません。むしろ彼の努力を褒め、その成果を称えるのです。それがあの場を波風立てずに乗り切るための最も賢明な処世術です」


 クレメントの助言。


 それはこの世界の人間が何千年もの歳月をかけて培ってきた、社会というシステムを円滑に動かすための極めて実践的な知恵だったのだろう。


 俺はその情報を純粋なデータとして処理した。


 そして俺の思考OSが弾き出した結論はただ一つだった。


「……なぜですか?」


 俺の問いは何の悪意も皮肉も含まない、純粋で根源的な疑問だった。


 クレメントは俺のそのあまりにも無垢な問いに一瞬、言葉を失ったようだった。


「……え?」

「ですから、なぜそのような非合理的な行動を取る必要があるのですかと問うているのです」


 俺は彼の困惑を意にも介さず、俺の論理を淡々と開陳した。


「観測された事実が非効率であるならば、そのプロセスを評価することに論理的な意味はありません。レオンハルトという個体の努力が正しい結果に結びついていないのであれば、その努力のプロセスは『誤り』です。その誤りを指摘し、より効率的なアプローチを提示することこそが最も合理的で、かつ彼自身の利益にも繋がるはずです」


 俺はクレメントが理解しやすいようにさらに言葉を続けた。


「真実でない情報を相手の感情を安定させるという目的のためだけに出力する行為は定義上『嘘』です。汚染されたデータを出力することはシステムの信頼性を損なうだけではありませんか? それは短期的には摩擦を回避できるかもしれませんが、長期的には彼が誤った努力を続けることを助長し、より大きな損失を生むだけです。それは彼に対する最大の『不誠実』ではないのですか?」


 沈黙。


 書斎の静寂を蝋燭の炎が揺らめく微かな音だけが満たしていた。


 クレメントは俺の顔を凝視していた。その表情から人の良さそうな笑みは完全に消え失せ、代わりに浮かんでいたのは理解を超えた現象を前にした純粋で根源的な恐怖だった。


 俺は彼のその反応を理解できなかった。


 俺の言葉は全て論理に基づいている。感情的なノイズは一切含まれていない。


 なぜ彼は恐怖する?


 その時、クレメントの震える唇がかろうじて言葉を紡いだ。


「……ゼノ様。あなたは……レオンハルト殿の……彼の努力が報われなかったその心の痛みが……分からないのですか?」


 心の、痛み。


 またしてもあの定量化不可能な変数。


 俺は首を傾げた。その仕草は7歳の幼児のそれとして完璧に無垢に見えただろう。


「痛みですか? 彼の努力のベクトルが間違っていたという事実と彼の感情パラメータの間にどのような因果関係が? それは彼の主観的な問題であり、客観的な事実とは切り離して考えるべき変数です。彼の感情がどうであれ1+1が2であるという事実は揺らがない。それと同じことです」


 その瞬間、クレメントの顔が蒼白になった。


 彼はまるで目の前にいるのが愛らしい少女ではなく異形の怪物であるかのように、椅子の上で僅かに身を引いた。


 俺はその微細な身体言語の変化を見逃さなかった。


 クレメントの視点からその時の俺がどう見えていたのか。


 彼はこの数週間、俺の知性に魅了されその輝きに希望さえ見出していた。停滞した世界を変える新しい時代の光。


 だが、今、彼の目の前にいるのは光などではなかった。


 人間の感情、努力、苦悩、喜び、その全てをただの「パラメータ」「変数」「ノイズ」としてしか認識できない冷徹な知性体。


 彼は俺の瞳の奥に34歳の物理学者の底なしの深淵を覗き込んでしまったのだ。


(あの方の瞳はまるで世界の深淵そのものだ。真理の輝きと全てを焼き尽くす虚無が同居している。私は神に仕える身でありながら悪魔の囁きに耳を傾けているのではないか? いいや、違う。これは悪魔などではない。もっと恐ろしい。悪意さえも持たない、ただ純粋な、人間とは全く異なる法則で動く何かだ……)


 クレメントは背筋が凍るのを感じていた。


 俺が彼の善意からの助言をただの「汚染されたデータ」として処理していることなど知る由もなかっただろう。


 だが彼は本能的に理解してしまったのだ。


 俺と彼との間には決して越えることのできない断絶の深淵が横たわっていることを。


 そしてそのクレメントの恐怖と狼狽を観測しながら、俺の精神にもまた、これまで経験したことのない微かな、しかし明確な亀裂が生じていた。


(クレメントの助言は非論理的だ。真実でない情報を相手の感情を安定させるという目的のためだけに出力する。それはただの『嘘』であり汚染されたデータだ。なぜ彼がそんなものを俺に要求する? 彼は俺の理論の美しさを、その論理的な整合性を誰よりも理解してくれていたはずだ)


 俺はクレメントという存在を初めての『理解者』として、俺の予測モデルにおける特別な変数として設定していた。


 彼は父のように俺を恐れず、母のように俺を利用せず、フリントのように俺の理論を理解しないわけでもない。


 彼は俺の知性そのものを純粋に評価し、共鳴してくれた唯一の人間だったはずだ。


 だが、違った。


 彼もまた結局は他の人間と同じだった。


 論理よりも感情を優先し、真実よりも調和を重んじる。


 この世界の『常識』という名の非合理的なOSに深く汚染されている。


(……クレメント。君まで俺を理解しないのか。君だけは違うと思っていたのに)


 その思考は俺の胸の奥に奇妙な痛みをもたらした。


 前世では経験したことのない非合理的な感覚。


 期待が裏切られたことによる失望。


 そしてこの世界にやはり俺を理解できる知性は存在しないのだという絶対的な孤独感。


 それは俺の完璧な論理体系に生じた最初の、そして小さな亀裂だった。


 書斎の静寂が重くのしかかる。


 クレメントは俺への恐怖から、もはや何も言うことができなかった。


 そして俺は彼への失望から、もはや何も言う気になれなかった。


 俺たちの間に生まれた最初の知性の断絶。


 その小さな亀裂はまだ誰にも気づかれることなく、しかし確実に俺たちの共犯関係の土台を静かに蝕み始めていた。

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