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異端賢者の魔導原論  作者: 杜陽月
最初の異端者

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43/68

クレメントの葛藤

 ヴィリジアン邸の重厚な門が背後で閉ざされる音は、まるでギロチンの刃が落ちる音のようにクレメント・マリウスの鼓膜に響いた。


 王都の夜は更け、ガス灯の青白い光が石畳を濡らしている。家路を急ぐ人影はまばらで、世界は深い眠りへと向かおうとしていた。


 だが、クレメントの精神はこれまで経験したことのない熾烈な覚醒状態にあった。


 自らが住まうアカデミーの学者向け宿舎の一室に戻っても、その興奮と興奮の裏側にこびりつく氷のような恐怖は少しも和らぐことはなかった。


 部屋は彼の人生そのものだった。壁一面を埋め尽くす書架にはソラリア正教の教義に関する文献やアカデミーの正統な魔法物理学の専門書が、一分の隙もなく整然と並べられている。秩序と確立された知識の城。かつては、この静謐な空間こそが彼の心の安寧の源だった。


 しかし、今。


 その整然とした書物の群れが色褪せた過去の遺物のように見えた。


 彼の頭の中では、あの翠色の光を放つ数式がまるで生きた恒星のように燃え盛り、既存の知識という名の矮小な惑星たちをその圧倒的な引力で歪ませ、破壊していた。


「……ああ……神よ……」


 クレメントはよろめくように自室の机に向かうと、震える手で日記帳を開いた。


 インク壺にペン先を浸す。だが、その指は彼の意志とは無関係に微細な痙攣を繰り返し、紙の上にインクの染みを一つ、また一つと落としていく。


 何を書けばいい?


 この世界が根底から覆るような知的衝撃を。そしてその衝撃に伴う、魂が凍てつくような恐怖を。


 彼はこの数週間で二つの人生を生きていた。


 昼はヴィリジアン家の令嬢ゼノに帝国の正統な歴史と魔法を教える家庭教師、クレメント・マリウス。


 そして夜は世界の真理を再定義する異端の賢者ゼノに旧世界の物理法則を教える最初の『生徒』、クレメント・マリウス。


(あの方の知性は間違いなく世界を変えるだろう)


 クレメントはようやく震えるペンを動かし始めた。


(あの方が提示された『魂のセントラルドグマ』。あれが真実ならば生命と魔法は一つの法則の下に統合される。詠唱や血筋といった生まれ持った才能の差は無意味となり、知性と理解こそが世界の法則にアクセスするための唯一の鍵となる。それは、何という……何という希望に満ちた世界だろうか)


 彼の脳裏に、アカデミーの教室で才能の壁に絶望する名もなき学生たちの顔が浮かんだ。詠唱の才能に恵まれず、貴族としての階級も低く、ただ学問への情熱だけを胸にそれでも報われずに去っていった者たち。


 クレメント自身もその一人だった。


 彼は権威に逆らえず、体制に順応することでしか学者としての道を見出せなかった。


 だが、ゼノの理論はその全てを覆す。


 努力が、理解が、純粋な知性の探求が正当に報われる世界。それは彼が教育者として学者として、心の奥底で夢見てきた理想郷そのものだった。


(そうだ。あの方こそがこの停滞した世界に神が遣わされた真の光なのかもしれない)


 ペンが滑らかに動き始める。


 だが、その希望に満ちたインクの文字は次の瞬間、滲んだ恐怖によって歪んでいく。


(……しかし。世界はまだその変化を受け入れる準備ができていない。いや、世界ではない。世界の秩序を守るあの男がそれを許すはずがない)


 クレメントの脳裏にもう一人の天才の姿が鮮明に浮かび上がった。


 ソラリア魔術アカデミーの長にしてソラリア正教の大司教。


 アウグストゥス・セロン。


 『秩序の柱(カラム・オルディニス)』と呼ばれる絶対的な権威。


 クレメントはかつて学生として彼の講義を受けたことがある。


 その弁舌はまるで音楽のように美しく、その論理は鋼のように強靭だった。彼はソラリア正教の教義がいかに完璧で、神が定めた世界の法則がいかに揺るぎないものであるかを圧倒的なカリスマで説いてみせた。


 聴衆は熱狂し、彼を神の代理人のように崇めた。


 だが、クレメントだけはその完璧な論理の裏に潜む氷のような冷徹さに気づいていた。


 アウグストゥスの知性は未知を探求するためではない。未知を『異端』として定義し排除するためにのみ、その全ての力が使われているのだ。


 クレメントは見たことがある。


 アウグストゥスの理論にほんの僅かな疑問を呈しただけで学会から追放され、その存在さえも歴史から抹消されていった善良な学者たちの姿を。


 アウグストゥスは悪を裁くのではない。自らが定義した『秩序』から僅かでも逸脱する可能性のある『混沌の萌芽』を、それが芽吹く前に根こそぎ焼き払うのだ。


 『赤き月の戦争(せきげつのせんそう)』の悲劇を二度と繰り返さないという大義名分を掲げて。


(ゼノ様の理論は……『魔法物理学』は猊下にとって混沌そのものだ。あれは彼が人生を懸けて守ってきた完璧な秩序の世界を根底から破壊する最悪の劇薬だ)


 ペンが止まり、インクが紙の上に大きな染みを作った。


 クレメントの全身が再び震え始めた。


 自分は何という恐ろしい行為に加担してしまったのか。


 父サイラスは自分にゼノの『矯正』と『監視』を命じた。だが、自分は今何をしている?


 その異端の知性に魅了され、共犯者としてその理論の深化を手助けしているではないか。


 これは裏切りだ。ヴィリジアン家に対する。アカデミーに対する。そして神に対する最大の背信行為だ。


 日記のページにインクと混じって冷たい雫が落ちた。


 彼は震える手でインクが滲んでいく文字をなぞった。


「私は神の真理と世界の秩序のどちらを選べばいいのだ?」


 答えなど出るはずもなかった。


 彼は学者としての魂と組織に属する人間としての保身との間で引き裂かれていた。


 ゼノという光の導き手となるか、それとも破滅の共犯者となるか。


 そのどちらの道も彼にとっては地獄へと続いているように思えた。


 クレメントは力なくペンを置くと、両手で顔を覆った。


 瞼を閉じると暗闇の中にああの翠色の瞳が浮かび上がる。


 7歳の少女が浮かべるにはあまりにも深淵で、あまりにも冷徹なあの瞳。


(あの方の瞳はまるで世界の深淵そのものだ。真理の輝きと全てを焼き尽くす虚無が同居している。私は神に仕える身でありながら悪魔の囁きに耳を傾けているのではないか?)


 そうだ。あれは悪魔の知性だ。神が定めた完璧な秩序を破壊し、人間を傲慢な道へと誘う禁断の知識。


 そう結論づけてしまえばどれほど楽だろうか。


 明日、サイラス卿に全てを報告しアウグストゥス猊下に助けを求めれば、この悪夢から解放されるかもしれない。


 だが。


(いいや、しかし、あの数式の美しさは…)


 彼の脳裏に火球の魔法を記述したあの完璧な幾何学模様が浮かび上がる。


 冗長な祈りの言葉ではなく、ただ純粋な物理法則だけが支配する静かで美しい世界。


(あれこそが神が設計した真の世界の姿なのではないか…? 我々がこれまで信じてきた教義こそが、その真の姿を覆い隠すための人間が作り出した分厚いヴェールだったのではないか…?)


 その思考はもはや単なる疑問ではなかった。


 彼の信仰の根幹を揺るがす冒涜的な確信だった。


 もしゼノの理論が正しいのなら、神は祈りの対象ではなく解析すべき壮大な数式そのものだ。


 そしてその数式を理解し記述することこそが、神に仕える学者としての真の務めなのではないか。


「……ああ……ああ……!」


 クレメントは答えの出ない問いの迷宮の中でただ呻くことしかできなかった。


 希望と絶望。信仰と真理。秩序と革命。


 その全てが彼の脆弱な精神の中で激しく衝突し、火花を散らしている。


 彼は暖炉の前に立つと、この数週間でゼノから教わった理論を書き留めた羊皮紙の束を震える手で掴んだ。


 これを燃やしてしまえば全てが終わる。


 異端の知識は灰となり、自分はまた安全な秩序の世界へと戻れる。


 だが、彼の指は動かなかった。


 その羊皮紙に記された数式の美しさが彼の魂を捕らえて離さない。


 彼は力なくその場に崩れ落ちた。


 そして悟ってしまった。


 もう引き返すことはできないのだ、と。


 明日も明後日も、自分は恐怖に震えながらそれでもあの少女の元へと通い続けるだろう。


 知的好奇心という名の抗いがたい引力に引かれて。


 それが自らの社会的生命、いや、物理的な生命さえも終わらせる破滅への道だと知りながら。


 クレメント・マリウスはその夜、眠ることができなかった。


 彼の閉じた瞼の裏で、翠色の瞳をした少女が世界の真理を静かに、そして冷徹に語り続けていたからだ。

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