禁書の噂
俺たちの秘密の授業は、あの日クレメント・マリウスがソラリア魔術アカデミーの絶対的な壁――アウグストゥス・セロンの存在を告白してからその様相を大きく変えていた。
もはやそれは純粋な知の探求ではなかった。
来るべき思想闘争に向けた緻密な兵棋演習。俺の理論という名の新しい武器を旧世界の堅牢な要塞に対していかにして最も効果的に突き立てるかをシミュレートする、静かな戦争準備だった。
「……素晴らしい。この『ベクトル制御』の理論が完成すれば、大規模な防御魔法の概念そのものが覆ります。エネルギーの壁で運動エネルギーを相殺するのではなく、最小限の力でその方向性を逸らす……。なんと、なんとエレガントな発想でしょう」
クレメントは俺が書き上げたばかりの数式を前に、もはや恐怖ではなく純粋な畏敬の念に打ち震えていた。
彼はこの数週間で俺の思考の速度に必死に食らいつき、その精神は恐怖と好奇心の臨界点を超え、一種の学者としての覚醒を果たしつつあった。
「ですが、ゼノ様」
ふと、彼の表情が曇った。それは、この革命的な理論の輝きが現実という名の分厚い壁に吸収されていく様を幻視した者の顔だった。
「この理論もまた……アウグストゥス猊下の前ではただの異端の戯言として断罪されるだけでしょう。猊下の『神聖論理学』は、このような既存の枠組みを破壊する理論を最も危険な『混沌の萌芽』として定義していますから」
アウグストゥス・セロン。
その名は今や俺たちの秘密の授業において常に参照されるべき絶対的な定数となっていた。俺の理論の正しさを証明するためには、いつか必ず超えなければならない、巨大な壁。
「ええ。分かっています」
俺はペンを置いた。
「だからこそ、先生。私は彼の論理体系そのものをハッキングする必要があるのです。彼の『神聖論理学』が依拠する根源的な公理系。その脆弱性を突かなければ、俺たちの理論が議論の俎上に載ることさえない」
「猊下の論理を……ハッキング、なさる……?」
クレメントは、まるで神の設計図を書き換えるとでも言うかのような俺の言葉に蒼白になった。
「そのためには情報が足りません」
俺は彼に向かって静かに問いかけた。
「先生。アカデミーの公式なカリキュラムには世界の根源に関するいくつかの『触れてはならない領域』が存在するはずです。例えば大崩落以前の魔法体系。あるいはソラリア正教が成立する以前の古代文明の自然観。それらに関する文献はどこにありますか?」
俺の問いに、クレメントは苦々しい表情で首を振った。
「……それこそが猊下が最も厳しく禁じている領域です。アカデミーの歴史学は『大崩落』をもって始まります。それ以前の歴史は神々の時代の神話としてのみ語られ、学術的な研究の対象とすることは固く禁じられているのです」
彼はまるで自らの無力さを告白するかのように俯いた。
「……恥ずかしながら私自身、若い頃はその禁忌に挑もうとしたことがあります。治癒魔術の限界――失われた四肢がなぜ再生しないのかという疑問から生命そのものの定義にまで踏み込もうとしました。ですが、私の指導教官は私の論文を見るなりこう言いました。『君は神の領域を侵すつもりか』と。その一言で私の探求は終わりました。アカデミーという世界で学者として生き続けるためには、見て見ぬふりをするしかない真実があるのです」
彼の告白は、この世界の学問がいかにして去勢され骨抜きにされてきたかの生きた証言だった。
真理の探求者であるはずの学者が自らその目に枷をはめている。アウグストゥスが構築した思想的牢獄は、俺が想像していた以上に強固で根深いものらしかった。
「……ですが」
クレメントは何かを思い出すようにふと顔を上げた。その声はまるで禁断の果実の存在を囁くかのようにひそやかだった。
「……あくまで噂です。アカデミーの地下深く……その場所を知る者さえほとんどいない場所に、一つの書庫が存在すると言われています」
(……来たか)
俺の思考OSが彼の言葉に含まれる情報の特異性を検出し、記録を開始する。
「その名は、『禁断の書庫』」
クレメントはその名を口にすること自体を恐れるかのように声を震わせた。
「そこには建国以来のあらゆる文献が――ソラリア正教によって異端とされ、その存在自体が歴史から抹消されたはずの禁書たちが眠っている、と。神聖な教義に反するとされ封印された古代文明の文献。世界の理を我々とは全く異なる視点から記述した危険な知識が……」
彼はまるで夢見るような、それでいて悪夢にうなされるような目で虚空を見つめていた。
「かつて時間を操る魔法を研究し、因果律に触れたことで自滅したという魔術師の一族がいたそうです。その研究資料も。あるいは生命そのものを創り出そうとした神をも恐れぬ錬金術師が遺した設計図も。そして……『公理の構築者』が大崩落を引き起こす直前に記したという最後の日記さえもが、そこに封印されていると……」
その言葉を聞いた瞬間。
この世界に転生して以来初めて経験する、純粋で暴力的なまでの知的興奮に貫かれた。
これまで冷静な観測者として機能していた俺の翠色の瞳が初めて抑えきれないほどの強い光を宿したのを、クレメントは恐怖と共に見つめていた。
(『禁断の書庫』……つまりこの世界の真の物理法則を記述した未発見のデータアーカイブか。ソラリア正教が隠蔽しアウグストゥスが守護する、この世界の根源的なソースコードが眠る場所)
(『公理の構築者』の最後の日記だと? 彼らがなぜ失敗したのか、その原因がそこに記されているというのか? それは俺がこれから進む道の唯一無二の道標になる)
(……行く価値はある。いや、行かねばならない)
(アカデミーという旧式のシステムにアクセスする最大のメリットはそれだ。アウグストゥスとの対決もこの書庫へのアクセス権を得るための布石に過ぎない。俺の理論を証明するための最後のピースがそこにある)
これまで俺にとってアカデミーとは破壊すべき旧世界の象徴であり、乗り越えるべき障害でしかなかった。
だが今、その定義は完全に書き換えられた。
アカデミーは思想的牢獄ではない。
それは俺が求める究極の真理が眠る、攻略すべき最後のダンジョンだ。
「……先生」
俺はクレメントに向き直った。
その瞳に宿る光のあまりの強さに、彼はびくりと肩を震わせる。
「アカデミーへの入学資格を得るための最も効率的な方法を提示してください。そして、私を入学時、首席で入学させるための完璧な教育カリキュラムを今すぐ設計します」
その言葉はもはや生徒が教師に教えを乞うものではなかった。
探検家が宝の地図を発見し、その探検計画の立案を命じる絶対的な司令官の響きを持っていた。
クレメントは俺のその瞳を見て全てを悟ったようだった。
俺がこの世界の最大の禁忌に何の躊躇もなく手を伸ばそうとしていることを。
そして自分がその恐るべき探求の最初の案内人になってしまったことを。
「……しょ、承知、いたしました。ゼノ様」
彼がかろうじて絞り出したその声は恐怖に震えながらも、どこか嬉しそうに聞こえたのは俺の気のせいだっただろうか。
彼の学者としての魂もまた、禁断の果実の香りに抗いがたく惹きつけられているのかもしれない。
俺の孤独で合理的な探求の道に、初めて明確で、そして何よりもエキサイティングな『目的』という名の北極星が輝いた瞬間だった。
ソラリア魔術アカデミー。そしてその最深部に眠る『禁断の書庫』。
待っていろ。
お前という巨大なブラックボックスを、この俺が根源から解き明かしてやる。




