アカデミーの壁
深夜の書斎。
そこはもはや父サイラスが意図したような子供の教育部屋ではなかった。蝋燭の灯りに照らされたその空間は、世界の法則を再定義しようとする二人の共犯者が集う異端の聖域と化していた。
「……素晴らしい。実に美しい……」
床に広げられた羊皮紙を前に、クレメント・マリウスは恍惚のため息を漏らした。
彼の視線の先にあるのは、俺がこの数週間で描き上げた詠唱という非効率なプロトコルを完全にバイパスするための基礎数式だ。
前世の言語学と情報理論を応用し、伝統的な詠唱に含まれる冗長な儀礼的賛辞やエラー訂正コードといったノイズを削ぎ落とし、魔法の本質的なコマンドだけを抽出して数学的に再記述したもの。それはこの世界の魔法の歴史を数世紀は先に進める革命の設計図だった。
「この理論が完成すれば……詠唱の才能に恵まれなかった者でも、努力と理解次第で高位の魔術師を目指せるようになる。これは魔法教育の歴史における一大革命です、ゼノ様!」
クレメントの瞳は純粋な知的興奮にきらめいていた。
彼はもはや俺の理論に怯えるだけの小心な学者ではない。その危険性を理解した上で、その先に広がる新しい世界の可能性に魅せられた真理の探求者だった。
だが、その興奮は長くは続かなかった。
ふと、彼の顔から血の気が引くように表情が曇り、その瞳に深い絶望の色がよぎったのを俺は見逃さなかった。
「……しかし」
クレメントは絞り出すような声で言った。
「この理論は……このあまりにも美しく合理的な理論は、決してアカデミーでは認められないでしょう」
その言葉は彼の学者としての魂が発した悲痛な叫びだった。
俺はペンを置いた。
(……来たか。俺の予測モデルにおける最大の不確定要素。この世界の『社会物理学』という名の非論理的な壁)
「なぜです?」
俺は純粋な子供の疑問を装って問いかけた。
「論理的に正しく、より効率的で、より多くの人々に利益をもたらす理論がなぜ認められないのですか? アカデミーとは、真理を探求する場所ではないのですか?」
俺の問いにクレメントは力なく首を振った。
「……かつては、そうだったのかもしれません。ですが、今のアカデミーは違います。あれは真理を探求する府などではない。ソラリア正教が定めた『完成された世界の法則』を守護するための思想的な要塞なのです」
彼の言葉は俺がこれまで漠然と抱いていた仮説に明確な輪郭を与えた。
この世界の学問は未知を発見するためにあるのではない。既知の真実を再確認し続けるためにあるのだ。
「……考えてもみてください、ゼノ様」
クレメントの声はまるで禁忌を語るかのようにひそやかだった。
「もし、あなたの理論が正しいと認められたらどうなりますか? 魔法が神への祈りではなくただの情報処理プロセスであると証明されたら? 詠唱の才能や血筋に関係なく、知性さえあれば誰でも世界の法則にアクセスできるようになったら? それは神から与えられた権威によって成り立っているこの帝国の秩序そのものを根底から覆すことになります。貴族の優位性も、教会の権威も、全てが無意味になる」
(……なるほど。実に合理的だ。彼らは真理の探求による利益よりも現状の秩序を維持することによる利益を優先している。システムの安定性をその進化よりも優先する。旧弊なシステムに共通して見られる典型的な自己保存本能だ)
「そして、その秩序の番人こそが……」
クレメントはまるで恐ろしい魔物の名を口にするかのように声を震わせた。
「ソラリア魔術アカデミーの長にしてソラリア正教の大司教でもあるあのお方なのです」
沈黙。
俺はただ彼の次の言葉を待った。
クレメントはゴクリと唾を飲み込み、ついにその名を口にした。
「アウグストゥス・セロン猊下。……人々は畏敬と恐怖を込めて彼をこう呼びます。『秩序の柱』と」
アウグストゥス・セロン。
その名は俺の思考OSに初めて明確な『敵対者』としてインプットされた。
「猊下はアカデミーの歴史上、最も若くしてその頂点に立たれた天才です。彼の専門は『法魔術』と『神聖論理学』。その知性は、未知の真理を探求するためではなく、ただ一点……ソラリア正教の教義を、一分の隙もない完璧な論理体系として再構築し、あらゆる異端の思想をその論理の刃で断罪するためにのみ捧げられています」
クレメントは震える声で語り続けた。
アウグストゥスがいかにして、既存の理論にわずかでも疑問を呈した学者たちを『異端者』として学会から追放し、その研究成果を社会的に抹殺してきたか。
彼がいかにして、かつて大陸全土を焼き尽くしたという禁断の魔法戦争『赤き月の戦争』の悲劇を二度と繰り返さないという大義名分を掲げ、あらゆる新しい魔法理論の芽を、それが危険であるかどうかの検証さえ行わずに摘み取ってきたか。
そして、彼がいかにカリスマ的な弁舌で貴族や民衆の支持を集め、自らを神が定めた秩序の唯一絶対の守護者として君臨しているか。
「……猊下にとって、世界の法則は神が定めた完璧な設計図なのです。それを人間の矮小な知性で解析し、ましてや改変しようなどという試みは、神への最大の冒涜に他ならない。あなたの理論は……あなたの『魔法物理学』は、猊下が最も憎み、最も恐れる思想そのものなのです」
クレメントの顔は絶望に染まっていた。
彼は俺の理論の輝きとそれを待ち受ける世界の闇の両方を見てしまったのだ。
だが、俺――34歳の物理学者は、その絶望とは全く異なる反応を示していた。
(アウグストゥス・セロン……なるほど。アカデミーは彼という強力なファイアウォールによって外部の新しい情報から保護されているわけか。システムの硬直化を招く典型的な設計ミスだ。だが、その壁が厚いほどそれを破壊した時のインパクトは大きい。面白い)
恐怖はない。ただ純粋な知的好奇心があるだけだ。
俺の前に立ちはだかるのは無知や蒙昧ではない。俺と同じレベルの知性を持ち、しかし全く異なる公理系で稼働するもう一人の天才。
俺たちの戦いは単なる魔法の撃ち合いではない。世界の真理の定義を賭けた思想闘争になるだろう。
「……先生」
俺は絶望に打ちひしがれるクレメントに静かに声をかけた。
彼ははっとしたように顔を上げる。
俺は7歳の幼児が浮かべるにはあまりにも不釣り合いな冷徹な笑みを浮かべてみせた。
「アウグストゥス・セロン。彼のプロファイルを要求します。公にされている情報、アカデミー内部での評価、そして先生、あなたの個人的な観測データを。可能な限り、詳細に」
その言葉はもはや生徒が教師に教えを乞うものではなかった。
司令官が現地の情報将校に敵将のブリーフィングを要求する冷徹な響きを持っていた。
クレメントは俺のその瞳を見て全てを悟ったようだった。
俺がこの世界の常識という名の壁を前にして一歩も引く気がないことを。
それどころか、その壁の存在そのものを新たな、そして最もエキサイティングな研究対象として捉えていることを。
「……承知、いたしました。ゼノ様」
彼が絞り出したその声はまだ微かに震えてはいたが、そこにはもう絶望の色はなかった。
代わりにあったのは、自らが仕えるべき主君がこれから途方もない戦いを始めようとしているのを悟った一人の臣下の覚悟の色だった。
俺たちの共犯関係はこの夜、新たなステージへと移行した。
俺は、この世界の法則を再定義する革命家。
そして彼は、その革命が打ち破るべき旧世界の壁の構造を内部から俺に知らせる唯一無二の情報提供者。
俺の思考OSは新たな目標を完全にロックオンしていた。
(……目標を再設定する。第一フェーズ:ソラリア魔術アカデミーへの入学。目的はアウグストゥス・セロンという名のOSの直接的な解析。最終フェーズ:彼の構築した論理の壁を俺の論理で完全に破壊し、この世界の真の法則を証明する)
面白い。実に面白いじゃないか。
俺の孤独で合理的な探求の道に、ようやく壊しがいのある壁が現れたのだから。




