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異端賢者の魔導原論  作者: 杜陽月
揺り籠の中の観測者

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書斎の牢獄

 生後一年が経過した。


 俺の身体という名のこの不自由な観測装置は、徐々にその性能を向上させていた。

 おぼつかないながらも四肢の制御が可能となり、意味のある音声を発することもできるようになった。


 だが、俺の探求心を満たすにはあまりにも性能が低すぎた。


 その日、俺は専属の侍女であるリリアに抱きかかえられ、初めて父の書斎へと足を踏み入れた。


「さあ、ゼノ(・・)様。旦那様が呼んでいらっしゃいますよ」


 リリアのオドは常に安定している。

 パラメータは純粋な好意と忠誠心。その行動アルゴリズムは予測可能で、俺にとっては最も扱いやすいヒューマン・インターフェースだった。


 重厚な樫の扉が開かれた瞬間、俺の嗅覚センサーが未知だが懐かしい情報を捉えた。

 古い羊皮紙の匂い、革装丁の香り、そして乾燥したインクの微かな刺激臭。

 それは前世で俺が最も愛した場所……大学の研究室の匂いと酷似していた。


 そして、視覚情報が俺の脳を焼いた。


 壁という壁が床から天井まで、無数の書物で埋め尽くされている。

 背表紙に刻まれた見たこともない言語の文字列。

 それは俺にとってただの文字ではなかった。一つ一つがこの世界の法則を記述した、膨大なデータセットに見えた。


(……情報量だ。圧倒的な、情報量……!)


 俺は物理学者としての本能から、歓喜に打ち震えた。

 この世界の物理法則がここにアーカイブされている。

 俺が揺り籠の中で観測し仮説を立ててきた、あの非効率な魔法体系の全てのソースコードがこの場所には眠っているのだ。


「おお、来たか、私のゼノ(・・)


 声の発生源へと視線を向ける。

 書斎の主、父サイラス(・・・・)が大きな机の向こうで笑みを浮かべて手招きをしていた。

 彼のオドは今日も複雑な波形を描いている。愛情という安定した基調波に、俺の知性に対する畏怖と、そして……期待という名の高周波ノイズが混じっている。


「リリア、ありがとう。少しの間、私と二人にしてくれるかね」

「かしこまりました」


 リリアが俺をそっと床に降ろし、静かに部屋を出ていく。


 サイラスは席を立つと俺の前に屈み込み、その翠眼を覗き込んだ。


「どうだ、ゼノ(・・)。すごいだろう。これらは全て我がヴィリジアン家が代々受け継いできた知の遺産だ。いつか、お前がこの全てを受け継ぐ日が来る」


 彼の言葉は俺の思考を鈍らせる非効率なノイズだった。


 俺は彼の顔を見てはいなかった。

 俺の視線は彼の背後にある本棚……その膨大なデータアーカイブに完全に釘付けになっていた。


(……違う。これは『遺産』などではない)


 俺は内心で彼の言葉を訂正する。


(これは俺が解析し再定義すべき『研究対象』だ。この世界のバグだらけで非効率なOSを、俺の知性で書き換えるためのただのデータセットに過ぎない)


 サイラスは俺の視線が本棚に向いていることに気づくと、満足げに頷いた。


「はは、そうか。お前ももうこの価値が分かるか。さすがは私の娘だ。おいで、ゼノ(・・)。お前に見せたいものがある」


 彼は俺の手を引くと、ある一角の本棚へと導いた。

 そこには他の本とは明らかに違う、豪奢な装丁の書物が並んでいる。


「ここは我がヴィリジアン家が専門とする生命魔法の書架だ。私も若い頃はここに籠もり、世界の神秘を探求したものだ。お前もいずれこの道を歩むのだ。私と、共に」


 彼の声に含まれる熱量は俺の理解を超えていた。


 彼は俺に『共感』を求めている。

 父と娘として同じ道を歩むことを期待している。


 その感情は俺の探求の邪魔になる。


(思考を切り替える。彼の感情パラメータは俺の目的達成において、現時点では不要な変数だ。フィルタリングし、無視する)


 俺は意識的に、彼から発せられる全ての非言語的情報をシャットアウトした。

 彼の期待に満ちた眼差しもその声の温かみも、俺の思考からはじき出されたただのノイズとなった。

 俺の意識はただ目の前の書物……その情報の海だけを捉えていた。


 早く、読みたい。

 早くこの世界の言語を完全にマスターし、この膨大なデータを俺の脳にインストールしたい。

 そして、この世界の法則のなんと愚かで、なんと非効率であるかをこの手で証明したい。


 その渇望が俺の全身を支配した。

 だが、その瞬間、俺は自らの置かれたもう一つの現実に気づかされる。


 俺の小さな手はまだ、分厚い魔導書の表紙をめくることさえできない。


 俺の目はまだ、その複雑な文字を意味のある情報として認識できない。

 俺の足はまだ、この書斎の中を自由に歩き回ることさえ許されない。


 俺は知の海を目の前にしながら、その一滴にさえ触れることができない無力な赤子なのだ。


(……そうか。ここは、牢獄か)


 歓喜は一瞬で絶望へと反転した。

 この書斎は知の宝庫などではない。

 俺の知性をこの矮小な肉体という檻の中に閉じ込める、美しく、そして残酷な知的な牢獄だ。


 俺はゆっくりと顔を上げた。

 目の前には俺の輝かしい未来を信じて疑わない、父の笑顔があった。

 その笑顔さえも今の俺には、牢獄の壁に描かれた残酷な絵画にしか見えなかった。


(……征服してやる)


 俺は心の奥底で静かに誓った。


(まずはこの身体を完全に制御する。次にこの世界の言語を完全にマスターする。そして、この書斎という名の牢獄を……この世界の全ての知識を、俺の支配下に置いてやる)


 それは桐山徹の魂が、この世界に対して初めて抱いた明確な『野心』だった。

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