鏡としての他者
フリント・ロックが何気なく放った一言――「そのお姫様は、何が欲しいんだ?」
俺はロザリンド・フォン・エーデルシュタインという名の生ける混沌を、間違ったアプローチで解析しようとしていたのだ。
俺は彼女の行動の『論理』を探していた。だが彼女の世界に、俺が知るような論理は存在しない。
彼女の世界を支配する唯一の法則。
それは『素敵』『楽しい』『可愛い』といった彼女自身の主観的な満足度を最大化するという、極めて単純な目的関数だった。
時計塔の最上階。俺たちの城と化したその場所で、俺は床に広げた羊皮紙に新たな数式を構築していた。
それはもはや彼女の行動を予測するためのモデルではない。彼女の行動を、俺が望む結果へと誘導するための制御モデルだ。
(個体名、ロザリンド・フォン・エーデルシュタイン。目的関数:自身の感情的効用(素敵、楽しい、可愛い)の最大化。ならば、私が実行すべきは彼女の行動を否定し、私の論理を押し付けることではない。私が達成したい目的――例えば、研究に必要な情報を持つ有力貴族との接触――を、彼女の目的関数が最大化されるような『ゲーム』として再定義し、彼女に提示することだ。彼女の非論理性をハッキングするのではない。彼女の非論理性そのものを、私の目的を達成するためのエンジンとして利用するのだ)
「……先生、また気味の悪い顔してブツブツ言っているぞ。そのお姫様の呪いは、まだ解けていないのか?」
窓枠に腰掛け、眼下に広がる煤壁通りを眺めながら、フリントが呆れたように言った。
「呪いではありません。これは極めて高度な知的挑戦です。そして、私はその解答の糸口を掴んだ」
俺は立ち上がり、フリントに向かって構築したばかりの新たな戦略の概要を説明した。
「……はぁ? つまり、あれか? そのお姫様をあんたの都合のいいように、手のひらの上で転がすってことか? まるで墓守のオヤジにしたみたいに?」
「違います。墓守との交渉は、情報の非対称性を利用した単純な取引でした。ですが、ロザリンド様は違う。彼女は金銭や情報といった合理的な対価では動かない。彼女を動かす唯一の通貨は、『楽しさ』や『素敵さ』という極めて主観的な感情エネルギーだけです。故に、私は彼女に『取引』を提案するのではない。『最高の遊び』を提供するのです」
俺の言葉に、フリントは心底理解できないという顔で首を振った。
「……分かんねえ。俺には、あんたもお姫様も、どっちもイカれているようにしか見えねえな。ま、それで金になるなら、俺は文句はねえがよ」
彼の言うとおりだ。この戦略は、俺の知性が初めて非論理的な『感情』という変数を計算式に組み込む試みだった。
成功確率はまだ算出できない。だが、この実験は俺がこの世界を理解する上で避けては通れない道だった。
そして実験の日は、またしても母ヘレナによる『政治的投資』という名の強制召喚状によってセッティングされた。
四度目となる、エーデルシュタイン公爵家の茶会。
もはや俺にとって、この壮麗な庭園はただの知的戦場だった。
俺の姿を認めたロザリンドが、今日もまた太陽のような笑顔で駆け寄ってくる。
「ゼノちゃん! お待ちしておりましたわ! さあ、今日はどんな素敵な遊びをいたしましょう? おままごと? それともお城作り?」
彼女の瞳は、純粋な期待にきらめいている。俺が彼女の非論理的なゲームの盤上に戻ってくることを、微塵も疑っていない。
だが、今日の俺は違う。
「ロザリンド様。本日は、私から一つの新しい遊戯をご提案してもよろしいでしょうか」
俺は彼女のペースに巻き込まれる前に、先手を打った。俺の言葉に、ロザリンドは意外そうに、しかし興味深そうにぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「まあ、ゼノちゃんから? どんな遊びですの?」
「その名も、『秘密の友人を探す、大冒険ゲーム』です」
俺は、この日のために用意した完璧なプレゼンテーションを開始した。
「この庭園には、まだ我々が知らない素敵なお友達がたくさん隠れています。ですが、彼らはとてもシャイで、ただ待っているだけでは見つけることができません。我々は勇敢な探検家となって彼らが隠れている場所を探し出し、『秘密の合言葉』を伝えることで、彼らを仲間にするのです」
(目的:母ヘレナから指示された、有力貴族三名への挨拶。勝利条件:三名全員に接触し、挨拶を完了させること。行動の制約:貴族社会の礼儀作法を逸脱しないこと。そして、この退屈なタスクを、ロザリンドの目的関数――『楽しさ』と『素敵さ』――を最大化するゲームへと完全に再定義する)
俺の提案を聞いたロザリンドの青い瞳が、星のように輝いた。
「まあ、素敵! 素敵ですわ、ゼノちゃん! まるで本物の冒険のようですわね! やりますわ! わたくし、やりますわ!」
(……第一関門、突破。ターゲットは、私が設計したゲームのコンセプトに完全に同意した)
俺は内心で安堵しつつ、ゲームの具体的なルール説明へと移行した。
「まず、これが『冒険の地図』です」
俺はエリアナに頼んで用意させておいた庭園の簡単な見取り図を広げた。そこには俺が目標とする三名の貴族が、現在滞在しているであろう場所に可愛らしい花の印が描かれている。
「そして、これが『秘密の合言葉』です」
俺はもう一枚の羊皮紙を見せた。そこには貴族社会における、極めて形式的で退屈な挨拶の定型文が書かれている。
「この合言葉を、花の印の場所にいる『秘密の友人』に正しく伝えることができれば、我々の勝利です。よろしいですね?」
「はいですわ、騎士様!」
ロザリンドはすっかり『探検家の相棒』になりきって、元気よく敬礼した。
俺たちの奇妙な冒険が始まった。
最初のターゲットは、魔法技術に造詣が深いことで知られるマルケス侯爵。彼は庭園の東屋で、他の年配貴族たちと談笑していた。
「ロザリンド様。最初の花の印は、あの東屋です。ですが、あそこには見張りの大人がたくさんいます。我々は彼らに気づかれずに、目標に接近しなければなりません」
俺がそうささやくと、ロザリンドは「まあ、スパイのようですわね!」と目を輝かせた。
俺たちは植え込みの影から影へと、身をかがめて移動する。
それは俺がヴィリジアン邸を脱出した際の行動の完璧な再現だった。だが今回は隣に、この非論理的なゲームを心の底から楽しんでいる無垢なる支配者がいる。
東屋に近づくと、俺はロザリンドに合図を送った。
「今です。行きましょう」
俺たちは、まるで示し合わせたかのように同時に植え込みから飛び出した。そして何事もなかったかのように、優雅な足取りでマルケス侯爵の元へと向かう。
「まあ、これはロザリンド様。ごきげんよう」
侯爵は孫娘を見るような、優しい笑みでロザリンドに挨拶した。
「ごきげんよう、マルケス侯爵様! わたくし、今、素敵なお友達を探す冒険をしているのですわ!」
ロザリンドの突拍子もない言葉に、侯爵は一瞬きょとんとしたが、すぐに楽しそうに笑った。
「ほう、それは面白い。して、その冒険は首尾よく進んでおるかな?」
「はいですわ! そして、わたくしの勇敢な騎士様が、侯爵様にお伝えしたいことがあるそうですの!」
ロザリンドは俺の背中をぽんと押した。完璧なアシストだ。
俺は一歩前に出て、練習通り完璧な淑女の礼をしてみせた。
「マルケス侯爵様。ヴィリジアンが娘、ゼノと申します。母ヘレナより、くれぐれもよろしくとのこと。侯爵様の古代魔道具に関するご高名は、かねてより拝聴しております」
俺が『秘密の合言葉』を淀みなく暗唱すると、侯爵は感心したように、ほうと息を漏らした。
「これはご丁寧に。ヘレナ殿の御令嬢か。噂には聞いていたが、実に聡明なお子だ。こちらこそ、よろしく頼む」
(……第一目標、クリア。接触及び挨拶、完了)
俺たちはその後も、この調子で次々と目標をクリアしていった。
退屈な老貴婦人との会話は「森の賢者様から知恵を授かる試練」に。
気難しいことで有名な将軍への挨拶は「眠れる獅子を起こさずに宝を手に入れるミッション」に。
俺が定義したゲームのルールの上で、ロザリンドはその天真爛漫さを遺憾なく発揮した。彼女の存在は、どんなに退屈で形式的な社交の場も、一瞬で「楽しい遊び」の空間へと変えてしまう。
そして、ついに最後の目標である三人目の貴族への挨拶を終えた時、ロザリンドは「やりましたわ、ゼノちゃん! これで、我々の完全勝利ですわね!」と飛び上がって喜んだ。
その笑顔は、これまで俺が観測してきたどの物理現象よりも、純粋で、そして力強いエネルギーに満ちていた。
その時、俺は気づいてしまった。
彼女の、その純粋な喜びに満ちた顔を見て、俺自身の胸の奥がわずかに、しかし確かに温かくなるのを。
(……なんだ、この感覚は? 計画通りにタスクを完了したことによる、論理的な満足感とは明らかに異質のエネルギーだ。これは…)
俺はロザリンドの笑顔の中に、ふと自分自身の姿を見た気がした。
真理の探求という俺自身の純粋な『欲求』のために、フリントを動かし、母を利用し、この世界の法則そのものを俺の都合のいいように書き換えようとしている、俺自身の姿を。
素敵なお友達探しという彼女自身の純粋な『欲求』のために、周囲の大人たちを巻き込み、退屈な社交の場を自らのルールで塗り替えていく、ロザリンドの姿を。
俺たちは、違う。俺は論理で動き、彼女は感情で動く。
だが、本当にそうか?
その根源にあるのは、どちらも自らの内なる法則――『欲求』――を世界に押し付けようとする、純粋で、そして傲慢なまでの意志ではないのか?
彼女は、俺の鏡だ。
俺が「非効率なノイズ」として切り捨ててきた、感情や欲望というもう一人の俺の姿を映し出す、鏡としての他者。
俺が彼女の非論理性に苛立ち、恐怖を感じていたのは、彼女が俺自身の『異質さ』を俺に突きつけてくる存在だったからだ。
(……そうか。俺は、ずっと一人だと思っていた。この世界で、俺の論理を理解できる者はいない、と。だが、違ったのかもしれない。この少女は、論理のレベルは違えど、俺と同じ種類の人間なのかもしれない)
その気づきは、俺の思考OSの根幹を静かに、しかし確実に揺るがした。
俺は初めて、他者を単なる観測対象や利用可能なツールとしてではなく、俺と同じように自分だけの法則で世界を見ている『主観』として認識し始めていた。
「ゼノちゃん? どうかしましたの?」
俺が黙り込んでいるのを、ロザリンドが不思議そうに覗き込んできた。
俺は彼女の顔を見つめ返した。その青い瞳に映る、小さな銀髪の少女。それは俺の姿であり、俺ではない誰かだった。
「……いいえ。何でもありません」
俺は静かに首を振った。
「それよりも、ロザリンド様。次の冒険の計画を立てませんか? この世界には、まだ我々が知らない『秘密の友人』がたくさんいるはずですから」
俺の言葉に、ロザリンドは今日一番の笑顔で力強く頷いた。
俺の孤独で合理的な探求の道に、初めて本当の意味での『他者』という、予測不能で非合理的で、そして何よりも興味深い変数が加わった瞬間だった。




