フリントの視点
ここのところ、先生の様子がおかしい。
俺、フリント・ロックは時計塔の最上階、俺たちの城の窓枠に腰掛け、眼下に広がる王都の夜景を眺めるふりをしながら背後の異常な静寂に意識を集中させていた。
床には先日の月長石への投機で稼いだ金貨が、無造作な山を築いている。
数えるのも馬鹿らしくなるほどの、この煤壁通りでは天文学的な金額だ。
普通なら、この輝きを前にすればどんな人間でも欲望に目をぎらつかせる。俺だってそうだ。
この金があれば、煤壁通りの情報網をさらに掌握できるし、もっと安全な寝床も、もっと美味い飯も手に入る。
だが、この金の源泉であるはずの先生――ゼノは、その輝きに一切の興味を示さなかった。
それどころかここ数日、彼は床に広げた羊皮紙を前に、まるで石像のように動かない時間が増えていた。
最初は、また何か新しいとんでもない理論でも組み立てているのかと思った。
彼の頭脳は、ガラクタを金貨に変える本物の錬金術だ。その思考を邪魔するのは、俺たちの利益に反する。
だが、違った。
彼が睨みつけている羊皮紙に描かれているのは、あの難解な古代文明の数式ではない。
そこに描かれているのは、ただの少女の行動記録と支離滅裂な会話の断片だった。
そして、俺の足元にはその原因と思わしき『呪物』が転がっている。
リボンや花びらで悪趣味に飾り付けられた、木製のからくり箱。先生が「論理の結晶」だとか言って持ち出したはずの、見る影もないガラクタだ。
(……あの茶会とかいう貴族の遊びに参加してからだ。先生の歯車が、明らかに狂い始めたのは)
俺の思考は、常に現実的なリスクとリターンを計算する。先生のこの異常な状態は、俺たちの事業における最大のリスクだ。原因を特定し、排除しなければならない。
考えられる可能性はいくつかある。
仮説1:何者かによる脅迫。あの『灰色の猟犬』の残党か、あるいは俺たちの成功を嗅ぎつけた別の組織か。
検証1:可能性は低い。物理的な脅威に対して先生は常に冷静で、むしろ楽しんでいる節さえあった。あの音も光もなく敵を無力化する気味の悪い『物理学』がある限り、並大抵の暴力は彼にとって脅威たり得ない。
仮説2:金銭的なトラブル。
検証2:あり得ない。目の前にある金貨の山がその証明だ。
(……駄目だ。俺の知っている法則じゃ、この状況は説明できねえ)
俺は、煤壁通りで生きるための物理学をその身に叩き込んできた。
欲望は引力だ。恐怖は斥力だ。情報はエネルギーであり、金は全てを動かす万有引力だ。
それが、俺の世界の法則だった。
だが、先生が今直面している問題は、そのどれにも当てはまらない。
あれは、利益にならない悩みだ。
そんな非生産的なものに、この天才の頭脳が占拠されている。その事実が、俺を苛立たせた。
俺は窓枠から飛び降り、彼の前に立った。
「おい、先生。いい加減にしろよ」
俺の言葉に、ゼノはゆっくりと顔を上げた。その翠色の瞳は、いつもは世界の真理を映しているはずなのに、今は出口のない迷宮を彷徨っているかのように深く、そして暗く淀んでいた。
「……フリント。何か用ですか」
「用があるのはこっちだ。あんた、ここ数日何をやってやがる。そのガラクタみたいな絵を睨みつけて、金になるのか、そりゃ」
俺が羊皮紙を顎でしゃくると、ゼノは力なく首を振った。
「……なりません。それどころか、私の思考リソースの九割以上を消費し、全ての研究計画に遅延を発生させている、極めて非合理的な事象です」
「だったら、さっさと捨てちまえよ。そんなものに悩んでいるあんたは、先生じゃねえ。ただの、突っ立った人形だ」
俺の言葉は、思ったよりも辛辣に響いた。だが、事実だ。
俺が契約したのは、この世界の法則さえも書き換える、傲慢で冷徹で、そして誰よりも自由な知性だ。こんな、訳の分からないことで立ち止まるような、腑抜けた頭脳じゃない。
俺の言葉がトリガーになったのか、ゼノは初めてその瞳に明確な苦悩の色を浮かべ、絞り出すように言った。
「……分からないのです。私の論理が、通用しない。私の予測モデルが、機能しない。あの個体――ロザリンド・フォン・エーデルシュタインは、私がこれまで観測してきた、いかなる物理法則にも従わない。彼女は、純粋な混沌そのものだ。私の知性は、秩序を解析するためには機能するが、法則のない混沌を前にしては、完全に無力化される。これは…私の存在意義そのものを揺るがす、致命的なバグです」
その声は、震えていた。
俺は、初めて見た。この、神でさえも研究対象としてしか見ないような男の、弱音というものを。
(……なるほどな。こいつは、本気で悩んでいるのか。金でも、暴力でもなく、ただ『分からない』ということだけで)
俺には、彼が言う『論理』だの『OS』だのは、さっぱり分からない。だが、一つだけ分かったことがある。
こいつは、俺が思っている以上に、どうしようもないガキだということだ。
俺はがしがしと頭を掻きながら、煤壁通りで生きるための最も基本的な法則を、この天才に教えてやることにした。
「……先生よぉ。理屈は分かんねえが、要するに、そいつに勝てねえってことなんだろ?」
「勝ち負けの問題ではありません。解析不能なのです」
「同じことだ。で、そいつをぶん殴って黙らせるってのは駄目なのか?」
「彼女は公爵令嬢です。物理的干渉は、我々の社会的生命を終わらせる最も非合理的な選択です」
「じゃあ、関わらなきゃいいだろ。面倒な奴からは逃げる。それがこの通りの常識だ」
「それも不可能です。母上の命令により、定期的な接触が義務付けられています」
ぶん殴るのも駄目。逃げるのも駄目。なるほど、厄介な状況だ。
だが、そんなものは、この煤壁通りじゃ日常茶飯事だ。
俺は、最後の、そして最も単純な質問を彼に投げかけた。
「……じゃあよ、先生。そのお姫様は、何が欲しいんだ?」
その瞬間、ゼノの動きがぴたりと止まった。
彼の翠色の瞳が、大きく見開かれる。まるで、全く予期していなかった方向から答えの核心を突かれたかのように。
「……欲しい、もの?」
「ああ。どんな奴にだって、欲しいものはあるだろ。金か、名誉か、あるいはただのくだらねえ自己満足か。そいつの『欲望』が分かれば、どう動かせばいいかも分かる。それが、こっちの世界の物理学だぜ」
俺の言葉に、ゼノはしばらくの間、呆然としていた。彼の頭脳が、俺が入力したその単純な変数を猛烈な速度で処理しているのが分かった。
やがて、彼の瞳にいつもの、あの全てを見透かすような冷徹な光が戻ってきた。
「……欲望。目的関数。なるほど。私は、彼女の行動の『論理』を解析しようとしていた。だが、それは根本的な間違いだった。彼女の行動を規定しているのは、論理ではなく、ただ純粋な『欲求』そのもの。…そうだ。なぜ、こんな単純なことに気づかなかった? 彼女は常に言っていた。『その方が素敵じゃない?』と。彼女の行動原理は、常に『素敵』という彼女自身の主観的な満足度を最大化するという、極めて単純なアルゴリズムに基づいていたのか…!」
ぶつぶつと俺には理解不能な言葉をつぶやきながら、ゼノは羊皮紙に新たな数式を書き殴り始めた。
その顔には、もう迷いはない。出口のない迷宮から脱出し、新たな探求の地図を手に入れた、いつものイカれた先生の顔だった。
俺は、それ以上何も言わず再び窓枠に腰掛けた。
俺には、先生の頭の中で何が起こったのか、その十分の一も理解できない。
だが、それでいい。
俺の仕事は、先生の頭脳を理解することじゃない。そのイカれた頭脳が、このクソみたいな現実世界で正常に機能するように守ってやることだ。
先生は、この世界の物理法則を書き換える『頭脳』。
俺は、その頭脳をこの世界の非合理的な暴力から守る『盾』。
それが、俺たちの契約だ。
(……まあ、たまには、盾が頭脳にヒントをくれてやるのも、悪くねえか)
俺は夜景に紛れるヴィリリジアン邸の明かりを見つめながら、誰にも聞こえない声でそうつぶやいた。
俺たちの奇妙な共犯関係は、まだ始まったばかりだった。




