可愛いという名の暴力
ロザリンド・フォン・エーデルシュタインという名の、生ける混沌。
その存在は、精神に一種の知的トラウマを刻み込んだ。
俺の論理体系は、彼女の「素敵じゃない?」というただ一つの非論理的な公理によって二度も完膚なきまでに破壊されたのだ。
時計塔の最上階。俺たちの城と化したその場所で、俺は窓の外に広がる王都の夜景を眺めながら、新たな対ロザリンド戦略を構築していた。
「……先生、まだそのお姫様のことを考えているのかよ。いい加減、諦めたらどうだ? あんたのその小難しい理屈が通じる相手じゃねえんだろ」
床に転がって金貨を磨いていたフリントが、心底呆れたように言った。
「諦めるという選択肢は私の思考OSには存在しません。物理学者は、解析不能な現象を前にした時こそ最も興奮するのです。前回の敗因は明確です。私は、彼女が作り出すゲームのルールを解析しようとした。だが、彼女のゲームに固定されたルールなど存在しない。ならば、今回はアプローチを根本から変更する」
俺はフリントに、そして何よりも自分自身に宣言した。
「今回は、私がゲームの支配権を握る。私がルールを定義し、目的を設定し、彼女を私の論理のフィールドに引きずり込む。混沌を観測するのではなく、秩序の檻に閉じ込めるのです」
そのために、俺は一つの道具を用意していた。
それは父の書斎から持ち出した、古代文明の遺物とされる木製のからくり箱。複雑な歯車と仕掛けで構成された、一種の立体パズルだ。
これならば、目的(箱を開けること)も、ルール(物理法則に従って仕掛けを解くこと)も明確だ。
この論理の塊を前にして、彼女の非論理がどう機能するのか。実に興味深い実験だった。
そして、その実験の機会は俺の予想を遥かに超える形で、唐突に訪れた。
翌日の午後。ヴィリジアン邸の庭園で、俺が侍女エリアナの監視下で日向ぼっこをしていると、門の前に一台の豪奢な馬車が止まった。
そこから現れたのは、蜂蜜色の縦ロールを揺らす、あの無垢なる支配者――ロザリンドだった。
「ゼノちゃん! お見舞いに来ましたわ!」
彼女は、俺が前回の茶会で少し顔色が悪かった(精神的に疲弊していただけだ)ことを理由に、公爵家の権力を行使して一方的に見舞いに来たのだ。
エリアナも他の使用人たちも、公爵令嬢の突然の来訪に恐縮しきっている。
(……なんだと? 敵が、俺の本拠地にまで攻め込んできたというのか?)
俺の思考が警報を発する。だが、同時にこれは絶好の機会でもあった。
ロザリンドは侍女たちに囲まれながら、俺の自室へと案内された。そして、俺がベッドの上に座っているのを見ると、心配そうに眉を寄せた。
「まあ、ゼノちゃん、まだお顔の色が優れませんわね。きっと、退屈だからですわ! わたくしが、楽しい遊びを持ってきてさしあげました!」
彼女が侍女に持ってこさせたのは、美しいドレスを着た人形や小さなティーセット。再び、あの『おままごとの地獄』が始まろうとしていた。
だが、俺は冷静に用意していた実験装置を提示した。
「ロザリンド様。本日は、こちらの遊戯はいかがでしょうか」
俺はエリアナに指示し、あの木製のからくり箱を持ってこさせた。複雑な木組みと表面に刻まれた幾何学模様。それは知的好奇心を刺激する、美しい論理の結晶だ。
「まあ、素敵な箱ですわね! これは何?」
「これは、知恵の箱です。正しい手順を踏まなければ、決して開けることができません。ですが、正しく仕掛けを解けば、中に入っている素敵なお菓子を食べることができます。目的は『箱を開けること』。ルールは『物理法則』。実に論理的で、挑戦しがいのあるゲームです」
俺は、彼女を俺の論理の土俵へと引きずり込むための完璧なプレゼンテーションを行った。お菓子という報酬を設定したのも、彼女の行動を目的へと誘導するための計算された餌だ。
ロザリンドは興味深そうにその箱を受け取ると、小さな指で表面をなぞり始めた。
(……いいぞ。興味を示した。彼女の知性が、この論理的な挑戦を受け入れるか…?)
俺は固唾をのんで彼女の反応を観測していた。
ロザリンドは数分間、その箱を様々な角度から眺め、カチャカチャと動かしていた。だが、その複雑な仕掛けは4歳の子供の手に負えるものではない。
やがて彼女はふと動きを止め、そして俺の全ての予測を根源から破壊する一言を放った。
「……このおうち、なんだか寂しそうですわね」
(……は?)
俺の思考が完全に停止した。
おうち? 寂しそう? なんだそれは。これはパズルだ。ただの木製の箱だ。そこに感情という非論理的なパラメータをなぜ入力する?
「そうですわ! このおうち、窓も扉もなくて真っ暗で、きっと中にいるお菓子さんたちが寂しくて泣いていますわ! かわいそうに!」
ロザリンドの青い瞳が潤んだ。彼女の思考OSは、俺が提示した『パズルボックス』というオブジェクトを、『窓のない寂しい家』という全く別の概念へと一瞬で書き換えてしまったのだ。
「よし、決めましたわ! わたくしたちで、このおうちをもっと素敵で、もっと可愛くしてあげましょう!」
その宣言は、絶対的な法則だった。
彼女は箱を開けるという当初の目的を完全に放棄し、代わりに『箱を可愛く飾り付ける』という全く新しい、そして俺にとっては完全に無意味な目的を、この場の絶対的なルールとして設定したのだ。
これが彼女のやり方か。
俺の論理を否定するのではない。俺の論理そのものを存在しないものとして、自らの法則で上書きする。
これこそが、『可愛い』という名の、抗いようのない暴力だった。
ロザリンドはすぐさまエリアナや他の侍女たちに指示を出し、リボンや色とりどりの花びら、綺麗な石などを集めさせた。
そして俺が論理の結晶として提示したはずのからくり箱を、それらで飾り付け始めた。
「ゼノちゃんも手伝って! この赤いリボンは屋根に飾りましょう! きっと、お菓子さんたちも喜びますわ!」
俺は、なすすべもなかった。
俺の知性は、この状況において完全に無力だった。
俺はただの作業機械と化し、彼女の指示通りにリボンを結び、花びらを貼り付けた。
俺の完璧な実験計画は、彼女の「可愛い」というたった一つの非論理的な価値基準の前に、塵と化した。
数十分後。
あの無骨で知的なからくり箱は、リボンと花とキラキラした石で飾り付けられた悪趣味なオブジェへと変貌していた。
「まあ、なんて素敵なおうちになったのでしょう! これで、中のお菓子さんたちも、もう寂しくありませんわね!」
ロザリンドは自らの創造物を前に、心の底から満足そうに微笑んだ。
彼女は箱を開けていない。中の菓子も手に入れていない。だが彼女は、このゲームに『勝利』したのだ。彼女自身のルールにおいて。
(……敗北だ。完膚なきまでの、知的敗北だ。俺は彼女の土俵で戦おうとして、その土俵ごと彼女の世界に飲み込まれた)
俺が精神的なダメージでぐったりしていると、ロザリンドはその飾り付けられた箱を愛おしそうに俺の手に押し付けた。
「ゼノちゃん、これはあなたに差し上げますわ! わたくしとゼノちゃんの、友情の証ですわ!」
友情の証。
俺の論理を破壊し尽くした、この混沌の塊が。
その日の夜。俺は時計塔――いや、まだ倉庫だった――に戻り、フリントに事の顛末を報告していた。
「……というわけです。俺の論理はまたしても彼女の『可愛い』という名の暴力によって、完全に無力化されました」
俺の報告を聞き終えたフリントは、腹を抱えて笑い転げていた。
「ぶははは! だから言っただろ、先生! あんたの理屈は、お姫様には通用しねえんだって!」
「……ですが、これは由々しき問題です。彼女の思考OSは、俺の知性にとって最大の脅威となりうる」
「脅威ねぇ。そりゃ、あんたにとってはそうだろうな。だがよ、先生」
フリントは笑い涙を拭いながら、一つの真理を俺に突きつけた。
「そいつは、あんたが『普通』じゃねえってだけの話だ。周りを見てみろよ。そのお姫様が『これが可愛い』って言やあ、周りの侍女も貴族も、みんな『そうでございますね』って頷くんだろ? それはな、暴力でもなんでもねえ。それが、この世界の『常識』ってやつなんだよ」
常識。
俺が最も理解できず、最も軽蔑してきた、非論理的な法則の集合体。
「あんたのその頭脳は、確かにすげえ。だがな、先生。そのお姫様は、あんたのその頭脳がなくても、世界を自分の思い通りに動かせる別の『力』を持っているんだ。あんたが物理法則をハッキングするなら、そいつは人心をハッキングする天才ってことだ。どっちが上かなんて、誰にも分かんねえぜ」
フリントの言葉が、俺の思考に深く突き刺さる。
人心のハッキング。
なるほど。それは、俺がこれまで観測してこなかった全く新しい物理学の分野かもしれなかった。
俺は手元にある、悪趣味に飾り付けられたからくり箱を見つめた。
俺の論理の墓標。
そして、俺がこれから解析すべき新たな未知の法則の、最初のサンプルだ。
俺の孤独で合理的な探求の道は、まだまだ始まったばかりだった。




